第29話
帝都の通りを走っていた。
稜堡の瓦礫を越えたあとは、石畳の道が続いている。守備兵が白旗を掲げて壁際に座り込んでいる。銃を地面に置いている兵もいる。抵抗する者はほとんどいない。要塞が壊れた街の兵士は、もう兵士ではなかった。
路地の角から、影が出てきた。
「こっちだ」
ペドロだった。痩せている。頬がこけて、顎の線が鋭くなっている。622の夜からずっとこの街にいた男の顔だった。だが目は変わっていない。掴みどころのない、薄い笑みが口元に残っている。
「人質は宮殿だ。位置は掴んでいる。平民の娘と少年が中で動いていた。使えた」
デイジーさんとジェフだ。平民だから見逃された二人が、宮殿の中の情報を外に持ち出していた。
「ルートは」
「こっちが速い」
ペドロが走り出す。ハンスが続く。サリーと中核中隊がその後ろについた。裏通りを抜け、崩れた壁を越え、中庭を横切る。ペドロの足は一度も迷わない。
宮殿の裏手が見えた。石造りの壁。窓に鎧戸が閉まっている。二階の一つだけ、灯りが漏れている。
ペドロが立ち止まる。
「あの部屋だ。窓は俺が回る」
ペドロが壁伝いに消えた。外壁を登るつもりらしい。
ハンスは階段を上がる。サリーが後ろについている。廊下に守備兵はいない。逃げたか、降伏したか。
扉の前に立つ。隙間から声が聞こえた。
若い声だ。震えている。
扉を薄く開けた。
部屋の中に、金髪の男が立っている。細い腕。殴打事件の夜会で見た顔だった。その手に剣がある。剣の先が、椅子に座っている人に向けられている。
銀の髪が見えた。
ハンスの手が動いた。腰の拳銃を抜き、窓に向けて撃つ。
ガラスが砕ける。破片が床に散る。金髪の男の顔が窓の方に向いた。
音がしなかった。
男の手から剣が弾き飛ばされる。剣が床を滑って壁にぶつかった。金属が石を叩く音だけが残る。ペドロの空気銃。窓の外から、手の剣だけを撃ち抜いた。
ハンスが部屋に入る。
男が何か呟いている。聞こえない。聞く必要がない。サリーが男の腕を取って、床に伏せさせた。
ハンスの目は、椅子に座っている人だけを見ていた。
*
マリーさんが、椅子に座っていた。
銀の髪。紫の目。五年間毎日見た顔だった。だが頬の線が変わっている。細くなっている。顎の下の影が深い。蝋燭の灯りの下で、髪の色が少しだけ金に見える。帝都を発つ前に見たときと同じ色だった。
マリーさんがこちらを見ている。目が合った。
部屋が静かになっていく。サリーが男を廊下に連れ出し、扉が閉まる。ガラスの破片を踏む靴音が遠ざかっていった。
二人だけになった。
マリーさんの後ろに、もう一人いる。ネリーナさんが壁際に立っている。黙っていた。
マリーさんが口を開いた。
「……遅い」
声が震えていた。安堵が裏返ったような、怒りのような、そのどちらでもないような声だった。
ハンスの口から、言葉が出た。
「……すみません」
自分の声が、さっきまでと違う。窓を撃ったときの声ではない。砲兵に散弾を命じたときの声でもない。日常の、あの不器用な声に近い。だが完全には同じではなかった。
マリーさんが椅子から立ち上がった。
近い。二歩の距離。手を伸ばせば届く。伸ばさない。マリーさんも動かない。
手袋をしている。白い手袋。社交界の正装ではなく、軟禁中に使っていたらしい薄い手袋。左手の手袋に、目が止まった。
「剣は取られてしまったわ」
帯剣が婚約申し込みの正式な道具だということは、ハンスも知っている。軟禁されたときに剣を取られた。だから——
マリーさんの左手が動いた。
薄い手袋を外して、差し出した。
同じ瞬間に、ハンスの左手が動いていた。
自分の手袋を外していた。汚れていた。泥と、煙と、血がこびりついている手袋だった。綺麗ではなかった。だが左手だった。
示し合わせていない。
二人の手が、同時に差し出されていた。
マリーさんの手袋を受け取った。薄い。軽い。だが温かかった。マリーさんの手の温度が、布を通して掌に届く。
マリーさんの手を見ている。手袋を外した手。白くて、細い。蝋燭の灯りの下で、指先が少しだけ震えていた。
掌の奥で、古い記憶が浮かぶ。小さな手。雨の中で、自分の指を掴んだ手。あの日の手は、こんなに冷たくはなかった——
マリーさんの顔を見た。
紫の目が、こちらを見ていた。あの日の目と、同じ色だった。
「マリー——」
*
廊下に、サリーが立っていた。
中核中隊の兵士たちが、廊下の壁に背を預けている。殿戦闘を一緒に生き延びた顔が並んでいる。扉の向こうから、何も聞こえてこない。誰も口を開かない。
ネリーナさんが、部屋の中から廊下に出てきた。
扉を静かに閉め、壁に背をつける。目が赤い。涙は流れていない。溜まっていた。
ペドロが窓枠に腰をかけている。空気銃を膝の上に置いたまま、涼しい顔をしている。ネリーナさんの方を見ていた。ネリーナさんは気づいていない。
サリーがペドロの方を見る。ペドロがサリーの方を見る。二人とも何も言わなかった。
廊下が静かだった。夜風がガラスの割れた窓から入ってくる。




