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第27話

 草の匂いがした。乾いた土と、踏み潰された草の青い匂い。


 旧都の北に広がる草原は、昨日までの雨が嘘のように乾いている。馬蹄の跡がつかない。砲車の轍が浅い。


 ハンスの目が地形を走査していた。前方の緩い丘陵。右翼の林縁。左翼を流れる小川の幅。全部が頭に入る。見えたものがそのまま配置図になった。


「ハンス」


 辺境伯の声が後ろから来た。


「お前が前に出ろ」


「……はい」


 馬の手綱を握り直す。体が先に動いていた。前線に向かって馬を進めるとき、手は震えていなかった。


 サリーが横についた。何も言わない。


 *


 前線に着いたとき、銃兵はすでに三列に並んでいた。


 ハンスが編成した隊列だった。紙の上に引いた線が、今は人間になって草原に立っている。第一列。第二列。第三列。それぞれの間隔は八メートル。装填に必要な距離。


 その後方に騎馬砲兵が四門。散弾の装填が終わり、砲手の手が動いている。


 正面。丘陵の向こう側から、地鳴りが来た。


 馬の蹄が地面を叩く音。一頭ではない。百ではない。千に近い。騎兵が丘の向こうで隊列を組んでいる。まだ見えない。音だけが先に届いていた。


 ハンスの呼吸が変わっている。深く、遅い。殿戦闘の夜と同じだった。周囲の音が遠くなり、視界の端まではっきり見える。丘陵の稜線。草の揺れ方。風の向き。銃兵の第一列の左端の男の手が少し震えている。


「第一列」


 声が出ていた。自分の声だとわかっている。日常のあの声ではない。


 丘の稜線を、騎兵の列が越えた。


 鎧が朝日を反射する。先頭の騎兵の体から、薄い光の膜が見えた。魔法防御。強化剣士の体に纏う防壁。銃弾を一発や二発は弾く。だから騎兵は突撃できる。これが旧い教義だった。


「構え」


 第一列の銃口が上がる。


 騎兵が加速した。蹄の音が密度を増す。地面が揺れ始める。四百メートル。三百メートル。馬の顔が見え始める距離。


「撃て」


 第一列が発砲した。白煙が列に沿って走る。銃声が一斉に鳴り、空気が破裂した。


 先頭の騎兵の光の膜が揺れる。弾かれた。一斉射では削りきれない。


「伏せ」


 第一列が一斉に膝をつく。銃口が下がる。その頭上を越えて——


「第二列。撃て」


 二斉射目が飛んだ。煙の向こうで光の膜がまた揺れる。削れている。だがまだ残っている。騎兵は止まらない。二百五十メートル。


「伏せ」


 第二列が膝をつく。二列分の兵が地面に伏せている。


「第三列。撃て」


 三斉射目。間を空けない。第三列が撃った瞬間、第一列はもう装填を終えている。


「第一列。起て。撃て」


 第一列が立ち上がる。四斉射目。五斉射目。列の位置は変わらない。前列がしゃがみ、後列が撃ち、装填が終わった列が立つ。弾が途切れない。休みなく鉛の雨が降り続ける。


 先頭の騎兵の光の膜が、ついに消えた。魔法防御が飽和した。一発では弾く。二発でも弾く。だが弾の数に上限がないとき、魔法に上限が先に来る。


 二百メートル。騎兵はまだ止まらない。裸になった。光の膜がない。だが止まらない。


「砲兵。散弾」


 四門が同時に炸裂した。散弾が騎兵の正面に広がる。無数の鉄球が扇形に飛び、裸になった騎兵を叩いた。


 先頭の馬が前のめりに倒れる。後ろの馬がそれに乗り上げる。隊列が折り重なった。朝の光の中で馬体が跳ね、鎧が砕け、土煙が上がる。蹄の地鳴りが乱れる。密度の高い整った音が、ばらばらの衝突音に変わった。


