第21話
人垣が途切れた先に、金色が見えた。
銀色の髪を目指して人波を縫ってきた。あと数歩でお嬢様のところに着く——その手前に、別の人影があった。
金髪。白の正装。肩に金銀のエポレット——皇族の証。暗い緑の瞳が苛立ちを隠しきれずに動いている。第二皇子フェリクス殿下。教育で教わった顔だ。お嬢様の元婚約者。十八歳、細身。ハンスと並べば子供のように見える体格の若い男が、何か言いながらお嬢様に詰め寄っていた。声の中身までは聞こえない。ただ調子だけが伝わってくる——苛立ちと、何かを取り繕うような響き。
周囲は知らぬふりをしている。近くの紳士淑女が視線をわずかに逸らし、扇の陰にささやきを落としてはいるが、誰も間に入ろうとしない。社交界の出来事の一つとして処理しているように見えた。
お嬢様は静かだった。声を荒げず、表情を崩さず、深い紫のドレスの裾を微動だにさせずに皇子と向き合っている。肘上丈の白い手袋をはめた両手が体の前で組まれ、腰の銀鞘のジャンビーヤが灯りを受けて鈍く光っていた。その横にネリーナさんが控えている。
ご挨拶をしなければ。
シャンデリアの光が眩しい。人の声が重なり合って意味を成さない。フィルタが全力で回っている中で、行動の指針だけが明確だった。お嬢様にご挨拶をする。養子として初めての社交の場で、お嬢様に。それだけだ。
ハンスは右手の手袋に手をかけた。親しい人に手袋を渡す——ペドロ殿に教わった作法だ。お嬢様の方へ歩を進める。
——会話が止んだ。
近くにいた紳士の足が止まる。扇が閉じる。笑い声が引く。グラスを持ち上げかけた手が宙で停まっている。波紋のように静寂が広がって、シャンデリアの灯りだけが変わらず降り注いでいるのに、会場の温度が変わった。全員がこちらを見ている。皇子を。お嬢様を。——ハンスの右手を。
何かあったのだろうか。ハンスは足を止めた。
「まぁまぁまぁ、ちょっと待て」
ペドロ殿が前に割り込んできた。紅い手袋がハンスの右手をそっと押さえている。笑顔はある。だが陽気な色が抜けていた。さっきまで勲章で女性たちを沸かせていた男の顔から血の気が引いている。
「挨拶は後にしろ。な?」
低い声だった。場を収めようとする速さだけが、社交の男の動きを残していた。ハンスにはわからなかった。何がいけないのか。右手の手袋に手をかけた、それだけのことなのに。
お嬢様がこちらを見ていた。驚いた顔をしていた。
*
皇子の声が飛んだ。
「平民風情が何故こんなところにいる」
ハンスに向けられていた。答えようとした。「辺境伯閣下の——」
「ここは場末の酒場ではない。酒が飲みたければそちらにいくことだ」
遮られた。ざわめきが広がる。扇の陰から出ていた視線が、もう隠れなくなっている。声を潜めていたささやきが消え、代わりに重たい沈黙が周囲を覆い始めていた。皇子の声が上ずっている。金髪がわずかに乱れ、一瞬後ずさったのが見えた——だがすぐに顎を上げ、ハンスを見下ろそうとする。細い体が無理に膨らんでいるように見えた。困っている、とハンスは思った。この人は何かに追い詰められている。
意味を取ろうとしている間に、声が重なった。
「貴様の差金かヴィオレット、全くこれだからいまだに新しい婚約者の見つからんのだ」
息を呑む音が周囲から聞こえた。それまでざわめいていた声が一斉に消え、扇が止まり、足が止まり、会場の一角が凍りついた。
——お嬢様の名前を、呼び捨てにした。
「老婆のような白髪でよくもこのような場に出てこられたな」
白髪ではない。
反射のように浮かんだ。あれは銀だ。灰銀から白銀へ、灯りの加減で色が移ろう髪だ。白髪とは全く違う。——だがそれは口に出なかった。代わりに、胸の奥で冷たいものが動いた。困惑とは別の何かだった。言葉にならない。輪郭がない。ノイズが少し減る。お嬢様の名前を——あの呼び方で——あの髪を——。だが体は動かなかった。何をすればいいのかわからない。
周囲から音が消えていた。会場の一角が完全に沈黙している。皇子とハンスの間に、もう誰も入ってこない。
皇子の暗い緑の目が据わらないまま、ハンスに戻った。
「まさか、このボロキレ本当に参加者なのか?帝国の社交界も落ちたものだn——」
鈍い音がした。
皇子の顔が横を向いた。白い頬に拳の痕が浮いている。金銀のエポレットの房が揺れ、細い体がよろめいて、白い正装の裾が大理石の床を擦った。白い手袋が一枚、皇子の顔から滑り落ちていく。
