5
魔獣が現れてから数日。
村には、まだ緊張が残っていた。
「本当に、殿下が一人で倒したんですか?」
「そうらしい」
「普段はあんなに臆病なのに……」
村人たちは口々に噂している。
その中心人物であるデュランはというと。
「……今日は帰りたくないです」
マリシアの家の前で、しょんぼりしていた。
「またですか?」
「はい」
「魔獣を倒した王子様とは思えませんね」
「あの時のことは忘れてください」
デュランは真剣だった。
「できれば、あの時の僕は存在しなかったことにしたいです」
「無理でしょう」
マリシアは笑う。
すると。
遠くから馬車の音が聞こえてきた。
「……?」
二人が振り返る。
村の入口から、一台の立派な馬車が入ってきた。
馬車には王都の紋章。
その後ろには武装した兵士たち。
「王都から?」
マリシアの表情が曇る。
デュランも立ち上がった。
「……嫌な予感がします」
馬車が止まる。
中から、三人の男が降りてきた。
中央にいるのは、仕立ての良い服を着た中年の男。
彼はマリシアを見ると、一枚の書状を取り出した。
「マリシア・フォン・ベルネ嬢ですね?」
「はい」
「私は王都財務監察局の者です」
男は書状を広げる。
「あなたの父君、ベルネ伯爵には、領地経営における横領の疑いが持ち上がっています」
「……父が?」
マリシアは眉を寄せた。
「はい」
男は淡々と続けた。
「領民から徴収した税の一部が帳簿から消えている。また、王国から領地へ支給された資金についても、不正な流用が疑われています」
「そんな……」
「そこで、あなたにも事情を確認する必要があります」
男が一歩近づく。
「ベルネ伯爵の領地経営について、知っていることをすべて話していただきたい」
マリシアは唇を結んだ。
「私は父の仕事について、詳しいことは知りません」
「本当に?」
「はい」
「では、いくつか質問を」
男がさらに近づこうとした。
その前に。
「そこまでにしてください」
デュランが立った。
男が振り返る。
「……あなたは?」
「デュランです」
「デュラン……?」
男は少し考えた。
「失礼ですが、どちらのデュラン様でしょう?」
「…………」
デュランは困ったように笑った。
「リューネ王国第二王子のデュランです」
男の顔色が変わった。
「……第二王子殿下!?」
兵士たちも慌てて跪く。
「なぜ殿下が、このような場所に……」
「それは僕の事情です」
デュランは穏やかに答えた。
「それより、あなた方の用件について聞きたい」
「先ほど申し上げた通り、ベルネ伯爵の――」
「なぜ、ここへ?」
「……?」
「ベルネ伯爵の横領について取り調べるのであれば、本人のいる領地へ向かうのが普通でしょう」
「娘である彼女から話を聞く必要が――」
「ならば、なぜ武装した兵士まで連れてきたのです?」
男が黙った。
デュランは続ける。
「しかも、ここはリューネ王国の国境内です」
「…………」
「我が国の領土で、王太子の知己を尋問するのであれば、事前にこちらへ正式な通達するのが最低限の礼儀では?」
声は穏やかだった。
怒鳴っているわけでもない。
威圧しているわけでもない。
それなのに。
男は言葉を失っていた。
「しかし、これは王国の正式な――」
「その書状を見せてください」
「……」
男が差し出す。
デュランは受け取り、じっくりと目を通す。
そして。
「……おかしいですね」
「何がです?」
「財務監察局の正式な調査命令なら、調査対象となる人物と範囲が明記されているはずです」
「…………」
「ですが、この書状にはありません」
デュランは顔を上げた。
「これでは、あなた方が勝手に調査対象を広げることができます」
「それは……」
「つまり」
デュランの目が細くなる。
「正常な手続きを踏まずに、マリシアさんを連れて行くつもりだったのではありませんか?」
男の顔が強張った。
「滅相もない!」
「そうですか」
デュランは書状を返す。
「では、正式な命令を持って出直してください」
「殿下、しかし――」
「帰ってください」
声は静かだった。
けれど。
今度は、王子としての命令だった。
「この村は僕の国の庇護下にあります。許可なく人を連行することは認めません」
「…………」
男は渋々頭を下げた。
「承知しました」
馬車へ戻っていく。
デュランは、その背中をじっと見送っていた。
やがて馬車が見えなくなる。
マリシアが口を開いた。
「……ありがとうございました」
「いえ」
デュランは答える。
「でも」
少しだけ表情を曇らせた。
「僕は、あの人たちを信用していません」
「なぜですか?」
「ただの役人らしからぬ殺気を放っていた」
「殺気?」
「はい」
