4
月明かりの下。
デュランは、一人で魔物の群れへ歩いていった。
「デュランさん!」
マリシアが叫ぶ。
しかし、彼は振り返らない。
いつもの彼なら、魔物の姿を見ただけで青ざめていただろう。
逃げる場所を探し、物陰に隠れていたはずだ。
けれど今は違う。
足取りに迷いがない。
剣を握る手も震えていない。
「グルルル……!」
魔物の一体がデュランへ飛びかかる。
その瞬間。
キィン――!
鋭い金属音が響いた。
デュランの剣が魔物の爪を受け止める。
そして。
「遅い」
一閃。
魔物が地面へ倒れた。
「……え?」
マリシアは目を見開いた。
速い。
あまりにも速い。
次の魔物が横から襲いかかる。
デュランは半歩だけ身体を引いた。
魔物の爪が空を切る。
その懐へ入り込み。
「そこだ」
剣を振る。
また一体。
倒れる。
「すごい……」
誰かが呟いた。
村人たちも、ただ呆然と見ている。
「デュラン殿下が……?」
「魔物を……?」
「一人で……?」
誰も信じられない。
それも当然だった。
この国でのデュランの評判は、決まっている。
――臆病者。
魔物を見れば逃げる。
喧嘩が起きれば隠れる。
軍事訓練では誰よりも早く降参する。
王族らしい威厳がない。
そんな男だと思われていた。
だが。
今、彼の剣を見れば。
その評価が間違っていたことなど、一目で分かる。
「また来るぞ!」
さらに魔物が三体。
デュランは剣を構えた。
「……面倒だな」
その呟きに、マリシアは少し驚いた。
嫌そうだった。
怖がっているわけではない。
むしろ――。
心底、うんざりしている。
「できれば戦いたくないんだけどな」
デュランは小さく息を吐く。
「でも」
視線がマリシアへ向く。
「あなたを守るって決めたから」
次の瞬間。
彼の姿が消えたように見えた。
一歩。
二歩。
三歩。
瞬く間に魔物の懐へ入り込む。
剣が月明かりを描いた。
一体。
二体。
三体。
すべてが地面に倒れた。
「…………」
静寂。
誰も声を出せない。
最後の魔物が倒れたところで。
デュランは剣を鞘へ収めた。
「……終わった」
その途端。
「怖かった……」
へなへなとその場に座り込んだ。
「…………」
村人たちは目を丸くした。
「え?」
「殿下……?」
デュランは両手で顔を覆う。
「怖かった……本当に怖かった……」
先ほどまでの冷たい表情は、どこにもない。
完全にいつものデュランだった。
マリシアは思わず駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「マリシアさん……」
「怪我は?」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
マリシアは彼の腕や肩を確認する。
傷はない。
それを確認して、ようやく胸を撫で下ろした。
「よかった……」
「……心配してくれたんですか?」
「当然でしょう」
「…………」
デュランの頬が赤くなる。
「嬉しいです」
「もう……」
マリシアは呆れたように笑った。
けれど。
その胸の奥には、別の感情が芽生えていた。
この人は怖がりだ。
本当に臆病なのだ。
それでも。
自分が危険にさらされた瞬間だけは、逃げなかった。
魔物を片付けたあと、村人たちはデュランを囲んだ。
「殿下!」
「ありがとうございました!」
「おかげで村が助かりました!」
「本当にありがとうございます!」
デュランは困った顔をした。
「いえ……僕は別に……」
「どうして今まであんなに強いことを隠していたんです?」
一人の村人が尋ねる。
デュランは少し考えた。
「……知られたくなかったからです」
「なぜ?」
「強いと分かると、戦えと言われるから」
村人たちが黙る。
デュランは剣を見る。
「僕は戦うのが嫌いです」
そして、静かに続ける。
「誰かを傷つけるのも嫌いです」
「…………」
「だから、逃げられるなら逃げます」
その言葉には嘘がなかった。
「でも――」
