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第22話

 廊下を歩く靴音だけが響いている。


 控室に通されるまでの間、誰も口を開かなかった。会場のざわめきが遠ざかっていくのを背中に聞いた。すれ違う給仕が道を空け、目を伏せていく。何か怒らせたのだろうか、とハンスは思っていた。右手に手袋がない。お嬢様にご挨拶をしようとして外した、あの手袋。いつ手から離れたのかがわからない。


 広い客間だった。


 閣下が窓際の椅子に腰を下ろした。背もたれに体を預けず、浅く座っている。表情はいつもの笑みに戻っていた——だがさっき皇子を殴ったのと同じ手が、膝の上で握られたままだ。ペドロ殿が壁に背を預けている。紅い手袋が片方だけになっていた。ベロニカがエルンストの隣に座り、エルンストの膝の上にベロニカの帯剣が載っている。


 お嬢様は奥の長椅子に座った。ネリーナさんとデイジーさんが両脇についている。お嬢様の右手もむき出しだった。皇子に投げた方の手が、白いまま膝の上に置かれている。


「ハンス」


 普段の冷たさではない。もっと硬い。管理者として指示を出す時の声とも違う。怒っているのか、それとも——。こんなネリーナさんは知らない。


「どうしてあんなことをしたの」


「あんなこと、とは」


「あなたは、あの場で何をしたか、わかっているの」


 わからなかった。映像は残っている。皇子がお嬢様を侮辱した。閣下が殴った。手袋が投げられた。会場が凍りついた。だが自分がしたことといえば、右手の手袋を外しただけだ。


「殴ったのは閣下です。自分は何も——」


「手袋よ」


 ネリーナさんの目が据わっていた。この人がこんな顔をするのは初めて見る。お嬢様に仕える管理者としての顔でも、辛辣だが冷静な普段の顔でもない。


「お嬢様の前で、皇子の面前で、右手の手袋に手をかけた。あなたが何を考えていたかは知らないけれど、あの場にいた全員がそれを見たの」


 ペドロ殿が壁際で腕を組んだまま、黙っている。こちらを見ているが何も言わない。ベロニカが扇で口元を隠している。閣下は窓の外を見ていた。


 右手の手袋に手をかけた。お嬢様にご挨拶をしようとしただけだった。親しい人に手袋を渡す——ペドロ殿にそう教わった。左右のことは何も聞いていない。


「……すみません。自分は、お嬢様にご挨拶を——」


 ネリーナさんの眉がわずかに動いた。怒りが薄れたのではない。別のものに変わった。もっと深い何かが目の奥にあった。


「——本気で、それだけのつもりだったの」


「はい」


 長い沈黙が落ちた。ネリーナさんが小さく息を吐いた。溜息とも呼べないほど静かな呼気だった。


 沈黙の中で、お嬢様が口を開いた。


「ハンスは——ベロニカ嬢と、婚約なさったのでは」


 穏やかだった。取り繕った穏やかさだと、ハンスにもわかった。お嬢様の紫の瞳が真っ直ぐにこちらを見ている。銀の睫毛が灯りの下で微かに揺れていた。


「……いえ。破談になりました」


「破談ですよ?」


 ベロニカが首を傾げていた。何をいまさら、という顔だった。扇を閉じてこちらに向き直る。


「お義兄さまと私の縁談は、見合いの席で解消になりましたけれど。ご存知なかったの?」


 お嬢様の表情が動いた。眉が上がり、目がわずかに見開かれ、組んでいた手がほどける。


「でも——帯剣を——」


「私の剣はエルに渡しましたけど」


 ベロニカの視線がエルンストに向いた。銀鞘のミニククリがエルンストの膝に載っている。エルンストは何も言わず、ただそこに座っていた。


 お嬢様の視線が同じ場所に落ちた。


「ベロニカ嬢の帯剣が——エルンスト大尉に——」


 帯剣を婚約者に預ける。それは知っている。教育で教わった。帯剣を持たない女性は婚約済みか既婚だ。ベロニカが今日帯剣していなかったのは、エルンストに預けたからだ。自分との婚約ではない。ベロニカとエルンストの婚約だ。


