第25話
足音で目が覚めた。
机に突っ伏して寝ていたらしい。頬に紙の跡がついている。窓の外はまだ暗い。補給計画の三枚目が、インクの乾かないまま腕の下に挟まっていた。
廊下を走る靴音が二つ。三つ。重い。軍靴だ。
通信室を出ると、玄関の方から声が聞こえる。ギュンターの声ではない。もっと低い。もっと太い。
ハンスは走った。
玄関を抜けて中庭に出ると、松明の光の下に馬が四頭いた。泥だらけで、鞍に血がこびりついている馬が一頭。人の血か馬の血かはわからない。
馬の向こうに、大きな背中が見えた。
白い髪。広い肩。立っているだけで空気が変わる体躯。
養父上が、中庭の真ん中に立っていた。
「閣下」
声が裏返る。養父上、と言うつもりだった。咄嗟に出たのは軍人の呼び方だった。
「ご無事で——」
辺境伯がハンスの顔を見る。トルコ石の目が、松明の光で緑に光っている。
「お前、寝てないな」
見ればわかる顔をしていたらしい。
「……はい」
「メシ食ったか」
「……いえ」
辺境伯がため息をつく。息が白い。
「メシ食え。死人に働かせる趣味はない」
声が中庭に響いた。この声だった。この声を聞くと、何が起きても大丈夫な気がする。根拠はない。だがこの男がいる場所で、取り返しのつかないことは起きない。ハンスはそう思っていた。
右手を見た。拳を握っていない。いつから開いていたのかわからなかった。
玄関からギュンターが出てきて、辺境伯を見ると一度だけ目を閉じた。
「おかえりなさい」
「ギュンター。……もう動いてるのか」
辺境伯が中庭を見回す。兵舎の灯り。馬房から聞こえる蹄鉄の音。出発準備の気配が、屋敷の隅々に充満している。
「ハンスが編成をやっています」
辺境伯がハンスの方を向いた。トルコ石の目が細くなる。
笑った。声を上げて笑った。腹の底から出る笑い声が、夜明け前の中庭に響く。
「——馬鹿が。寝ろ」
笑いながら言った。
*
辺境伯が先に座り、ハンスとギュンターが向かいに座る。
パンとスープが出た。ユリアナが台所から持ってきたらしい。辺境伯が帰ったことで屋敷が動き始めている。まだ夜明け前だが、居間の灯りがついている。イルゼの声が奥の方から聞こえる。
辺境伯がパンを千切りながら、口を開いた。
「北辺公が動いた。駿鉄も。旗印はフェリクス」
中庭の豪快さが消えて、声が低く、平らになっている。パンを千切る手は止まらない。
「帝都の状況は」
ギュンターが聞いた。
「諸侯邸を潰された。偽勅が出ている。陛下は旧都に逃げた」
ハンスはスープを口に運びながら聞いていた。情報が入ってくるたびに、頭の中の地図に点が落ちていく。北辺公の位置。駿鉄の騎兵。旧都の位置。
「ディエゴはうちの屋敷で飲んでた。助かった」
サリーと一緒に別ルートでフォルテシエラに戻っている、とギュンターが補足する。大十字路で合流する手はずだという。
「フォルテシエラ邸は」
ハンスの声だった。自分で聞いたのだと、一拍遅れて気がつく。
「制圧された。令嬢は生きている。人質だ」
辺境伯はそこで止まり、パンを口に入れた。
ペドロの続報によれば、マリーさんの兄アレハンドロが抵抗して斬られた。重傷だが命はある。邸内はネリーナが仕切っている。ギュンターがペドロからの暗号文を読み上げるのを、ハンスは聞いていた。
スープの匙が、椀の底に当たった。
生きている。マリーさんは生きている。
それ以上のことは、頭に入らなかった。椀を持つ手が、さっきまでとは違う震え方をしている。恐怖ではない。何の震えなのかはわからない。ただ、指先の感覚が戻ってきたような気がした。三日間感じなかった温度が、スープの熱として掌に届いている。
辺境伯がこちらを見ていた。何も言わない。パンを千切って、自分の口に放り込む。
「食え」
ハンスはスープを飲んだ。
*
