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第19話

 ペドロ殿が日程表を畳んで、テーブルの上に置いた。二ヶ月間、毎朝広げられていた紙だった。


「最低限は叩き込んだ。——少佐、次は実戦だ」


 御厨侯三女ラヴェンナの成婚記念パーティー。ペドロ殿はそう言って紅い手袋の指を鳴らした。ハンスにとって最初の社交の場になる。


「準備は整っています。出発します」


 ネリーナさんが扉の横で腕を組んだまま言った。もうすべて手配済みの口調だった。


「ネリーナさん」


「なんですか」


「一冬まるまる、こちらにいましたよね。お嬢様のそばを離れて——よかったんですか」


 ネリーナさんの目が、ほんの一瞬だけ動いた。


「デイジーがおります。それに、冬のメルンヴァルトは峠が雪で塞がります。行き来そのものができません」


 声は平坦だった。事実を並べただけの、反論の余地がない答え方をする人だった。


「……そうですか」


「これは辺境伯閣下からの任務です」


 最後の一文だけ、少し硬かった。ハンスにはそれが何を意味しているのかわからなかったが、それ以上は聞かなかった。





 馬車が市門を抜けた。土と草の匂いが消えて、石と煤と人の体温が混ざった空気に変わる。建物が空を狭くしている。三階建て、四階建て——辺境にはない高さの壁が通りの両側から迫って、影が石畳を覆っていた。


 すれ違う馬車の数が、前線にいた頃の一日分を数分で超えていく。蹄の音と車輪の音が、途切れない。


 ハンスは窓の外を見て、それから視線を戻した。向かいに座っているベロニカ嬢が、こちらを見ていた。


「お義兄さま、口が開いてますよ」


 閉じた。





 門を入った瞬間にわかった。石の色が白い。壁に蔦がない。庭木は整えられていて、風に任せた伸び方をしていない。空気の中に花の香りがある——冬ではないのだから当然だが、二ヶ月間雪と泥の中にいた鼻には、やけに甘く感じた。


「ここが帝都の屋敷か」


「閣下が議会の会期中にお使いになる邸です」


 ネリーナさんが馬車を降りながら言った。


「本邸より小さいが、帝都の一等地だ。場所だけはいい」


 ペドロ殿が後ろから続いた。屋敷を見上げる目に、見慣れた場所を確認するような余裕がある。ハンスにとっては初めての建物だった。


 玄関の先は、石造りの広間だった。使用人が並んでいる。床も壁も磨き上げられていて、靴音だけで異なる世界に来たとわかる。


 ベロニカ嬢は慣れた様子で先に入っていった。振り返りもしない。


「お部屋にご案内します」


 使用人に促されるまま廊下を歩いた。壁に掛かった絵や調度品に目が向くが、それが高価なものなのかどうかはわからない。ただ、本邸にあった毛皮や角の飾りが一つもないことだけは見てとれた。





 部屋で、ネリーナさんが衣装を広げた。


 袖を通した。肩幅は合っている。腕を回してみる——動きにくい。前線の軍服とは布の張り方が違う。生地が沿いすぎて、肩甲骨の動きが制限される。


 剣を左腰に佩いた。これだけは二ヶ月前と同じ重さで、同じ位置にある。自分の中で唯一、馴染んでいるものだった。


「合格ですか」


 ネリーナさんは答えなかった。代わりに、ほんのわずかに——本当にわずかに、口の端が動いた。


「不合格なら、あなたをあの場には出しません」


 扉が開いて、ベロニカ嬢が顔を出した。ハンスの姿を上から下まで見て、一度頷いた。


「似合わないけど、悪くないわ」


 褒められたのかどうかわからなかった。





 廊下の奥から、閣下の声が聞こえた。


「おい。行くぞ」


 ハンスの肩が強張った。指先が冷たい。首の後ろが熱い。——体が、戦場の前と同じ反応をしている。


 剣の柄に手を置いた。硬い金属の感触が、少しだけ指先を落ち着かせた。


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