 百五十メートル。突撃の勢いが死んでいた。


「方陣維持」


 銃兵が方陣を固める。リングバヨネットが銃口の外側に嵌まっている。撃てる。刺せる。同時にできる。


 止まった騎兵が、方陣に突っ込んできた。散弾で崩れた隊列の残骸が、惰性で前に出てくる。馬が走っている。だが突撃ではない。崩れた馬群が流れてきているだけだった。


 銃声と、刃が肉を叩く音が混ざる。方陣の槍衾が騎兵を受け止めた。馬が槍に刺さって止まる。騎兵が落馬する。落ちた騎兵を、銃剣が刺した。


 来る前に壊した。来ても止めた。止まったから刺した。


 煙が流れる。朝の風が草原を横切って、白煙を東に押していく。煙の向こうに、倒れた馬と人が見えた。動いているものと動いていないものが混在している。


 騎兵が、止まっていた。


 *


 敵の歩兵が来た。旧式の隊列。強化剣士を中核にした密集陣形。剣と盾と魔法で正面を割りに来る。殿戦闘でハンスが相手にしたのと同じ教義だった。


 ただし規模が違う。殿戦闘は二百対二千。今は数万が正面にいる。草原の向こうから歩兵の列が前進してくる。靴音が地面を叩く。旗が何本も揺れている。


「前線を維持しろ」


 ハンスの声が飛んだ。


「崩すな。押すな。留めろ」


 殿戦闘の夜、塹壕の中でサリーに言ったのは「逃げるな。留まれ。朝まで持たせろ」だった。守ること。時間を稼ぐこと。ただし今は、守りが攻撃の一部だった。


 正面で拘束する。崩さない。圧倒しない。敵を自分の正面に釘付けにして、動けなくする。その間に——


 ハンスの視界の端で、辺境伯の旗が動く。左翼の方に移動している。友軍の騎兵が、丘陵の裏側を回り込んでいる。見えている。だがハンスの仕事は正面だった。


「第二大隊、左に寄るな。正面を維持しろ」


「三段撃ち継続。間隔を崩すな」


 銃兵が撃ち続ける。敵の歩兵は騎兵ほど速くない。強化剣士の魔法防御も、騎兵ほど厚くない。三段撃ちで削れる。だが数が多い。倒しても倒しても列が詰まる。正面の圧力が増していく。


 サリーが隣にいる。ハンスの指示を中隊に伝達している。動きに無駄がない。殿戦闘の夜と同じ呼吸だった。


 一度だけ、サリーがこちらを見た。何か言いたそうだった。だが口を開かなかった。


 正面の敵が、揺れ始めた。


 最初は気のせいかと思った。前進していた歩兵の列が、前に出なくなる。止まる。止まった列が、横に流れ始めた。右翼の方に。何かに押されるように、隊列が横にずれていく。


 背後からだった。友軍の騎兵が、敵の右翼に突入している。ハンスの正面から見えたのは結果だけだった。敵の隊列が横に崩れ、旗が倒れ、靴音のリズムが乱れる。


「前線維持。追うな」


 ハンスの指示は変わらない。崩れても追わない。追えば隊列が崩れる。崩れれば反撃される。留めることだけを、最後までやる。


 正面の敵が走り始めた。こちらに向かってではない。背を向けて逃げている。武器を捨てている兵がいる。旗が地面に落ちている。


 辺境伯の声が聞こえた。遠かった。


「追うな。袋に入れろ」


 *


 報告が来たのは、煙が晴れた後だった。


 敵の騎兵指揮官が戦死した。散弾で馬を射たれて落馬し、そのまま方陣の銃剣に——そこまで聞いて、ハンスは報告を遮った。


「敵歩兵の残存は」


「西に退却中。追撃部隊が包囲しています」


「捕虜の収容は」


「進行中です」


 処理すべきことが山のようにある。捕虜。負傷者。弾薬の残量。砲の損耗。方陣の死傷者数。行軍路の確保。補給線の接続。次の目標は帝都だった。ここで止まっている余裕はない。


 風が草原を渡る。煙が東に流れていく。朝霧はとっくに消えている。陽が高い。


 ハンスは馬上から戦場を見た。倒れた馬と人が散らばっている。動いている者を衛生兵が運んでいる。動いていない者は、まだそこにいた。


 手を見た。


 血がついている。自分の血ではない。いつついたのかわからなかった。出発の朝、中庭で見た馬の鞍にこびりついていた血を思い出す。あのときは人の血か馬の血かわからなかった。今もわからない。


 草原が静かになっている。銃声が止まっている。蹄の音が消えている。風の音と、遠くの怒号と、衛生兵が負傷者を呼ぶ声だけが残っていた。


 手のひらが、少しだけ温かかった。血の温度だった。


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