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第20話

 会場に踏み入った瞬間、頭上のシャンデリアが視界を埋めた。


 蝋燭の炎が何百と吊られ、天井の金箔を照り返している。磨き上げられた大理石の床。壁面の大鏡。卓上に居並ぶ銀器。光が光を跳ね返して、どこを見ても眩しかった。人の密度も尋常ではない。絹ずれの音、グラスが触れ合う音、笑い声。それらが層になって四方から押し寄せてくる。


 正装の襟が首を締めている。腰の大型サーベルが歩くたびに揺れて、すれ違う人々がさりげなく道を空けた。居心地が悪い。軍服なら体が馴染むのに、社交の正装は借り物のようにどこか収まりがつかなかった。


 隣を歩く閣下には、臆する気配がない。


 白髪に浅黒い肌、トルコ石色の瞳。仕立ての良い正装を一分の崩れもなく着こなしている。だがその上から、革にトルコ石を嵌めた大ぶりの留め具がマントを留め、腰帯には琥珀の飾りが連なっていた。


 中央貴族の紳士淑女が淡い色調の絹に身を包む中で、閣下だけが別の季節から歩いてきたように異質だ。それでいて、あたかもこの場が自分の居間であるかのように歩く。周囲も慣れたもので、苦い顔をしながらも咎める者はいない。長い年月をかけて通してきた異質は、もう風景の一部になっている。


 ハンスにも視線が集まっていた。閣下とは種類が違う。会話が途切れ、扇の陰にささやきが生まれ、目が合うと逸らされる。閣下に向くのが「またあの男か」という諦めなら、ハンスに向けられるものはもっと生々しい反応だった。——よくわからない。わからないまま、肩の力だけが抜けない。


 ベロニカ嬢がエルンストの隣を歩いている。今日は帯剣していない。代わりにエルンストの腰にベロニカ嬢の飾り鞘がかかっていた。ベロニカ嬢はどこか楽しげに周囲を見回している。


 ペドロ殿は黒の正装に身を包み、もう誰かと軽口を叩いていた。胸元にトルコ石のピンが一つ光っている以外は完璧な黒——だが紅い手袋だけが、シャンデリアの灯りの下でやけに目についた。


 閣下は全身で浮く。ペドロ殿は手袋一つだけで浮く。そしてハンスは、何もしていないのに浮いていた。





 閣下が主催の前で足を止め、ハンスは半歩遅れてその横に並んだ。


 御厨侯三女のラヴェンナ嬢。新婚の晴れやかさをまとった女性がこちらを見た。紫の瞳、小麦色の肌。胡桃色の髪が灯りを受けて暖かく見えた。挨拶の言葉を交わす間、ハンスは教わった通りの所作で礼を取った。口上はぎこちなかったが、崩れはしなかった。ラヴェンナ嬢は品よく笑って応じてくれた。


 挨拶を終えて下がったところで、ペドロ殿が横に来た。


「お前、さっきの三女殿を見てどうだった」


「どう、とは」


「紫の瞳に栗毛だぜ。条件に似てるだろ、勘違いしなかったか?」


「違います。あれは栗色ではなく胡桃色です。色の深さが二段違います。肌も象牙ではなく小麦ですし、目の色は確かに紫ですが彩度と輪郭の造りが違います。間違えようがありません」


 ペドロ殿が口を開けたまま止まった。


「……そこまで一瞬で見てるのか、お前」


「見ればわかります」


 ベロニカ嬢が扇の陰で肩を震わせている。閣下は一瞥だけくれて、何も言わずに先へ歩いた。ペドロ殿が小さく首を振る。


「そうか。わかるか。そうだな、お前はそういうやつだったな」


 何が可笑しいのかわからない。


 挨拶回りが一段落して、ハンスは会場を見渡した。人が多い。どの方角にも正装の紳士淑女がひしめいていて、教わった家紋を探そうにも情報の波に押し流される。これだけの人間がいるのに、戦場より落ち着かない。


 会場の奥——主催への挨拶を終えたらしい一群の中に、銀色の髪が見えた。


 灯りの下で白銀に光る長い髪。シャンデリアの灯りが当たるたびに、灰銀から白銀へ色が移ろう。紫の瞳。社交の正装に包まれた、細くまっすぐな佇まい。銀の睫毛が頬に淡い影を落としている。唇がかすかに動いて、誰かに穏やかな会釈をしているところだった。


 胸が締め付けられる。名前のつけられない痛み。重さとは違う、もっと鋭くて純粋な何か。


 一瞬だけ、シャンデリアの光も人の笑い声もどこかへ退いた。周囲の喧騒が薄い膜の向こうに遠のいて、銀髪の令嬢だけが鮮明に浮かび上がる。映像が正確に焼きつく。それだけのことだった。覚えているだけだ。いつもと同じだ。ただ、いつもより——少しだけ正確だった。


 すぐに音が戻ってきた。隣で誰かが笑い、グラスが鳴り、会場の喧騒がまた全身を包む。


 お嬢様の傍らに、ネリーナさんが控えているのが見えた。


 挨拶をしなければ、と思った。養子として初めての社交の場だ。お嬢様にご挨拶をしなければ。





 足が止められた。


 殿戦闘の勲章が目に入ったのか、若い女性たちが数人、声をかけてきたのだ。


「まあ、あの戦いでご活躍なさったのですか」


「ご立派な勲章ですこと」


「あ、はい。ありがとうございます」


 ハンスは一人ずつ真面目に応じようとした。だが丁寧に答えるたびに人が増え、気がつけば退路がなくなっている。視線だけが人垣の隙間を縫って令嬢のほうへ向く。お嬢様の銀髪が、会場の灯りを受けて遠くに揺れていた。


「モテモテだなぁ」


 いつの間にか横に来ていたペドロ殿が、自分の胸元の勲章をちらつかせるようにして女性たちの注意を引き受けた。紅い手袋が灯りの下で翻る。


「お嬢さんたち、こっちも話くらい聞いてくれよ。伯爵は寂しいんだ」


 笑いが起きて、女性たちの視線が移る。笑顔で場を回すその手際は鮮やかで、社交界はこの人の庭なのだと思った。


「すみません、ペドロ殿」


「行ってこい」


 短く笑って、それだけ言った。何を考えているかは、いつも通り読めない。


 ただ、挨拶をしなければならない人がいる。


 胸がまた痛んだ。締め付けるような、名前のない痛み。


 ハンスは人波の中へ一歩を踏み出した。銀色の髪が見える方角へ、まっすぐに。


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