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第26話

 出発前夜の居間は、静かだった。


 同じ部屋だった。同じテーブル。同じ白い磁器のティーカップ。窓の外はもう暗い。あのとき午後の光が落ちていた場所に、蝋燭の灯りが揺れている。


 あのときは三人に囲まれて、マリーさんのことを根掘り葉掘り聞かれた。マリーさん、と言ったらイルゼに含み笑いをされた。逃げ場がなかった。


 今は、誰も笑っていない。


 テーブルの片側に辺境伯が座り、その隣にハンス。向かいにイルゼとユリアナ。部屋の隅の長椅子に、ベロニカとエルンスト。ベロニカの手がエルンストの手の上にある。


「お茶をどうぞ」


 イルゼが湯呑みを並べる。声がいつもと同じだった。大きくもなく、小さくもなく。お茶を出す動作に、特別なものは何もない。


 辺境伯の前に一つ。ハンスの前に一つ。


「長くなりそうですものね」


 長い遠征になる。六百キロ先の帝都まで、数万の兵を率いて行く。いつ帰れるかわからない。帰れるかどうかもわからない。


 イルゼはそのことを、お茶の量の話のように言った。


「ハンスさんも一杯いかが」


 ユリアナが急須を傾ける。手つきが変わらない。帝都から帰ってきた日と同じ手つきだった。後宮育ちの手は、何があっても揺れないのだと思う。


 湯呑みを受け取る。陶器の温もりが、掌に染みた。


 殿戦闘の前の夜を思い出した。あの夜は塹壕の中にいた。冷たい土の上に座って、サリーと雑談をして、朝を待った。送り出してくれる人はいなかった。温かいものもなかった。目の前にあったのは、翌朝の敵の数だけだった。


 今は違う。


 湯呑みが温かい。両手で包むと、指先まで熱が通った。ミーナの手を握ったときと同じ場所が、同じように温まっていく。


「ハンス」


 イルゼの声だった。名前で呼ばれたのは初めてだった。


「あなたは息子だから」


 イルゼが真っ直ぐこちらを見ている。目が赤くはない。涙は一滴もない。


「帰ってきなさい」


 辺境伯が殴打事件で「俺の息子」と言ったとき、あの声は怒りと一緒だった。イルゼの声には怒りがない。命令でもない。ただ、当たり前のことを言っているだけだった。息子は帰ってくる。当たり前のこと。


