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第24話

 馬車の窓を開けると、空気が変わった。


 松と土の匂い。冷たくて、湿り気がある。帝都の大通りにこびりついていた香水と石畳の埃が、一息で肺の底から押し出された。


 道の両側に針葉樹が並んでいる。その向こうに雪の残る峰が見え、陽の当たる斜面だけ岩肌が灰色に濡れている。ハンスの目はその境目を正確に記録していたが、帰ってきた、と思った。前にはなかった感覚だった。


「お義兄さま、ずっと窓の外ばかり見ていらっしゃるけれど、わたくしの話は聞いていて?」


 向かいの席で、ベロニカが腕を組んでいる。淡い青のワンピース。大きな目がまっすぐこちらを見ている。帝都を出てからずっと、この目から逃げられた時間はほとんどなかった。


 隣の席でエルンストが黙っている。日焼けした肌、地味で堅い顔。腰にベロニカの飾り鞘を帯びたまま、馬車の揺れに身を任せている。


「聞いております」


「では伺いますけれど。殿下を殴った件、お義母上方にはどう説明なさるおつもり?」


「殴ったのは閣下です。自分はご挨拶を申し上げただけです」


「挨拶で決闘を申し込む人がどこにいるの」


「決闘ではありません。ペドロに教わった古い求婚の——」


 ハンスはそこで口をつぐんだ。ベロニカの目がさらに光る。


「求婚の?」


「……挨拶です」


「お義兄さま、あと少しでしたのに」


「挨拶です」


 エルンストが窓の外を向いたまま、小さく息を吐いた。


 *


 屋敷に着くと、玄関の前にイルゼとユリアナが並んでいた。


「おかえりなさい」


 イルゼの声が中庭に響く。大柄で肩が広い。養父上が唯一頭の上がらない相手だと、ギュンターが言っていた。隣のユリアナが微笑んでいる。同じ辺境伯の妻とは思えないほど佇まいが違う。その後ろで、フリッツが覗き込むようにこちらを見ていた。


 居間に通されて、お茶が出た。白い磁器のカップに、午後の光が落ちている。


 ベロニカは「着替えてまいりますわ」と先に部屋へ上がっていった。エルンストがその後ろについていく。


 テーブルにはハンスと、向かいに義母が二人。


「疲れたでしょう。ゆっくりなさい」


 ユリアナがお茶を注ぐ。手つきが、帝都の貴婦人たちよりも静かだった。


「帝都はどうだった?」


「はい。広い街でした」


「そうじゃなくて」


 イルゼが茶を一口飲んで、カップを置く。音が大きい。


「あのお嬢さん。綺麗な方だそうじゃない」


「……はい。綺麗な方です」


「銀の髪が、灯りの下で色が変わるんです。蝋燭のときは少し金に見えて、窓からの光だと白に近くて。手袋を外したときの手が——」


 ハンスはそこまで言って、二人の義母がじっと自分を見ていることに気がついた。イルゼは口元に手を当てている。ユリアナは茶を持ったまま微笑んでいて、二人の目が一瞬合った。


