第23話
ペドロ殿の声が途切れて、控室に沈黙が落ちた。
窓の外から会場のざわめきがまだ聞こえている。だがこの部屋の中は静かだった。誰も動かない。閣下が窓際の椅子に座ったまま、外を見ている。さっき皇子を殴った右手が膝の上で開かれていた。拳を解いている。
ハンスは閣下の前に立った。
「閣下——申し訳ありませんでした」
閣下が視線を窓から外した。こちらを見上げている。浅く座った姿勢のまま、表情は読めない。
「自分が右手の手袋に手をかけたことで、閣下にご迷惑を——」
「違う」
短かった。閣下の声は低く、静かで、反論を許さない重さがあった。
「お前が謝ることじゃない」
それだけだった。閣下は視線を窓に戻さなかった。ハンスを見ている。トルコ石の瞳が、灯りの下で動かない。
「閣下」
「なんだ」
「——息子と、おっしゃいました」
閣下の眉がわずかに動いた。
教育期間の二ヶ月間、一度も呼ばれなかった。「おい」か「デカいの」だった。養子として迎えると言いながら、一度も息子とは呼ばなかった。それがさっき、皇子の前で——会場の全員の前で、閣下の口から出た。
「調子に乗るな」
閣下は窓の外に目を戻した。
否定はしなかった。言い直しもしなかった。「調子に乗るな」だけが残って、それ以上の言葉はなかった。
ハンスの胸の奥で、何かが静かに満ちていくのがわかった。言葉にはできない。ただ、今までなかったものがそこに置かれた——そういう感覚だった。
控室の扉が開いた。
壮年の男性が入ってきた。長身で、姿勢がいい。軍服ではなく正装だったが、背筋の伸び方に軍人の匂いがある。五年間、毎朝その姿を遠くから見ていた。
礎嶺侯。お嬢様の父君。フォルテシエラ侯爵家の当主。
ハンスは立ち上がって姿勢を正した。五年間仕えた家の主だ。体が勝手に動いた。
礎嶺侯の目がハンスに止まった。穏やかだった。怒りも、非難も、警戒もない。ハンスの顔を知っている人間の目だった。
「——よく、やっているそうだな」
それだけだった。声は低く、穏やかで、聞く者の背を伸ばす種類の重さがあった。辺境伯の重さとは違う。閣下の重さは岩だが、礎嶺侯の重さは地面だった。そこに立っているだけで安定する。
閣下が窓際から礎嶺侯に目を向けた。旧知の空気だった。二人の間に言葉はなかったが、目が合った一瞬で何かが通った。
続いて、もう一人。
礼部公が入室した瞬間に、部屋の空気が変わった。
穏やかな老紳士だった。声を上げたわけではない。威圧したわけでもない。ただ入ってきただけだ。だが控室の温度が一段下がった。さっきまでの——ネリーナさんの追及も、デイジーさんの解説も、ペドロ殿のラヴェンナ嬢の報告も、その全部の残り香が消えた。
この人がさっき、最後に手袋を投げた人だ。
閣下が椅子から立ち上がった。閣下が立ち上がるのを、今日初めて見た。それだけで十分だった。自分がいていい空気ではなくなった。
大人たちの目が交わされている。閣下と礎嶺侯と礼部公。三人の間で、ハンスには読めない言語が動いている。
「デカいの」
閣下の声だった。窓際ではなく、部屋の中央に立った閣下が、こちらを見ていた。本気の目だった。
「ほとぼりが冷めるまでメルンヴァルトに帰れ」
短い。理由の説明はなかった。命令だった。
お嬢様が奥の長椅子にいる。ネリーナさんとデイジーさんが側にいる。ようやく同じ場所にいた。二ヶ月ぶりに、お嬢様の声を聞いた。お嬢様の顔を見た。手袋の意味も、破談のことも、全部この部屋で知った。この部屋から出たら、また離れる。
ハンスは頭を下げた。
「——はい」
それ以外の言葉はなかった。反論するという選択肢が、頭の中に浮かびもしなかった。閣下が帰れと言った。帰る。それだけだった。
胸の奥が締まる感覚があった。何の感情なのかはわからない。ただ、締まっていた。
立ち上がった。退室するために足を動かそうとした。
「——お待ちください」
お嬢様の声だった。
振り返った。奥の長椅子から、お嬢様が立ち上がっていた。ネリーナさんの手がお嬢様の肩から離れている。デイジーさんが隣で息を止めていた。
お嬢様の手が震えていた。膝の上にあった白い手が、ドレスの裾を掴んで離して、行き場を失っている。紫の瞳が真っ直ぐにこちらを——いや、閣下を見ていた。
礎嶺侯の娘が、辺境伯の家庭内の命令に口を出している。それがどういう意味を持つのか、ハンスには正確にはわからなかった。だがお嬢様の手が震えていることはわかった。わかった上で口を開いたのだということも。
閣下がお嬢様を見た。
一拍。
閣下の目が変わった。笑みではない。怒りでもない。見たことのない目だった。何かを測っている——品定めとも違う。もっと真剣な、もっと深い場所でお嬢様を見ていた。
「帰す」
変わらなかった。閣下の判断は動かなかった。だがお嬢様を否定する声ではなかった。「帰す」という事実だけが、静かに置かれた。
ネリーナさんは黙っていた。お嬢様の隣で、止めもせず、促しもせず、ただそこにいた。
お嬢様の睫毛が震えた。紫の瞳の縁に、光が溜まっていた。一筋、頬を伝った。声は出なかった。唇を引き結んだまま、真っ直ぐに立っていた。
「お嬢様——」
思わず出た。口が勝手に動いた。退室するはずだった。足が止まっていた。
お嬢様の涙が見えた。一筋だけ。それ以上は流れなかった。拭いもしなかった。ただ立って、こちらを見ていた。
何を言えばいいのかわからなかった。「申し訳ありません」は違う。「お元気で」も違う。胸の中にあるものが言葉の形をしていなかった。口を開いても、出てくるのは——
「マリーと呼んでください」
お嬢様の声が、静かに響いた。
穏やかだった。涙の痕がまだ頬にあるのに、声だけは穏やかだった。紫の瞳がこちらを真っ直ぐに見ている。命令ではない。懇願でもない。ただ、そう呼んでほしいという気持ちが、そのまま声になっていた。
マリー。お嬢様のミドルネーム。五年間「お嬢様」としか呼んだことがない。それ以外の呼び方を考えたこともなかった。お嬢様はお嬢様だった。ずっと。
「マリー……さん」
口から出た瞬間に、自分でもわかった。「さん」がついた。「マリー」と呼び捨てにはできなかった。「お嬢様」にも戻れなかった。間に入った「さん」が、自分の限界だった。
不器用だった。どうしようもなく不器用だった。それでも、その名前を口にした瞬間に、胸の奥で何かが変わった。何が変わったのかはわからない。ただ、さっきまでと同じではなくなった。
「次お会いするときに、必ず」
何を「必ず」するのか、言葉にならなかった。言えなかった。だが「必ず」だけは本当だった。それだけは嘘ではなかった。
マリーさんの唇がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。泣いたのかもしれない。どちらにも見えた。
ハンスは頭を下げた。深く。それから背を向けて、控室の扉に向かって歩いた。
振り返らなかった。振り返ったら、足が止まると思った。
廊下に出た。扉が閉まった。会場のざわめきが遠くから聞こえていた。靴音だけが、石の廊下に響いていた。
胸の中に、名前が残っていた。
マリーさん。
その名前が何を意味しているのか、まだわからなかった。ただ、もう「お嬢様」には戻れないということだけが、確かだった。