 喉が詰まった。何か言わなければならない気がする。だが言葉が出てこない。映像記憶はここでは何の役にも立たない。この温度を記録する方法を、ハンスは持っていなかった。


「……はい」


 ユリアナが微笑む。あのとき「いい名前ねぇ」と言ったのと同じ顔だった。だが目の奥にあるものが違う。


「お茶、もう一杯入れましょうね」


 急須が傾き、湯呑みに茶が注がれる。湯気が立った。


 部屋の隅で、ベロニカがエルンストの手を握っている。エルンストの指が、ベロニカの手を握り返している。二人とも何も言わなかった。


 *


 朝が来た。


 中庭に馬が並んでいる。辺境伯の馬。ハンスの馬。護衛の騎兵たち。先発したルシアンの部隊は、もう半日先を走っている。


 辺境伯が馬に手をかけた。


 振り返らない。イルゼが玄関の前に立っている。ユリアナがその横に。フリッツがイルゼの後ろから覗いている。ミーナはユリアナの腕の中で、まだ眠そうな顔をしていた。


 ベロニカがエルンストの横に立っている。大きな目が、こちらを見ていない。父親の背中を見ていた。


 辺境伯が鞍に上がった。


「行くぞ」


 一言だった。家族への別れの言葉はない。振り返りもしない。


 ハンスは馬に跨った。玄関の方を一度だけ見た。


 イルゼが、軽く手を上げる。行ってらっしゃい、の仕草だった。ユリアナは手を振らず、微笑んでいる。ミーナが小さな手をこちらに向けて、何かを握ったり開いたりしていた。


 馬が動いた。屋敷が遠ざかっていく。


 左手に、湯呑みの温もりがまだ残っていた。


 *


 山が低くなっていった。


 メルンヴァルトを出て三日目には針葉樹が減り、五日目には丘陵の草地が広がった。行軍路の脇に立つ里程標の数字が、帝都に向かって減っていく。ハンスは馬上からその数字を一つ残らず読み取っていたが、口には出さなかった。補給計画で紙の上に引いた線を、今は馬の背から見ている。橋の幅。轍の深さ。水場の規模。紙の上の数字と実物が一つずつ照合されていく。


 辺境伯は先頭にいる。背中が動かない。振り返りもしない。たまに護衛の騎兵に短く指示を出すだけだった。


「急げ」


 ハンスはその背中を見ながら、行軍路の轍の深さから前日の降雨量を計算していた。


 夜になると、手が止まる。天幕の中で補給報告を書き終わると、筆を置いてしばらく動けなかった。何も考えないつもりでいても、マリーさんの顔が浮かぶ。銀の髪が灯りの下で色を変える映像が、正確に再生される。手袋を外したときの細い指が見える。消す方法がなかった。


 七日目の昼に、大十字路が見えた。


 河川と街道が交差する平野だった。駅馬侯爵領の結節点。橋が三本かかっている。川の向こうにフォルテシエラの軍旗が見える。黒地に金の鷲。その数が多い。


 *


 辺境伯が馬を降りて本営に入っていく。街道沿いの宿場町を接収した天幕だった。ハンスがその後ろについた。天幕の中に、大きな男がもう一人いる。フォルテシエラ侯爵ディエゴ。マリーさんの父。辺境伯と並ぶと、空気の重さが倍になる。


「コンラート」


「ディエゴ。早かったな」


「お前こそ」


 二人とも笑わなかった。帝都の屋敷で飲んでいた夜から、何日も経っていない。あの夜の笑い声は、もう遠い。


 天幕の入口で、聞き覚えのある声がした。


「特進の前渡しかと思ったが、今度は本物の前線かよ」


 ハンスは振り向いた。


 天幕の外に、痩せた男が立っている。短い灰色の髪。日焼けした顔。鋭い目。体は小さいが、立ち方に隙がない。腰の剣の位置が、昔と変わっていなかった。


「サリーさん」


 サリーが天幕の中に入ってきた。ハンスの前で足を止めて、下から上まで一度だけ見る。


「……デカくなったな。顔つきが変わった」


 何と返せばいいかわからない。サリーの顔を見ていた。五年前と同じ顔だ。皺が少し増えた。目は変わっていない。


「デカいのは前からです」


「そうだったな」


 サリーの口元が少しだけ動いた。笑ったのかもしれない。


「中佐殿」


 呼び方が変わっている。メルンヴァルトの兵舎にいた頃は「デカいの」だった。殿戦闘の後、「少佐殿」に変わった。今は「中佐殿」。階級が上がるたびに、サリーの呼び方が一段ずつ遠くなる。ハンスにはそれが少しだけ寂しい。


「編成やってたんだってな。書類の山を見た。あれ全部お前の字か」


「はい」


「字は相変わらず下手だな」


 下手だった。映像記憶で何でも覚えるくせに、自分の字だけは上手くならない。サリーに昔から言われている。


「だが中身はまともだった。……よくやった」


 サリーが背を向ける。


「中核中隊の連中が外にいる。顔を見せてやれ。お前が生きてるか賭けてた馬鹿がいるから」


 天幕を出ると、見覚えのある顔が並んでいた。殿戦闘を一緒に生き延びた兵士たち。何人かが手を上げた。何人かの顔がなかった。


 *


 翌朝、本営の天幕にルイスが通された。マリーさんの兄。眼鏡をかけている。旅塵にまみれた外套の下に大学の制服が見え、背嚢から紙束がはみ出している。マリーさんと同じ紫の目をしていた。


