香油
夏の木漏れ日の下、草の刈り取り作業を終えてのひと休み。
いつものようにアリスとスイバ、ナズナとお茶をしながら、手頃な平らな大理石にクロスを敷いて、珠希は先日買った香油を並べていた。
「えっと、あとはゼラニーム、ラベンド…、それから蒸留水を…」
街の薬屋で教えてもらったレシピのメモを頼りに、理科の実験状態で借りたフラスコの中に垂らした香油を混ぜ合わせる。
最後に蒸留水で稀釈して、元の世界から持ってきたスプレー容器へ。
試しに羽虫が集っている草叢に掛けてみれば、俄に虫が逃げ出した。
「よし…!完成〜!特製虫除け〜!」
某国民的アニメのノリで完成した虫除けを掲げる。
見守っていたアリス達からは拍手が湧いた。
「殺虫効果は無いけど忌避くらいは出来ると思う。使ってみて…!」
はい、どうぞ!と出来たハッカ油虫除けを小瓶に分けて三人に渡し、残った香油の片付けを開始。
近頃、珠希のみならずスイバとナズナも作業中の虫刺されが酷く、虫除けの香を焚いてはいるものの、出回っているものがどれも粉で持ち歩きには不向きだ。故に宮廷の魔導師や薬師にかつての世界で使っていた渦巻き式の開発を頼んでいるが、実用化まではあと一歩。それまでの繋ぎとして今回、ハッカ油の虫除け剤を見繕った次第だ。
ちなみにスプレー容器も同じく開発を依頼している。
「珠希様はこんなものまでお作りになられるとは…!本当に博識ですね!」
残りの香油を詰めた木箱を受け取りつつ、アリスは羨望の眼差し。
「いやー、元住んでたアパートがアシダカ軍曹にムカデまで出たもんでねぇ…」
そう笑いながらも内心は過去の苦い思い出に冷や汗。
ムカデに関して言えば、洗濯機の上に乗せていた洗濯籠の中にいて、気付かず一緒に洗ってしまったことは今もトラウマである。
「アシダカ軍曹?」
「掌くらいでっかい蜘蛛。害虫を食べてくれる益虫なんだけど、大きさが大きさで…」
両手をワキワキと動かし、震え上がるアリスを誂う。
元いた世界では、虫には仕事以外でも悩まされた。というのも、就職当時から住んでいたアパートが築三十年近いオンボロで、周囲を畑に囲まれていた所為で季節の虫のオンパレード。
侵入を阻止しようにも、蚊取り線香は煙で報知器が鳴る上、火元のため留守中は点けられず。虫避けスプレーも殆どが有害物質を含んでいて、室外でしか使えないと撃沈。尚且つ借家の為、臭いへの配慮も求められ、試行錯誤でネットで調べまくった結果、ハッカ油が一番という結論に至った。
(ついでにお風呂に入れてみたり、楽しんだっけなぁ…)
そんな事を思い出しつつ、草刈り後の片付けに勤しむ。
大鎌で豪快に刈り取った草地、進行方向に向かって熊手で刈り草を寄せては手頃な山にし、後ろに続くスイバとナズナがそれをミに詰めては荷車や一輪車に乗せて聖園の片隅に作った腐葉土置き場へと運搬。珠希の集草役とスイバ・ナズナによる運搬役、追いつけ追い越せの一対二の競争を密かに楽しみながら、せっせと片付けること二時間―――。汗を拭い、綺麗さっぱりした作業範囲に達成感を味わいつつ、次は道具の清掃片付け。各種道具の泥を払い、汚れの酷いものや刃物は水洗い。泥を落としてブラシで磨き、水気を払って乾かしつつ、最後に刃物を研いでサビ防止に椿油を差したら、倉庫に道具を仕舞って完了。
倉庫の施錠を確認しつつ、スイバ達と軽く明日の打ち合わせをして、また明日も頑張ろうのご挨拶。
部屋に戻れば、アリスが用意したお風呂と綺麗な服が待っていて、今日の報告書を認めながら夕餉を口に運ぶ。
本当は晩酌と行きたいところだが―――。
「珠希様、そろそろお時間です」
そんな声掛けに頷きながら残るスープを掻き込み、ご馳走様の手を合わす。
バタバタと部屋を出て向かった先は、王宮のとある塔の屋上。
星瞬く夜空の下で待っていた、魔導騎士団長グラジオと副長ゼフィは恭しく頭を垂れた。
「毎晩、すみません…、付き合わせてしまって…」
恐縮と頭を下げ、珠希は苦い顔。
街に出掛けてからと言うもの、彼女は夏至祭に向けて夜な夜な舞の練習に明け暮れている。
悲しいかな悲しいかな、珠希は大の運動音痴。スタミナと根性で仕事についてはカバーしており、動体視力や瞬発力も人並みながら、これがダンスやスポーツとなった途端にゼンマイ人形さながら。頭では分かっているつもりなのに、手と足の動きを同時にやろうとすると脳内回線がショートする駄目っぷりである。
「いえ、こちらも良い息抜きですので」
そんなグラジオの返しに、申し訳なさが込み上げる。
足元のレンガ床には彼女が踊り易いようにと本番の舞台さながらの目印の模様が描かれ、広さも本番と同様。加えて、王子として舞を観ていたからとグラジオは毎晩のように練習に付き合い、リズムを取りやすいようにとこの数日は歌い手もしくはリズム取りとしてゼフィも参戦。至れり尽くせりが過ぎると言うものだ。
