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「……来ないわね」
気持ちの良い朝。
マリシアは畑の前に立ちながら、ぽつりと呟いた。
昨日のデュラン手紙。
――明日、また来てもいいですか?
そして、その紙の裏には。
――できれば、毎日会いたいです。
あんなことを書いておきながら。
「まだ朝だから、来ないのが普通なのだけれど……」
マリシアは首を振った。
「何を考えているのかしら、私」
昨日会ったばかりの王子だ。
しかも、自分は追放された身。
彼とは住む世界が違う。
そう思っていた。
ところが。
「マリシアさーん!」
遠くから声が聞こえた。
マリシアが振り返る。
「……まさか」
坂道を、一人の青年が走ってくる。
息を切らしながら。
「お、おはようございます!」
「デュランさん」
「はい!」
デュランは嬉しそうに笑った。
その手には、今日も大きな籠がある。
「また食べ物ですか?」
「はい!」
「昨日もいただきましたよ」
「今日は別のものです」
籠の中には、焼きたてのパンと卵、果物、それから小さな瓶が入っていた。
「これは?」
「蜂蜜です」
「蜂蜜?」
「王都の職人が作ったものです。とても美味しいんですよ」
「そんな高価なものを……」
「僕が持ってきたかったので」
デュランはにっこり笑った。
マリシアは困ったように笑う。
「……ありがとうございます」
「いえ!」
それだけでデュランは幸せそうだった。
朝食を終えると。
デュランは畑を見回した。
「今日は何をしますか?」
「昨日植えた薬草の様子を見ます」
「僕もやります」
「王子殿下が?」
「……その呼び方は」
デュランが困った顔をする。
「できれば、デュランと呼んでください」
「ですが……」
「お願いします」
あまりにも真剣な顔をするので。
「……分かりました。デュランさん」
「はい!」
嬉しそうだった。
マリシアは思わず笑う。
「では、デュランさん。そこの水を運んでもらえますか?」
「分かりました!」
デュランは桶を持った。
そして。
「…………」
止まった。
「どうしました?」
「重いです」
「……そうでしょうね」
「これ、毎日?」
「はい」
「……」
デュランはしばらく桶を見つめた。
「マリシアさんはこれを毎日……」
「王子でも、水は重いですよ」
「ですよね……」
それでも彼は一生懸命運び始めた。
ふらふらしながらも、何度も往復する。
「デュランさん、無理をしなくても――」
「大丈夫です!」
「顔が大丈夫ではありませんよ」
「大丈夫です!」
最後の一往復を終えたところで。
どさっ。
デュランは地面に座り込んだ。
「……疲れました」
「お疲れ様です」
マリシアは笑いながら水を渡した。
デュランは嬉しそうに飲む。
「畑仕事って、大変なんですね」
「ええ」
「でも……」
彼は畑を見渡した。
「楽しいです」
「どうして?」
「あなたと一緒だから」
「…………」
マリシアは返事に困った。
デュランは何でもないことのように言っている。
けれど。
その言葉は、確実に彼女の胸を揺らしていた。
昼頃。
村の子供たちがやってきた。
「お姉ちゃん!」
「マリシアお姉ちゃん!」
子供たちは畑の周りを走り回る。
その中の一人がデュランを見る。
「誰?」
「この方は――」
マリシアが答える前に、デュランがしゃがみ込んだ。
「こんにちは」
「こんにちは!」
「僕はデュランです」
「おじちゃん?」
「お、おじ……!」
デュランの顔が引きつる。
マリシアは吹き出した。
「ふふっ」
「笑わないでください!」
「ごめんなさい」
子供たちは楽しそうに笑っている。
「デュランおじちゃん、何してるの?」
「おじちゃんではありません……」
デュランは苦笑しながら答えた。
「畑のお手伝いをしているんだ」
「王子様なんだよね!」
その言葉に。
デュランが固まった。
「…………」
マリシアも固まる。
「え?」
子供は首を傾げた。
「だって、村の人が言ってたよ。王子様が毎日ここに来てるって」
「…………」
デュランの顔が青ざめた。
「そ、それは……」
マリシアは彼を見る。
「本当なのですか?」
「……はい」
「毎日来るつもりだったのですね?」
「はい」
「どうして?」