「……何か、おかしなことを言いましたか」


「いいえ。手袋を外したときの手が、どうしたの?」


「……白くて、細くて。自分の手とは全然違うなと思っただけです」


 映像として記録されていることを、そのまま言葉にしただけだった。なぜか義母たちの目がさらに柔らかくなる。


「お茶に混ぜていただいてもよろしい?」


 ベロニカが向かいに座っている。着替えたらしい。肘をついて、こちらを覗き込んでいる。


「お義兄さま。お嬢様のこと、『マリーさん』ってお呼びしているのよね?」


 ハンスの手が止まった。カップが中途半端な高さで浮いている。


「……どこで、それを」


「あの控室で聞いておりましたもの」


 にっこり。あの場にはベロニカもいた。


「マリーさん、ねぇ……」


 イルゼが含み笑いを浮かべる。


「いい名前ねぇ」


 ユリアナの声は穏やかなのに、なぜか背筋が伸びた。


 ネリーナさんの指導も、ペドロの作法教育も恐ろしかったが、この三人の包囲は別の意味で逃げ場がない。


 *


「少し外の空気を」


 逃げた。背後で笑い声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。


 中庭に、木剣を振る小さな影がある。フリッツ。素振りの型は、まだ手首が安定しない。


 その横の芝に、もっと小さな影が座り込んでいる。ミーナ。花を摘んでは、地面に並べている。


「ハンス兄ちゃん! 見てて! 百回振るんだ!」


「いくつ目だ」


「……三十二!」


 嘘だな、とハンスは思った。二十回も振っていない。だが訂正はしない。


「よし。見ていよう」


 庭石に腰を下ろすと、ミーナがこちらへ歩いてきた。短い足でよちよちと近づいて、膝の横に座る。小さな手が、指を掴んだ。


 握り返すと、手の中にすっぽり収まった。


 フリッツの木剣が空を切る音。ミーナの指が、手のひらの上でもぞもぞと動く。


 小さい手だった。剣だこだらけの自分の指に、ためらいなく掴まってくる。その感触が、妙に手に残る。


 養父上が帝都で「息子」と呼んだ声が、ここにいると少しだけわかる気がした。


 *


 手すりの石が冷たい。


 テラスから見上げると、メルンヴァルトの山が赤い。手すりに腕を置いて、何も考えないつもりでそこに立っていた。だが考えないということは、なかなかうまくいかない。


 何かを言い忘れたような重さが、ずっと胸にある。


 帝都を発つ前。控室でマリーさんに「マリーさん」と呼びかけた。マリーさんは少しだけ目を伏せて、何か言いかけて、何も言わなかった。自分も何か言いかけた。何を言いかけたのか、よくわからない。


 次にあの人に会ったら、何か言わなければならない。


 何を言うのかは、まだわからなかった。


 山の稜線の向こうに、最後の陽が沈んでいく。赤が、ゆっくり紫に変わっていく。


 遠くで、フリッツの木剣の音がまだ聞こえている。


 穏やかな夕暮れだった。


 *


 風が冷たかった。夏至でも、メルンヴァルトの夜は冷える。


 テラスに出ると、北の空がいつまでも暮れきらない。地平線の際に薄い紫が残って、星がぼやけている。メルンヴァルトの山は暗いのに、空だけが妙に明るかった。


 手すりに腕を置いて、ハンスは北の空を見ていた。帝都では今頃、夏至祭の灯りが通りを埋めているはずだった。ここからでは見えない。六百キロ先の祭りの光は、山に遮られてどこにも届かない。


 屋敷の中からイルゼの声が聞こえる。フリッツに早く寝ろと言っている。ミーナはとっくに寝たらしい。ユリアナの声はしない。あの人はいつも静かだ。


 胸の奥に、まだあの重さがある。


 何を言うのかは、まだわからなかった。だが次にあの人に会ったら——


 ハンスはテラスを離れて、屋敷の中に戻った。


 *


 翌朝ではなかった。翌々朝だった。


 朝食の前。ハンスが中庭を横切ろうとしたとき、廊下の奥からギュンターの靴音が聞こえた。速い。ギュンターの足音は普段もう少し間が空く。


「ハンス。来い」


 嫡男の声に、日常の余裕がない。普段は書類を読みながら歩くような男だった。


 今は、書類を持っていない。


 通信室に入ると、伝書鳩の籠が開いていた。通信担当の下士官が暗号文を広げている。紙は小さい。鳩が運べるだけの量しかない。


 ギュンターが暗号文を読み上げた。


「帝都で軍事行動。諸侯邸複数に対する同時襲撃。皇帝陛下の所在、不明」


 ハンスの頭の中で、帝都の地図が広がった。大通りの幅。宮殿までの距離。十二諸侯の屋敷の配置。フォルテシエラ邸の正門の向き。裏口の幅。窓の数。庭の植え込みの高さ。五年間毎日通った道が、一枚の図面のように展開された。


 だがそのどれも、今は何の役にも立たない。


「発信元は」


 ギュンターが通信担当に聞いた。


「ペドロ殿の配下です。ニヴェスティア発。中継なし」


「続報は」


「これのみです」


 紙一枚。三行。帝都が燃えているのか、燃えていないのかすらわからない。養父上がどこにいるのか。マリーさんがどうなったのか。ネリーナさんが。デイジーさんが。サリーが——


