第18話
三日目で、ハンスは自分から兵棋盤の駒を並べ直していた。
ペドロ殿が腕を組んで見ている。紅い手袋の指先が、二の腕を叩いている。
「やり直しですか」
「いや。並べ方は合ってる」
「では——」
「合ってるから聞いてる。なぜその配置にした」
言葉にしようとして、詰まった。地形は見えている。兵の数も、装備の差も、補給線の長さも。頭の中には全部ある。だが——それを口にすると、どこかで歪む。
「……右翼の林がこう繋がっていて、ここに騎兵を伏せれば」
「それは何日目の話だ」
「二日目です」
「初日は?」
「初日は持たせるだけです。橋を——」
ペドロ殿の目が変わった。褐色の瞳が、一瞬だけ値踏みの色を消して、別のものを見ていた。
「……続けろ」
*
「背筋。伸ばしなさい」
ネリーナさんの声は、戦場の号令より容赦がなかった。
椅子の座り方。匙の持ち方。会釈の角度。相手の爵位によって変わる一礼の深さ。全部違う。全部、体に刻まなければならない。五年間、剣と泥と馬の背で作った体が、一つひとつ矯正されていく。背骨に定規を入れられたような感覚がある。
「メルンヴァルトは十二諸侯と同格かやや下。権限は強い、権威は下。社交界で浮くのは覚悟しなさい」
「浮く、というのは」
「あなたの養父上の振る舞いを見ていれば想像がつくでしょう」
閣下の顔が浮かんだ。毛皮のマントと白い髪とトルコ石の目。帝都の社交場にあの人が立っている図を想像して——確かに、浮く。沈む余地がないほどに。
「あの方は意図的にやっています。あなたは意図せずやるでしょうから、なおさら厄介です」
言い返す余地がなかった。
*
「社交界に出るなら叩き込め。十二諸侯は家名で呼ぶな。二つ名で呼べ」
ペドロ殿がテーブルに家紋の写しを並べた。十二枚。インクと羊皮紙の匂いがする。どれも古い——何代も前の手から渡ってきたような色褪せ方をしている。
「まず五つ。礎嶺侯フォルテシエラ」
「お嬢——」
「お前の嫁の実家だ」
嫁。何のことかわからなかったが、ペドロ殿は構わず続けた。
「穏健保守の同盟リーダー。穀物と河川と硝石を押さえてる。敵に回すと兵站が干上がる。——次。御厨侯シェロコポーレ。帝国の胃袋だ。今度のパーティーの主催はここ。東方防衛三家の一角で、メルンヴァルトの壁に金を出してる。つまりお前の飯の種だ。粗相するな」
「はい」
ペドロ殿の説明は兵棋演習と同じ速度で進む。地形を読むように、ハンスは家紋の線と色を目に焼きつけていった。
「礼部公レギウス。儀礼の頂点だ。この人が動いたら社交的に終わる。逆に言えば、この人が動かない限り何をやっても形式上はセーフだ。まあお前には関係ないだろうが」
「はい」
「駿鉄公ヴァシュロヴァ。勇気馬鹿。正面から殴ってくるタイプだから、お前とは気が合うかもしれん」
「殴ってくるんですか」
「比喩だ。最後。百花公メディチェロ。新聞を出してる家だ。書かれたくなければ大人しくしてろ」
ペドロ殿が紅い手袋で十二枚の写しを扇状に広げた。
「残りは自分でやれ」
ハンスは十二枚の写しを見た。
「……全部覚えました」
ペドロ殿の手が止まった。
「一回で?」
「はい。色と配置が全部違うので」
紅い手袋が顎を撫でた。ペドロ殿は何か言いかけて、やめた。
「……じゃあ、三番目の家の当主の名前は」
「レギウス公爵、アウレリウス・ポンティフィ・レギウス。五十八歳。皇室縁戚で——」
「わかった。もういい」
*
廊下で閣下とすれ違った。白い髪に夕陽が当たっている。軍服ではなく平服だったが、歩き方に隙がない。すれ違うだけで空気の温度が変わるような人だった。
「おい、デカいの」
「はい、閣下」
「飯は食ったか」
「はい」