デュランは俯いた。
「……会いたいからです」
まただった。
彼は恥ずかしそうにしながらも、嘘はつかない。
「マリシアさんといると、安心するんです」
その言葉を聞いた瞬間。
マリシアの胸が、少しだけ痛んだ。
王子なのに。
この人は一人なのかもしれない。
城にいても、誰にも本当の自分を見てもらえない。
だからこそ。
ここへ来るのだろう。
「……それなら」
マリシアは微笑んだ。
「いつでも来てください」
「え?」
「私も、デュランさんと話すのは楽しいですから」
デュランは目を丸くした。
「……本当に?」
「はい」
「迷惑では?」
「全然」
「毎日でも?」
「毎日でも」
デュランの顔が一気に明るくなった。
「ありがとうございます!」
子供たちが笑う。
「デュランおじちゃん、よかったね!」
「だからおじちゃんはやめてください……」
その日の夕方。
デュランが帰ったあと。
マリシアは村長の家を訪ねた。
「村長。少し相談があります」
「何でしょう?」
「この村には、魔物の被害が多いと聞きました」
村長の表情が曇る。
「ええ……」
「最近も?」
「少し前までは、森の奥に魔物が出る程度だったのですが……」
村長はため息をつく。
「ここ数日は、村の近くまで下りてくるようになりまして」
「危険ですね」
「国境近くですからな」
村長は困った顔をする。
「王国から兵士が来てくれればいいのですが……」
「デュラン王子殿下は?」
マリシアが尋ねる。
村長は少し驚いた。
「殿下ですか?」
「はい」
「……殿下は、魔物が大の苦手でして」
「苦手?」
「ええ」
村長は苦笑した。
「争いごとそのものを嫌われる方ですからな」
「……そうですか」
マリシアはすぐに納得した。
あれだけ優しい人なら。
確かに戦うことは好きではないだろう。
それは仕方ない。
人には向き不向きがある。
だが、王族として国民の平穏を守るのも大切な役目なはずだ。
そうなった時、彼が重圧に苦しまないように心から祈った。
その夜。
城では。
「殿下!」
大広間に怒声が響いていた。
国王の前で、デュランは小さくなっている。
「また一日、政務を放棄したそうだな」
「……申し訳ありません」
「どこへ行っていた?」
「……」
「言え」
デュランは観念した。
「村です」
「またか!」
国王が頭を抱える。
「お前は王子なのだぞ!」
「はい……」
「剣の腕もある。魔法も使える。政治の知識も十分だ」
「……はい」
「なのに、なぜ逃げる!」
デュランは俯いた。
「争いたくないからです」
「…………」
「僕は、誰かを傷つけるのが怖い」
静かな声だった。
「だから……できるだけ争いが起きないようにしたいんです」
国王は何も言わなかった。
だが、その場にいた騎士の一人が笑った。
「相変わらずですな、臆病者王子は」
別の騎士も笑う。
「魔物が出たら真っ先に逃げるでしょう」
「王子がそれでは困りますな」
デュランは黙って聞いていた。
反論しない。
怒らない。
ただ、俯いている。
そして――。
誰も気づかなかった。
彼の手が、強く握り締められていたことに。
その翌朝、マリシアの家の前にデュランはなかなか現れなかった。
「……今日は遅いわね」
昼になっても来ない。
夕方になっても。
来ない。
マリシアは不思議に思った。
そして夜。
村の見張り台から鐘が鳴った。
「魔物だ!」
村人たちが一斉に騒ぎ始める。
「森から魔物が来たぞ!」
「子供たちを家の中へ!」
「門を閉めろ!」
マリシアは外へ飛び出した。
村の入口。
そこには、巨大な魔物の影があった。
「……あれは……」
村人たちが震えている。
そんな中。
魔物の群れの向こう側から、一人の青年が歩いてきた。
「……デュランさん?」
いつもの穏やかな笑顔はない。
俯いてもいない。
怯えてもいない。
ただ静かに。
彼は剣の柄へ手を伸ばしていた。
「マリシアさん」
声が違った。
低く、冷たい。
「そこから動かないでください」
マリシアは息を呑んだ。
次の瞬間。
デュランが剣を抜いた。
月明かりを受けた刃が、鋭く輝く。
「あなたに近づくものは――」
その瞳から、普段の臆病さが完全に消えていた。
「僕が全部、斬ります」
そして。
彼は一人で、魔物の群れへ向かって歩き出した。