「……ギュンター殿」


 声が出ていた。自分の声だと、一瞬わからなかった。


「帝都に行きます」


 ギュンターが振り向く。


「何をしに」


「帝都の人間を確認しなければ」


「情報が足りない。何が起きたかもわかっていない」


「わかっています。ですが——」


「お前が走ったところで帝都は六百キロ先だ。馬を潰しても五日。着いたところで一人で何をする」


 それが正論であることは、ハンスの頭にも入っていた。六百キロ。馬を替えなければ持たない距離。着いたとしても、帝都が敵の手に落ちていたら門すら開かない。


 わかっている。


 だが足が動こうとしていた。右手が白くなるほど握り締められていて、自分で開けなかった。


「ハンス」


 ギュンターが、初めて声を少し上げた。


「動くな。情報を待て」


 足が止まった。止められたのではなく、ギュンターの声に反応して体が止まった。犬が呼び声で止まるのと似ている。頭で判断して止まったのではなかった。


 右手が震えていた。


 *


「お義兄さま」


 声は廊下から来た。


 ベロニカが通信室の戸口に立っている。淡い青のワンピースではない。旅装でもない。寝間着の上に上着を羽織っただけの格好で、騒ぎを聞いて起きてきたらしい。


 大きな目が、ハンスをまっすぐ見ていた。居間でからかわれたときとは、全く違う目だった。


「父は生きています」


 根拠はないはずだった。暗号文には辺境伯の名前は一文字もない。


「あの人が簡単に死ぬわけがないでしょう」


 声が震えていない。ベロニカの手は、上着の裾を握っていた。関節が白い。震えていないのではなく、震えを止めていた。


「だから今は、迎えに行く準備をしなさい」


 行くな、とは言わなかった。


 準備をしろ、と言った。


 ハンスの右手が、少しだけ開いた。まだ震えていた。だが拳ではなくなった。


 *


 ギュンターが通信室の扉を閉めた。


 中にはギュンターとハンスだけが残っている。ベロニカは廊下に戻り、エルンストがその側についたのが、閉まる扉の隙間から見えた。


「ハンス」


 ギュンターの声が、さっきより低くなっている。低いが、冷たくはない。


「お前を中佐に昇進させる。辺境伯領軍の編成将校に任命する。本日付」


 ハンスの手がまだ震えている。指の先が冷たい。


「……編成将校」


「部隊の編成と兵站の管理だ。動員計画を立てろ。行軍に必要な補給を計算しろ。備蓄の現状を洗え。お前の頭の中には、うちの倉庫の棚が全部入っているだろう」


 入っていた。去年の秋に養父上と領内を巡察したとき、各郡の備蓄庫を見て回った。穀物の袋の積み方。弾薬の樽の並び。馬匹の数。鍛冶場の炉の状態。全部、目に入ったものは残っている。


「六万を動かすには補給線が要る。お前が走っても補給線は走らない。わかるな」


 わかった。


 六万。メルンヴァルト辺境伯領の最大動員兵力。常備一万五千に、予備役と民兵を加えて六万。その六万を六百キロ先の帝都まで動かすには、食料、弾薬、馬匹飼料、野営装備、工兵資材——すべてが要る。一人で走るのとは桁が違う。


 ハンスの頭の中で、備蓄庫の棚が展開される。数字が並び、地図が広がり、行軍路が引かれていく。


「……はい」


 右手はまだ震えていた。だが握り締めてはいなかった。


「今から部分動員をかける。常備軍の即応部隊に集結命令を出す。偵察隊を帝都方面に先行させる。全容が判明し次第、総動員に切り替える」


 ギュンターが棚から白紙を出して、テーブルに広げた。


「まず動員計画の骨格を作れ。一時間で出せ」


「十五分で出します」


 ギュンターの目が少しだけ動いた。


「……やれ」


 *


 テーブルの上に紙が広がっていく。ハンスの筆がほとんど止まらない。頭の中にあるものを紙に写すだけだった。備蓄庫の棚が見える。穀物の袋の数が見える。各郡の馬匹登録簿が見える。鍛冶場の炉の温度と、修理待ちの銃架の本数まで見える。


 行軍路を三本引いた。主力路と、予備路と、補給線。水場の位置。渡河点の川幅。橋の耐荷重。全部、目に入ったことがあるものだった。


 十五分かからなかった。


 ギュンターが紙を受け取って、無言で読み、ペンで二箇所に印をつけた。


「この渡河点、春の雪解けで橋脚が流されている。迂回路を追加しろ。それと——」


 指が南端の街道を指す。


「ここの備蓄が薄い。御厨への支援要請を起案しろ。文案はこちらで見る」


 ギュンターの修正は的確で、ハンスの計画の穴を二つだけ突いた。二つしかなかったことに、ギュンターは何も言わなかった。


 次の紙が広がる。兵站の詳細。補給集積所の配置。糧食の日量計算。弾薬の消耗率見積もり。予備馬の配備位置。


 ハンスの筆跡はいつもより力が強かった。文字の角が深く紙に食い込んでいる。書いている間は手の震えが小さくなるが、筆を持っていない左手は膝の上で拳を作っていた。


 *


 どれくらい経ったかわからない。窓の光が傾いている。


 エルンストが入ってきたのは、三本目の行軍路の補給計画を書き直しているときだった。水差しを持って、テーブルの端に置き、ハンスの横に立つ。


「……手が震えているぞ」


 ハンスは筆を止めなかった。


「止め方がわからない。……すみません」


「謝るな」


 エルンストの声は短い。


「俺も同じだ」


 ハンスの筆が止まった。顔を上げると、エルンストの顔は地味で、堅くて、いつもと変わらないように見える。だが目の奥に、見覚えのあるものがあった。


 ベロニカの父が、帝都にいる。


 何も言えなかった。ハンスはエルンストの顔を見て、水差しを見て、水を注いで、飲んだ。エルンストが頷いた。


 筆を持ち直した。手はまだ震えていた。だがやめなかった。


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