 お嬢様の顔から血の気が引いた。


 紫の瞳が揺れている。唇が微かに動いたが、声にはならなかった。白い手袋をはめたままの左手が、ドレスの裾を握っている。関節が白い。


「……そう、ですか」


 お嬢様がなぜこんな顔をしているのか、ハンスにはわからなかった。ベロニカとの縁談が解消されていたことを知らなかった——それはわかる。だがなぜ血の気が引くのか。なぜ声が震えるのか。自分とベロニカが婚約していないと知ることが、お嬢様にとってなぜ——。


 考えが途切れた。そこから先に言葉がなかった。


 ネリーナさんがお嬢様の肩にそっと手を置いた。デイジーさんが反対側からお嬢様の手を握っている。三人の距離が近い。何かが壊れかけているのを、二人が支えている——そう見えた。お嬢様は俯いたまま、ネリーナさんの手の下で微かに肩を震わせていた。


 だがその「何か」が何なのか、ハンスには見えない。


 デイジーさんが顔を上げた。さっきまでの重い空気の中で、この人だけが別の温度で動いている。お嬢様の手を握ったまま、こちらを見上げて——


「ハンスさん、手袋の右と左って知ってますかー?」


「右と左?」


「右手の手袋を投げたら決闘の申し込みですよー。左手だと求婚です」


 右手が、決闘。


 映像が巻き戻った。会場のシャンデリア。人垣が凍りつく瞬間。自分の右手が手袋にかかっている。皇子の前で。全員がこちらを見た。ペドロ殿の顔から血の気が引いて、紅い手袋がハンスの右手を押さえた。


 ああ——だから。


「……自分は、挨拶のつもりで右手を外しただけです」


「だから大騒ぎになったんですよー。ハンスさんが皇子殿下に決闘を申し込んだって、みんな思ったんです」


 ペドロ殿に教わった作法は「親しい人に手袋を渡す」だった。右と左の区別は教わっていない。あの場で右手に手をかけた——ただそれだけで、会場の全員が決闘と認識した。ネリーナさんが怒っていたのも、周囲が凍りついたのも、全部これが原因だ。


 閣下が窓際で小さく鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。


「左手が求婚、ですか」


「おとぎ話にも出てきますよー? ハンスさん知らないんですかー?」


 デイジーさんの横で、ネリーナさんが静かにペドロ殿を見た。


「ペドロ」


「なんだ」


「手袋を渡す作法を教えたのは、あなたですね」


 ペドロ殿の笑みが消えなかった。だが目が笑っていない。壁に預けた背をわずかに起こして、ネリーナさんの視線を受けている。


「左右の区別を教えなかったのは——意図的ですか」


「まさか。挨拶の作法を教えただけだ」


「挨拶の作法に、左右の説明を含めないことがありますか」


 ペドロ殿は答えなかった。紅い手袋の片方を指先で弄んでいる。ネリーナさんの目が細くなった。


「手袋の求婚は、女性なら一度は憧れるものです」


 いつもの冷たさとは違う。柔らかい、というのも違う。もっと奥の方から出た声だった。お嬢様の肩に手を置いたまま、視線はこちらを向いていない。


「お前もか?」


 ペドロ殿が壁から身を起こして、軽く言った。


 ネリーナさんの目が据わった。先ほどハンスに向けたものとは別の種類の据わり方だった。温度が三段下がったような目で、ペドロ殿を見ている。ペドロ殿は笑っている。ネリーナさんは笑っていない。ベロニカが扇の陰で声を殺していた。


「そういえば」


 ペドロ殿が空気を切り替えるように言った。紅い手袋——片方だけの——を指先で弄びながら。


「さっきの連鎖の最中に面白いことがあった。御厨侯の三女殿が手袋に手をかけていた。夫に止められて未遂だったが——なかなか肝の太い女性だ」


「三女殿が?」


 ラヴェンナ嬢。成婚記念パーティーの主催者だ。胡桃色の髪に紫の瞳。つい先ほど挨拶を交わしたばかりの顔が浮かぶ。あの穏やかな女性が——手袋に?


「自分の成婚記念の宴で、皇子に手袋を投げようとしたのか。大したもんだ」


 ペドロ殿は感心したように言って、それきり黙った。何を考えているかは、いつも通り読めない。


 窓の外から、会場のざわめきがまだかすかに聞こえていた。


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