辺境伯が通信室に入ったとき、テーブルの上は紙で埋まっていた。動員計画、行軍路、補給配置——ハンスが書いた紙の束だった。
辺境伯がそれを一枚ずつ手に取って、黙って読む。ギュンターが横に立っている。
「——よくできてる」
低い声だった。中庭の笑い声とも、食堂の報告とも違う。
「ギュンター。これに二箇所手を入れた形跡があるな」
「橋脚と南端の備蓄です。私が修正しました」
「お前の字か。……二箇所で済んだのか」
ギュンターが頷く。
「あとは全部ハンスです」
辺境伯はそれ以上何も言わず、紙をテーブルに戻して窓の方を向いた。
「総動員をかける」
声が小さい。大きな声で言う台詞ではない。
「メルンヴァルト辺境伯領軍に総動員令を発布する。常備、予備役、民兵、すべて。最大動員六万。これは本領の防衛ではない」
振り向く。トルコ石の目に、笑いの気配はない。
「帝都を取り返す」
ギュンターが背筋を伸ばした。ハンスも伸ばした。
「最高司令官はディエゴ閣下だ。野戦は俺が執る」
辺境伯がハンスを見る。
「お前はそのまま俺についてこい」
ペドロが帝都で動いていることは、暗号文で知っていた。辺境伯はそのことには触れない。
ハンスは頷いた。
「ギュンター。ガイエルを東に出せ」
聞いたことのない名前だった。ギュンターの方を見る。
「0401軍団の長です」
ギュンターが短く言った。
「……実在しません。名前だけの将軍です。東の遊牧民はこの名前を恐れている。常備兵が抜けても、ガイエルが東にいると思っている間は動かない」
辺境伯が頷く。
「総動員が回るまで持てばいい。あとは数で埋める」
「ギュンター。お前は残れ」
ギュンターの表情が動いた。
「本領を空にはできない。東の国境に常備兵の一部を残す。その管理と、御厨への兵站支援の窓口がいる。お前がやれ」
「……はい」
平らな声だった。平らにしていた。父親と義弟が前線に出て、自分は後方に残る。それが最も理に適った配置であることは、ギュンター自身がわかっていた。
辺境伯がギュンターの肩を叩いた。
「後ろは任せた」
ギュンターが一度だけ目を閉じた。
辺境伯が通信室を出ていく。ルシアンを呼びに行くらしい。部屋にはギュンターとハンスだけが残った。
ギュンターがテーブルの紙束を整え始める。手つきが正確だった。通し番号の順に揃えて、端を叩いて整える。
「ギュンター殿」
「動員の引き継ぎの話か」
「はい。補給集積所の第三中継点ですが、御厨からの支援物資をここで合流させるなら——」
「管理簿の様式は揃えてある。御厨の書式と互換になるようにした」
話が速い。ハンスが問いかける前に、ギュンターが答えを用意していた。三日間一緒に仕事をして、ハンスの頭の回し方がわかったのだろう。次に何を聞くか、先に読んでいる。
「輸送の手配書もこちらで起案して送る。お前は前だけ見ていろ」
ギュンターの目は書類に向いたまま、ハンスの方を見ない。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。仕事だ」
前線に出られない男の声だった。ハンスには、その平らさの裏にあるものが見えない。見えないまま、頭を下げた。
*
通信室を出ると、廊下にルシアンが立っていた。ギュンターより背が高く、肩幅が広い。前線指揮官の体つきをしている。
「聞こえてた」
壁に背を預けたまま、ルシアンが言う。
「ギュンター兄貴がまた後方か。……俺の隊は先発でいいんだな」
辺境伯が頷いた。
「偵察隊と合流して先行しろ。旧都方面の街道を確保する。本隊が追いつくまで持たせろ」
「了解」
ルシアンが壁から背を離して、歩き出す。振り返らない。前線の男の歩き方だった。
ハンスは廊下に残った。辺境伯が後ろから声をかける。
「ハンス。出発は明後日だ。それまでに動員の仕上げを終わらせろ。——それと」
振り向いた。
「今度こそ寝ろ」




