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第18話

 三日目で、ハンスは自分から兵棋盤の駒を並べ直していた。


 ペドロ殿が腕を組んで見ている。紅い手袋の指先が、二の腕を叩いている。


「やり直しですか」


「いや。並べ方は合ってる」


「では——」


「合ってるから聞いてる。なぜその配置にした」


 言葉にしようとして、詰まった。地形は見えている。兵の数も、装備の差も、補給線の長さも。頭の中には全部ある。だが——それを口にすると、どこかで歪む。


「……右翼の林がこう繋がっていて、ここに騎兵を伏せれば」


「それは何日目の話だ」


「二日目です」


「初日は?」


「初日は持たせるだけです。橋を——」


 ペドロ殿の目が変わった。褐色の瞳が、一瞬だけ値踏みの色を消して、別のものを見ていた。


「……続けろ」





「背筋。伸ばしなさい」


 ネリーナさんの声は、戦場の号令より容赦がなかった。


 椅子の座り方。匙の持ち方。会釈の角度。相手の爵位によって変わる一礼の深さ。全部違う。全部、体に刻まなければならない。五年間、剣と泥と馬の背で作った体が、一つひとつ矯正されていく。背骨に定規を入れられたような感覚がある。


「メルンヴァルトは十二諸侯と同格かやや下。権限は強い、権威は下。社交界で浮くのは覚悟しなさい」


「浮く、というのは」


「あなたの養父上の振る舞いを見ていれば想像がつくでしょう」


 閣下の顔が浮かんだ。毛皮のマントと白い髪とトルコ石の目。帝都の社交場にあの人が立っている図を想像して——確かに、浮く。沈む余地がないほどに。


「あの方は意図的にやっています。あなたは意図せずやるでしょうから、なおさら厄介です」


 言い返す余地がなかった。





「社交界に出るなら叩き込め。十二諸侯は家名で呼ぶな。二つ名で呼べ」


 ペドロ殿がテーブルに家紋の写しを並べた。十二枚。インクと羊皮紙の匂いがする。どれも古い——何代も前の手から渡ってきたような色褪せ方をしている。


「まず五つ。礎嶺侯フォルテシエラ」


「お嬢——」


「お前の嫁の実家だ」


 嫁。何のことかわからなかったが、ペドロ殿は構わず続けた。


「穏健保守の同盟リーダー。穀物と河川と硝石を押さえてる。敵に回すと兵站が干上がる。——次。御厨侯シェロコポーレ。帝国の胃袋だ。今度のパーティーの主催はここ。東方防衛三家の一角で、メルンヴァルトの壁に金を出してる。つまりお前の飯の種だ。粗相するな」