デュランはマリシアを見る。
「逃げたら、誰かが傷つくときだけは……逃げられません」
マリシアの胸が熱くなった。
この人は臆病だからこそ。
怖いものを知っている。
痛みを知っている。
だからこそ、守ると決めたときには誰より強くなれる。
「……デュランさん」
「はい?」
「ありがとうございます」
マリシアは頭を下げた。
「私を守ってくださって」
デュランは慌てる。
「い、いえ! 当然です!」
「当然ではありません」
「……」
「本当にありがとうございました」
マリシアが微笑む。
デュランは顔を真っ赤にした。
「……どういたしまして」
その夜。
魔物の後始末が終わり、村が静かになった頃。
マリシアは一人で家の外に出ていた。
空を見上げる。
星が綺麗だった。
「……不思議な人」
最初は変な人だと思った。
毎日のように贈り物を持ってくる。
畑仕事まで手伝う。
王子なのに城を抜け出す。
臆病で、争いが嫌い。
でも――。
「強いのね」
それだけではない。
強さをひけらかさない。
誰かを傷つけることを喜ばない。
それなのに、大切なもののためなら自分が傷つくことを恐れない。
「……私、どうしてこんなに気になるのかしら」
マリシアは自分の胸元に手を当てた。
少しだけ、心臓が速い。
そのとき。
「マリシアさん」
「!」
後ろから声がした。
デュランだった。
「どうしました?」
「……眠れなくて」
「魔物のせいですか?」
「それもあります」
デュランは苦笑した。
「でも、それだけじゃありません」
「?」
彼は少し迷ったあと。
マリシアの隣に立った。
「僕があなたを守れなかったらと思うと、怖かったんです」
「……守ってくださったではありませんか」
「結果的には」
デュランは夜空を見上げる。
「でも、もっと強くならないといけないと思いました」
「これ以上?」
マリシアは驚く。
あれだけの強さがあるのに。
「僕は臆病だから」
デュランは笑った。
「だから、怖いものをなくすことはできません」
「……」
「でも、怖くても立てるくらいには強くなりたい」
マリシアは何も言えなかった。
デュランは少し恥ずかしそうに続ける。
「あなたの隣にいるなら」
「……私の?」
「はい」
デュランは真っ赤になった。
「僕は、あなたの隣にいたいです」
マリシアの頬も熱くなる。
「……ずいぶん大胆なことを言うのですね」
「い、今のは忘れてください!」
「嫌です」
「えっ」
「忘れません」
マリシアは微笑んだ。
「私も……デュランさんが隣にいてくださると、安心しますから」
「…………」
デュランが固まる。
「デュランさん?」
「……今日はもう帰ります!」
「え?」
「これ以上いると、僕、嬉しすぎて倒れそうなので!」
「ふふっ」
デュランは顔を真っ赤にしたまま、城へ向かって走っていった。
その背中を見送りながら。
マリシアは小さく笑った。
「……本当に、変な人」
けれど。
その声には、もう嫌悪など欠片もなかった。
むしろ――。
少しだけ。
彼が帰ってしまったことを寂しく思っていた。
マリシアの家の前に、また籠が置かれていた。
中にはパンと果物。
そして一枚の紙。
『昨日はありがとうございました』
そこまでは普通だった。
だが、その下には。
『今度は前より早く行きます』
さらにその下。
『できれば、朝から一緒にいたいです』
マリシアは紙を見つめる。
「……朝から?」
その瞬間。
遠くから。
「マリシアさーん!」
デュランの声が聞こえた。
マリシアは思わず笑った。
「本当に来た……」
ところが。
「マリシアさん!」
走ってきたデュランの後ろから、別の騎士が叫んでいる。
「殿下! 今日は重要な会議が――!」
「聞こえません!」
「聞こえているでしょう!」
「マリシアさんと約束したんです!」
「してません!」
「…………」
デュランが止まった。
「……してませんね」
マリシアは吹き出した。
辺境の小さな村に。
今日もまた、臆病者王子がやってきた。