「ペドロにしごかれてるか」
「はい」
「そうか」
閣下はそのまま歩いていった。背中が廊下の奥に消えるまで、ハンスはその場に立っていた。
*
兵棋演習の片づけをしている最中だった。ペドロ殿が駒を箱に戻しながら、思い出したように言った。
「ところで一つ教えておく。挨拶の作法だ」
「挨拶、ですか」
「社交界で親しい相手に会った時、手袋を差し出す。相手がそれを受け取れば、信頼の証だ」
紅い手袋を右手から外して、テーブルの上に置いた。革の甲に銀糸で遊牧民の文様が入っている。裏地が——妙に分厚い。
「格のある家の連中なら通じる。損はない」
「手袋を、渡すんですか」
「ああ。相手が受け取ったら挨拶成立だ」
ペドロ殿は紅い手袋をはめ直しながら、にやりと笑った。
「まあ、やる機会があったらやってみろ」
ハンスは素直に頷いた。
*
「あなたの想い人って、どんな方?」
第一夫人のほうだった。柔らかい笑顔で茶を注いでくれる。部屋には花と焼き菓子の甘い匂いが充満していて、ペドロ殿の部屋にもネリーナさんの部屋にもない種類の圧がある。ベロニカ嬢が隣に座っていて、興味深そうにこちらを見ている。
「想い人、ですか」
「ベロニカから聞いたの。お見合いの時に、他に心に決めた方がいらっしゃるって」
「……はい。昔、会った方で——」
「まぁ。いつ頃?」
「十六年前です」
「十六年!」
第二夫人のほうが、お菓子を運びながら声を上げた。
「あらあらあら。一途なのねぇ」
「……はぁ」
ベロニカ嬢が、茶碗の縁に唇を当てたまま、こちらを見ている。淡い青の目が笑っていた。助けてくれる気配はまったくない。
「栗毛で、紫の目の子です」
「素敵。——でもね、人は変わるものよ?」
第一夫人の声は穏やかだった。穏やかすぎて、何かを試されている気がした。兵棋演習のほうがまだ退路がある。
ベロニカ嬢が茶碗を置いた。
「お義兄さま、お茶のおかわりは?」
「……はい」
逃げ場は、なかった。
*
夜、客間の窓から月が見えた。
ふと——胸が締め付けられた。
重さではなかった。前はもっと重くて、鈍くて、名前がつかなかった。今は違う。軽くなったのではなく、鋭くなっている。針のように細くて、呼吸のたびに刺さる。
お嬢様は、今ごろ何をしているのだろう。
考えた途端に、また刺さった。ハンスは窓を閉めた。
*
一週間が経ち、二週間が経った。
ペドロ殿の兵棋演習で、自分から別の配置を提案するようになった。「こっちのほうが——」と言いかけて、説明がもつれる。頭の中にはあるのに、口から出ると歪む。ペドロ殿は黙って聞いて、時々頷いた。言葉が追いつかない分、盤上の駒を動かして見せると、ペドロ殿の目が少しだけ鋭くなる。それが正解の合図だと、いつからか理解していた。
ネリーナさんの作法教育で、会釈の角度を体が刻んだ。頭で考える前に首が動くようになった。ネリーナさんは「まだ甘い」としか言わなかったが、やり直しの回数は減っている。
ベロニカ嬢は予告なく現れた。「お義兄さま、背中が丸い」「お義兄さま、その持ち方は平民」「お義兄さま、それは令嬢に言ってはいけない言葉です」——容赦がなかった。三方向から矯正されている気分で、息を抜ける時間は書庫にいる時だけだった。
辺境伯家の書庫で、東方辺境の歴史書を開いた。閣下に言われたからではない。ネリーナさんの教育で出てきた話が気になったからだ。遊牧民との混血の歴史。貴族号「ベル」の由来。自分がこれから名乗る家の、知らないことが多すぎた。埃っぽい革表紙をめくりながら、こういう時間が嫌いではないことに気づいている。
閣下は時々廊下ですれ違った。
「おい。寝てるか」
「はい、閣下」
いつも、それ以上の言葉はなかった。




