最終話 ヴィオレット・マリー・ベル・メルンヴァルトの日記 ―最後のページ―
九月二十三日
北方公爵フロストヴァルドの処刑が執行された。領地は御三家預かりとなり、公爵家は断絶する。
第二皇子フェリクスもまた、同日に処刑された。
駿鉄公爵の息子は野戦で戦死しており、公爵家そのものへの処罰はなかった。当主は息子に押し込められていたのだという。駅馬侯爵は鎮圧側に工兵を提供した功で不問。
帝都は修復が始まっている。十二の稜堡のうち八つはまだ瓦礫のままだが、門は開いている。
仕方のないことだった、と書くのは簡単だ。仕方がなかった。それでも、名前を書くと指が止まる。
ネリーナ「処刑の日付まで正確に記録なさっている。立派な歴史資料になりますわ」
十月八日
百花公の劇場で、夏至の夜の演劇が初演を迎えたそうだ。
あの手袋のことが芝居になっている。
誰がどこから漏らしたのか。宮殿にいた兵士か。それとも。
左手の手袋を同時に差し出した、とある。同時に。それは正しい。正しいが、芝居にしていいことではないと思う。あれは二人だけのものだった。観客に見せるものではなかった。
演目の題は「冠砕き」。冠を砕いた男の話ではなく、手袋を差し出した男と女の話になっているらしい。ペドロ殿が名づけた作戦名が、こんな使われ方をするとは思っていなかっただろう。いや、あの人のことだから、喜んでいるかもしれない。
この件については、これ以上書かない。
ネリーナ「お顔が赤いですよ」
十月十五日
デイジーが暇乞いに来た。お腹はもうだいぶ大きい。
相手はジェフ君だという。いつの間に、と聞くのも野暮だった。
どうやら私は先を越されたようだ。部屋がまたひとつ静かになる。
デイジーはメルンヴァルトに行くという。サリー大尉がハンスさんの副官としてメルンヴァルトに着任するのに合わせて、ジェフ君の家族も一緒に移るのだそうだ。
それならまた会える、と言いかけて、自分もすぐにそちらへ行くのだったと思い出した。
ネリーナ「先を越されたのではなく、順序が違っただけです」
十一月二日
両家の顔合わせがあった。
辺境伯閣下が笑っていた。あの方はいつも笑っている。声が大きい。お義母上方——イルゼ様とユリアナ様——は「娘が増えた」と喜んでくださった。ユリアナ様が私の手を取って、「よく来てくださったわね」と言った。温かい手だった。
母は驚いていた。皇子殿下の婚約者として育てたのに、辺境伯家の養子に嫁ぐのだから、驚くのは無理もない。父に「なぜ教えてくれなかったのか」と詰め寄っていた。父は笑うだけだった。鎮圧戦でハンスさんの人となりを知っているのだから、教える必要もなかったのだと思う。
イルゼ様とユリアナ様が、私を囲んでお茶を出してくださった。
お茶を飲みながら、お二人が代わる代わる質問をしてくる。ハンスさんの帝都でのこと。社交界のこと。私がどうやって過ごしていたか。
逃げ場がなかった。
ネリーナ「お気持ちはわかります。私は六年間それを見ておりました」
十一月十日
メルンヴァルトに着いた。山の空気が冷たい。松の匂いがする。
あの人がこの空気の中で育ったのではないことを、私は知っている。平民の出だ。徴兵されて、叩き上げて、少佐になって、養子になって、中佐になった。この山の空気は、あの人の故郷ではない。
それでもあの人は「帰ってきた」という顔をしていた。
庭で小さな女の子が走り回っていた。ミーナという名前だそうだ。四歳。あの人の膝に登ろうとして、何度も滑り落ちていた。あの人はそのたびに手を伸ばして、指を掴ませていた。
ネリーナ「よいお家です」
*
十一月十二日
ネリーナが来た。
手に紅い手袋を持っていた。
ネリーナの手袋は黒い革手袋だ。いつもそうだった。十六年間ずっと。黒い革手袋の手が、私の日記をめくり、私の髪を整え、私の涙を拭いた。
今日のネリーナは、紅い手袋を持っていた。紅。あの人の色だ。霧の中から現れて、霧の中に消える人。掴みどころのない笑みを浮かべて、いつも涼しい顔をしている人。
ネリーナがあの人の色を持っている。
全部わかった。
ネリーナが頭を下げた。深く。暇乞いの礼だった。
「今日でこの日記も最後ね」
自分の声が聞こえた。日記に書く声ではなかった。口から出た声だった。
ネリーナの顔を見た。黒い髪。青い目。冷めた美人の顔が、崩れていた。目が赤かった。唇が震えていた。十六年間、一度も崩れなかった顔が。
ネリーナは何も言わなかった。
腕が伸びてきた。引き寄せられた。ネリーナの腕の中は温かかった。黒い革手袋ではなかった。素手だった。ネリーナの手が私の背中に触れていた。
泣いていた。ネリーナが泣いていた。声を出さずに泣いていた。
私は泣かなかった。泣いたら、この十六年間が悲しいもののように終わってしまう気がした。だから笑った。笑いながら、ネリーナの背中に手を回した。
温かかった。
窓の外で、リナリアが実をつけていた。