「ハンスさん」


 ルイスがハンスの前に立つ。礼をする前に、口が先に動いていた。


「あの時の砲撃の衝撃波、杭への振動伝達——あれが届くまでの速さと距離を覚えていますか」


「三秒です。四十二メートルと少し」


 即答した。辺境伯領で、ルイスと一緒に魔力共鳴通信の実地試験をやったときのデータだった。杭を打ち込んで、砲撃の振動が伝わる速度を測った。あの数字は目に入った瞬間に残っている。


 ルイスの目が変わる。眼鏡の奥で瞳が細くなった。


「……これなら作れる」


 声が低い。技術者の興奮ではない。この男の姉が、帝都で軟禁されている。


 *


 本営の隅に机を並べた。ルイスが紙を広げる。帝都の防御構造のメモ。大学の図書室から持ち出した地図資料。鉛筆で書き込みが入っている。脱出しながら書いたらしい。


「問題は駿鉄の騎兵です。突撃されたら現行の戦術では持たない」


「騎兵の突撃を止める方法は」


 ハンスの口から出た問いは単純だった。


 ルイスが少し黙る。


「ハンスさん、あなたの殿戦闘の記録を読みました。三段撃ちの原型を使っていますね」


 殿戦闘で銃兵を三列に並べて、ローテーションで弾を撃ち続けた。休みなく弾幕を張ることで、敵の魔法防御を削った。あのときは即興だった。生き残るために思いついただけだった。


「あれを体系化します。第一段、三段撃ち。銃兵三列のローテーション射撃で、騎兵の魔法防御を削る。弾の数で飽和させる」


 ルイスが紙に図を描く。三本の横線。矢印が交互に前後する。


「第二段。騎馬砲兵のキャニスター。散弾です。防御魔法が薄くなった騎兵の突撃陣形を、正面から粉砕する。馬が倒れれば隊列が崩れる」


「来る前に壊す」


 ハンスが言った。


「来ても止める」


 ルイスが続ける。


「第三段。方陣を組んで、リングバヨネットで止めます」


「リングバヨネット」


「銃口に嵌める銃剣です。従来の銃剣は銃口を塞ぐ。撃てなくなる。リングバヨネットなら銃口の外側に装着する。銃剣を着けたまま射撃できる」


 射撃から白兵への切り替えが要らなくなる。銃兵が槍兵を兼ねる。


「止まったら刺す」


 ハンスが言った。


「来る前に壊す。来ても止める。止まったら刺す」


 ルイスが鉛筆を止めて、ハンスの顔を見た。


「……それを三つ重ねるんですね」


「はい」


 単純だった。だがこの単純さは、殿戦闘の夜に二百人で二千人を止めた男の口から出ている。机の上の理論ではない。


「リングバヨネットの試作は」


「駅馬の工兵隊が来ています。図面があれば作れると言っていました」


 ルイスが頷いて、図面を引き始める。鉛筆の動きが速い。ハンスが数字を出し、ルイスが図面に変換していく。杭の振動速度から散弾の有効射程を逆算し、三段撃ちの間隔を銃の装填速度から割り出した。数字はすべてハンスの頭の中にある。見たことのあるものを、聞かれた順に答えた。


 サリーが天幕の入口に立っている。腕を組んで、二人のやりとりを見ていた。


「中佐殿」


 ハンスが振り向く。


「さっきからお前、顔が違うぞ」


 何のことかわからなかった。サリーが鼻を鳴らす。


「殿戦闘の夜と同じ目をしてる。……いい目だ」


 サリーが背を向けた。


 ハンスはルイスの方に向き直る。図面の上に三段システムの全体図が広がっている。紙の上の線が、これから数千人の命を左右する。そのことを、ハンスは考えなかった。考えたのは、この三段で騎兵を止められるかどうかだけだった。


 止められなければ、帝都に届かない。


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