「あとはリズム感だけですので頑張りましょう。珠希様は努力家ですから、本番までには間に合いますよ」
ゼフィより慰めの言葉を貰うも、自らの至らぬさが更に身に沁みる。
こんなことなら体力付けの運動がてら社交ダンスなりヒップホップなり習っておくのだった。
「…そろそろ刻限ですね。お開きにしましょう」
夜も更けた頃、懐中時計を手に取ってグラジオは終いを告げる。
珠希は頷いて本番で使う杖を返却。額の汗を豪快に拭い、今日もありがとうございました!と元気に挨拶。
明日の仕事に支障を来す前にと、首巻きタオルで部屋へと駆け戻った。
「いつもながら、爽快で愛嬌のある方だな…」
そんな彼女を見送り、聖女の杖を箱に仕舞いながらゼフィは笑みを零す。
健気なまでに一生懸命で、杖に残る汗の手形からも生真面目さが伺えた。
「確かに快活な方だが、飽くまで聖女だ。手は出すなよ?」
そんなグラジオからの釘刺しに、彼は堪らず声を上げての大笑い。
無い無いと言いたげに煙を払うように手を振った。
「勿論だとも…!私はもう妻しか眼中に無いのでね。苦労した高嶺の花を手放す馬鹿はしないよ?」
鍵を掛けた杖の箱を持ち上げ、小脇に抱えたゼフィは苦笑い。
数年前に彼が念願叶って結婚した新妻は、ヴォタニカリアの青薔薇と謳われる絶世の美女で、男のみならず年若い淑女たちすら虜にした美貌の持ち主。今も尚その人気は衰えず、夫であるゼフィはそんな彼女に尻に敷かれている――否、最早それが生き甲斐である。
「近衛騎士団一の女誑しが、すっかり躾けられたものだな…。新妻様とは上手く行ってるのか?」
「お陰様でね。プラティ伯なんて早く孫の顔を見せろとさ…。で、そう言う君としてはどうなんだ?」
「何がだ?」
あっけらかんと返された言葉に、ゼフィは思わず苦笑い。
「珠希様だよ。お相手としては悪くないんじゃないか?今度の夜会もあるだろう?夏至祭後の…」
彼が言わんとしている事柄は解った。
グラジオは溜息混じりに目を伏せ、舞を指導するに使った床の目印を魔法で掻き消した。
「唯でさえ、我々の勝手に付き合わせてしまっているお方だ。政争に巻き込むのは酷というものだろう。そもそも私は…」
「周りはそう思ってないよ。エリカの正体が白日に晒されれば君の復権もあり得る。何より君の武功は凄まじい。君は三貴将エレウシネを討ち、フィーユ半島を魔王軍の手から守った。廃嫡なんてさえされてなければ今頃…!」
言葉を遮り、返された考えは尤もだ。
しかし、グラジオは否定するように首を振り、手を翳して言葉を止めた。
「その話は無しだ。次のヴォタニカリアの王はローレンと決まっている。異論は認めない」
「それは内輪の話だろう?グラジオ、君には君主としての才覚がある。君は騎士団長で留まっているような器では…!」
「止せ。もう私は政争を生き抜くための牙を持ち合わせていない。投げ込まれたとて、途端に噛み殺されるのがオチだ」
最早聞く耳を持たない彼に、ゼフィは悔しさとも焦りとも取れる表情を浮かべる。
彼等は西のフィーユ半島の砦で出会い、共に魔物を狩りながら切磋琢磨したライバルであり親友だった。いくつもの危機の中、背中を預け合い、共に王城への凱旋を果たし、そうしてここまで登り詰めた。
だからこそ―――。
「グラジオ、俺は君に王になってもらいたいんだ。君が治める国なら魔王も今みたいな挑発行為を止める筈だ。この暗澹な時代の王にはローレン王子はひ弱過ぎる…!」
その言葉を放った途端、グラジオはキッと目付きを鋭くした。
「ゼフィ、言葉が過ぎるぞ?」
黙れとばかりの睨みに心理的にも物理的にも空気が凍り付く。
彼が操る桁違いの魔力を前に、ゼフィは口を噤むしかなかった。流石は賢者としか言いようがない。
この世界の魔法はプログラミングみたいなものだ。己の体内や森羅万象に漂う魔力を、呪文の羅列に因って使いたい形へと変換することで発動する。故に一般的には詠唱や魔法書を必要とするが、彼は感覚的に魔法を使い熟す。
その様は精霊に愛されている証明のようで―――、魔力と親和性が高い王族たる証だった。
「私は唯、静かに生きられさえすれば良い。何にも疎まれず、役目だけを果たせれば…」
溜息混じりに星空を見上げ、そうグラジオは自棄的に思いを吐露。
刹那、瞼を伏せた彼はその脳裏に自然と浮かんだ珠希の屈託の無い笑顔に心を擽られ、肩を竦めた。
「…まあ、強いて言うなれば聖女殿の…、無邪気なあの方が笑っていられる日々を護りたくはあるかな…」
自嘲気味に苦笑を零し、グラジオは何故だかざわめく胸に深呼吸。
それは素朴な独り言。けれど、その胸に残ったむず痒さの事を、人は恋と呼ぶのだと彼はまだ知らなかった。