デュランは腕を組む。
「外套の下では短剣を握っていたのも、体のバランスから見て明らかでした。最初から暴力に訴える気でいたのでしょう」
マリシアは黙る。
「しかも」
デュランは続けた。
「馬車が入ってきた音から換算して。あの者たちは、村に入ってから誰に尋ねることもなく迷うことなくまっすぐにマリシアさんの家に来た」
「……では?」
「誰かが教えたのでしょう」
デュランの目が鋭くなる。
「あなたがここにいることを知っている誰かが」
その日の夜。
マリシアは家の中で眠っていた。
しかし。
デュランは城へ戻っていなかった。
「殿下」
村外れの小さな建物。
そこに、昼間とは別人のような顔をしたデュランがいた。
目の前にいるのは、王国の情報部に所属する男。
「調べてください」
「何を?」
「ベルネ伯爵家の横領疑惑」
「……承知しました」
「ただし」
デュランは声を落とした。
「表立って調べてはいけません」
「理由をお聞きしても?」
「こちらが調べていると知られたら、証拠を消されてしまうかもしれない」
男は頷く。
「それほど怪しいと?」
「僕の勘です」
「殿下の勘ですか」
「……あまり信用できませんか?」
「いえ」
男は苦笑した。
「殿下の勘は、昔からよく当たります」
デュランは机の上に数枚の書類を置いた。
「まず、ベルネ伯爵領の税収記録」
「はい」
「王都から送られた補助金の記録」
「はい」
「そして、横領を最初に告発した人物」
「……分かりました」
デュランは窓の外を見る。
「それから」
「まだありますか?」
「アルベルト公爵家」
男の目が細くなる。
「婚約破棄した令嬢の元婚約者ですね」
「はい」
「関係があると?」
「分かりません」
デュランは首を横に振る。
「だから調べるんです」
調査は静かに始まった。
一人はベルネ伯爵領へ。
一人は王都の財務記録へ。
一人はアルベルト公爵家へ。
誰にも気づかれないように。
数日後、最初の報告が届いた。
「妙ですね」
調査員が言う。
「ベルネ伯爵領の帳簿上では、税収が大幅に減っています」
「実際には?」
「領民への聞き込みでは、税率は以前と変わっていません」
「つまり」
デュランが言う。
「税を集めた金額と、帳簿上の金額が一致していない」
「はい」
さらに別の報告。
「王都から送られた補助金についても、不自然な点があります」
「どこが?」
「送金先の商会です」
「商会?」
「はい。ベルネ伯爵家と長年取引していた商会ですが――」
調査員が書類を差し出す。
「現在、その商会の実質的な所有者は、アルベルト公爵家と繋がっています」
デュランの目が細くなる。
「……やっぱり」
しかし。
「まだ決めつけないでください」
「はい」
「偶然かもしれません」
デュランは慎重だった。
「証拠が必要です」
そして、すぐにもう一つの報告が届いた。
「殿下」
「どうしました?」
「横領を最初に告発した人物が判明しました」
「誰です?」
「ベルネ伯爵領の元会計官です」
「その人物は?」
調査員は答えた。
「すでに国外へ逃亡しています」
「……」
「しかし、出国前に知人へ手紙を残していました」
「内容は?」
調査員が一枚の紙を取り出す。
「『帳簿を改竄するよう命令された』と」
デュランは紙を受け取った。
静かに読む。
そこにはベルネ伯爵ではなく。
別の人物の名前が書かれていた。
「……なるほど」
デュランは立ち上がった。
「これで繋がった」
「殿下?」
「調べてたところ、伯爵の領地では特殊な魔鉱石の鉱脈が発見されている。恐らく、この権利を我が物にしようという元婚約者一族の計略……でも、まだ足りない」
「まだ?」
「これだけでは、伯爵が無実だと証明するには弱い」
デュランは窓の外を見る。
「もっと確かな証拠が必要です」
その横顔には、普段の臆病な王子の面影はなかった。
争いを嫌い。
できるだけ誰とも敵対したくない男。
けれど。
一度守ると決めた人のためなら。
どこまでも慎重に。
どこまでも冷静に。
そして、決して逃げない。
「マリシアさんを追い詰めた人間が誰であろうと」
デュランは静かに呟いた。
「僕が必ず相応しい報いを与えます」
朝になると、いつものようにデュランはマリシアの家へ向かった。
「おはようございます!」
「おはようございます、デュランさん」
「今日は何をしましょう?」
「そうですね……」
マリシアは少し考える。
「薬草畑の草むしりをお願いします」
「はい!」
昨日までと変わらない。
いつもの二人。
いつもの時間。
けれど。
マリシアは知らない。
自分の知らないところで。
一人の王子が、自分の名誉を取り戻すために冷徹に動き始めていることを。