閣下がそこに立っていた。さっきまでハンスの後方にいたはずの白髪が、いつの間にか皇子の正面にいる。右手は素手だった。振り抜いた拳——手袋を投げつけると同時に、むき出しの拳が皇子の顔を打っている。白髪に浅黒い肌。トルコ石の瞳が据わっている。宴の間ずっと笑みを絶やさなかった顔から、表情のすべてが消えていた。腹芸も、かぶきものの笑みもない。
「俺の息子を侮辱するな」
怒鳴ってはいなかった。低く、重い。腹の底から絞り出すような声だった。
——息子。
閣下がそう言った。教育の間ずっと「おい」か「デカいの」か「お前」だった。一度もそう呼ばれたことがなかった。何かが胸の奥で動いたが、それが何なのかわからない。
「……皇族に手を上げたな、辺境伯」
よろめきながら、皇子が立ち上がろうとしていた。頬が赤く腫れ始めている。声が震えていた。それでも言葉だけは皇子の形を保とうとしている。
「知るかボケ」
「この場の全員が見ているぞ。不敬罪だ」
皇子が周囲を見回した。全員が見ている——それは事実だった。だが誰一人、皇子の側に立とうとしない。目が合った紳士が視線を逸らす。扇を閉じた女性が一歩引く。皇子の言葉が空を切って、沈黙の中に落ちていった。
靴音が近づいてくる。
ペドロ殿が歩いてきた。急がない。社交の場を横切るのと同じ足取りで、真っ直ぐに。紅い手袋がシャンデリアの光を受けている。笑顔に戻っていた。だがさっきまでの社交の笑みではなかった。人狼が村人側を明かしたような——底が見える笑い方だった。
「親父殿がやるなら付き合います」
紅い手袋を片方外し、ぽいと投げる。紅い色がシャンデリアの光の中を泳ぎ、ゆっくりと弧を描いて、皇子の足元に落ちた。紅が、白い大理石の上に広がっている。
*
声が消えた。
会話の残響も、足音も、扇の音もない。会場を満たしていた全ての音が引いて、残ったのは沈黙だけだった。シャンデリアの蝋燭が微かに揺れる気配すら遠い。
お嬢様が動いた。
銀髪がシャンデリアの光を受けて白く浮かんでいる。深い紫のドレスに包まれた細い体が、ゆっくりと皇子のほうを向いた。
白い手袋——肘の上まで伸びた社交の正装手袋。その端に細い指がかかる。絹の縁をつまみ、ゆっくりと引いていく。静まり返った会場の中で、絹が肌を滑る音すら聞こえそうだった。片方の手袋がお嬢様の腕から離れていく。白い手の甲が灯りの下に現れ、指先まで絹が抜けて——
お嬢様は手袋を投げた。皇子に向けて。指先がかすかに震えていた——だが動作は止まらなかった。白い手袋が宙を滑り、皇子の前の床に落ちた。大理石の上で音もなく広がる。
胸が締め付けられた。この夜で一番深い場所を、何かが圧している。お嬢様が手袋を外した——それだけしかわからない。意味がわからないのに、重い。映像だけが正確に残っている。白い手袋がお嬢様の指先を離れる瞬間。
視界の隅で誰かが動きかけて、止められた気配があった。
礎嶺侯が歩み出た。お嬢様の父君——教育で教わった二つ名が浮かぶ。無言で手袋を外し、投げた。娘の後に、父が続く。なぜ礎嶺侯まで——。
「貴様ら俺に楯突くということは帝国を敵に回す覚悟はあるだろうな」
皇子が喚いていた。金髪が額に貼りつき、白い正装の襟が崩れ、声がもう裏返っている。
返答は声ではなかった。
人の流れが割れる。一人の老紳士が歩いてくる。足音すら聞こえない。静かに、ゆっくりと。紳士淑女が自然に道を空けていく——その速さだけが、来る者の重さを語っている。
礼部公。帝国の儀礼の頂に立つ人だ。この人が動いたら社交的に終わる——ペドロ殿がそう教えた。教育の記憶が浮かぶ。儀礼の最高権威。社交の場におけるこの人の裁定は、皇族であっても覆せない。
礼部公が皇子の前で止まった。表情は見えない。静かな目が皇子を見下ろしている——ただそれだけなのに、空気が変わった。一拍。手袋の端に指がかかる。もう一拍。会場の全員が動けない中で、白い手袋が外され——落ちた。他の手袋の上に重なるように、音を立てず大理石に広がる。
帝国を敵に回す覚悟はあるか、と皇子は言った。その帝国の儀礼の頂が、皇子を切り捨てた。
誰も動かなかった。会場に静寂が張りついている。
皇子が床に膝をついている。金髪が乱れ、白い正装が汚れ、金銀のエポレットの房が片方垂れていた。さっきまで華やかだった白の正装が、影を帯びている。足元に手袋が散らばっている。白い手袋。紅い手袋。また白い手袋。皇子を囲むように。
何が起きたのか、まだ整理できていない。お嬢様の手袋も、礎嶺侯の手袋も、礼部公の手袋も——意味がわからない。全部見えていた。お嬢様の指先から手袋が離れる瞬間も、礼部公の静かな目も、一つ残らず。だが意味だけが追いつかない。
ただ一つだけ、残っているものがある。
閣下が、息子と呼んだ。
初めて。