「はい」


 ペドロ殿の説明は兵棋演習と同じ速度で進む。地形を読むように、ハンスは家紋の線と色を目に焼きつけていった。


「礼部公レギウス。儀礼の頂点だ。この人が動いたら社交的に終わる。逆に言えば、この人が動かない限り何をやっても形式上はセーフだ。まあお前には関係ないだろうが」


「はい」


「駿鉄公ヴァシュロヴァ。勇気馬鹿。正面から殴ってくるタイプだから、お前とは気が合うかもしれん」


「殴ってくるんですか」


「比喩だ。最後。百花公メディチェロ。新聞を出してる家だ。書かれたくなければ大人しくしてろ」


 ペドロ殿が紅い手袋で十二枚の写しを扇状に広げた。


「残りは自分でやれ」


 ハンスは十二枚の写しを見た。


「……全部覚えました」


 ペドロ殿の手が止まった。


「一回で?」


「はい。色と配置が全部違うので」


 紅い手袋が顎を撫でた。ペドロ殿は何か言いかけて、やめた。


「……じゃあ、三番目の家の当主の名前は」


「レギウス公爵、アウレリウス・ポンティフィ・レギウス。五十八歳。皇室縁戚で——」


「わかった。もういい」





 廊下で閣下とすれ違った。白い髪に夕陽が当たっている。軍服ではなく平服だったが、歩き方に隙がない。すれ違うだけで空気の温度が変わるような人だった。


「おい、デカいの」


「はい、閣下」


「飯は食ったか」


「はい」


「ペドロにしごかれてるか」


「はい」


「そうか」


 閣下はそのまま歩いていった。背中が廊下の奥に消えるまで、ハンスはその場に立っていた。





 兵棋演習の片づけをしている最中だった。ペドロ殿が駒を箱に戻しながら、思い出したように言った。


「ところで一つ教えておく。挨拶の作法だ」


「挨拶、ですか」


「社交界で親しい相手に会った時、手袋を差し出す。相手がそれを受け取れば、信頼の証だ」


 紅い手袋を右手から外して、テーブルの上に置いた。革の甲に銀糸で遊牧民の文様が入っている。裏地が——妙に分厚い。


「格のある家の連中なら通じる。損はない」


「手袋を、渡すんですか」


「ああ。相手が受け取ったら挨拶成立だ」


 ペドロ殿は紅い手袋をはめ直しながら、にやりと笑った。


「まあ、やる機会があったらやってみろ」


 ハンスは素直に頷いた。





「あなたの想い人って、どんな方?」


 第一夫人のほうだった。柔らかい笑顔で茶を注いでくれる。部屋には花と焼き菓子の甘い匂いが充満していて、ペドロ殿の部屋にもネリーナさんの部屋にもない種類の圧がある。ベロニカ嬢が隣に座っていて、興味深そうにこちらを見ている。


「想い人、ですか」


「ベロニカから聞いたの。お見合いの時に、他に心に決めた方がいらっしゃるって」


「……はい。昔、会った方で——」


「まぁ。いつ頃?」


「十六年前です」


「十六年!」


 第二夫人のほうが、お菓子を運びながら声を上げた。


「あらあらあら。一途なのねぇ」


「……はぁ」


 ベロニカ嬢が、茶碗の縁に唇を当てたまま、こちらを見ている。淡い青の目が笑っていた。助けてくれる気配はまったくない。


「栗毛で、紫の目の子です」


「素敵。——でもね、人は変わるものよ?」


 第一夫人の声は穏やかだった。穏やかすぎて、何かを試されている気がした。兵棋演習のほうがまだ退路がある。


 ベロニカ嬢が茶碗を置いた。


「お義兄さま、お茶のおかわりは?」


「……はい」


 逃げ場は、なかった。





 夜、客間の窓から月が見えた。


 ふと——胸が締め付けられた。


 重さではなかった。前はもっと重くて、鈍くて、名前がつかなかった。今は違う。軽くなったのではなく、鋭くなっている。針のように細くて、呼吸のたびに刺さる。


 お嬢様は、今ごろ何をしているのだろう。


 考えた途端に、また刺さった。ハンスは窓を閉めた。





 一週間が経ち、二週間が経った。


 ペドロ殿の兵棋演習で、自分から別の配置を提案するようになった。「こっちのほうが——」と言いかけて、説明がもつれる。頭の中にはあるのに、口から出ると歪む。ペドロ殿は黙って聞いて、時々頷いた。言葉が追いつかない分、盤上の駒を動かして見せると、ペドロ殿の目が少しだけ鋭くなる。それが正解の合図だと、いつからか理解していた。


 ネリーナさんの作法教育で、会釈の角度を体が刻んだ。頭で考える前に首が動くようになった。ネリーナさんは「まだ甘い」としか言わなかったが、やり直しの回数は減っている。


 ベロニカ嬢は予告なく現れた。「お義兄さま、背中が丸い」「お義兄さま、その持ち方は平民」「お義兄さま、それは令嬢に言ってはいけない言葉です」——容赦がなかった。三方向から矯正されている気分で、息を抜ける時間は書庫にいる時だけだった。


 辺境伯家の書庫で、東方辺境の歴史書を開いた。閣下に言われたからではない。ネリーナさんの教育で出てきた話が気になったからだ。遊牧民との混血の歴史。貴族号「ベル」の由来。自分がこれから名乗る家の、知らないことが多すぎた。埃っぽい革表紙をめくりながら、こういう時間が嫌いではないことに気づいている。


 閣下は時々廊下ですれ違った。


「おい。寝てるか」


「はい、閣下」


 いつも、それ以上の言葉はなかった。


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