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第17話

 ベロニカ嬢が、窓から手を離した。


 夕焼けの光を背にして振り向いた横顔は、淡い青の瞳がやけに澄んでいて、何かを楽しんでいるようにも見えた。


「おはよう少佐殿」


 ハンスは剣を握ったまま、顔を上げた。


「——いえ、お義兄さま」


 間があった。


 ハンスの口が開いたまま閉じなかった。お義兄さま。お義兄さま、と呼ばれた。義兄。養子が受諾されたから、辺境伯の次女からすると——義兄。


「…………」


 ベロニカ嬢は、こちらの反応を確認するように小首を傾げている。巻き毛が肩の上で揺れた。満足そうだった。


 エルンスト大尉が、そのタイミングで口を開いた。


「少佐殿。——このサーベル、異常に重いんですけど、どうしたんですこれ」


 大尉の右手が、壁際に立てかけた鞘の柄を指していた。膝枕の間、ずっとあの剣が横に置かれていたことになる。太腿を手で揉んでいた理由が、半分わかった。膝だけではない。剣の重さもだ。


「侯爵家からの支給品です」


 ハンスは答えた。


 なぜこんなに重いのか、と聞かれたのだから出所を答えるのは筋が通っている。侯爵家の武器庫から支給された実戦用のサーベルで、柄の芯に鋼が入っているから重い。そういう剣だ。


 エルンスト大尉が、真面目な顔のまま黙った。ネリーナさんの目が、一瞬だけ天井を向いた。


 ベロニカ嬢が——笑いを噛み殺すように唇を引き結んで、ネリーナさんのほうを見た。ネリーナさんがベロニカ嬢のほうを見た。


「「はぁー……」」


 二人の溜息が、完全に重なった。


 なぜそうなったのかが、ハンスにはわからなかった。出所を聞かれたから答えただけなのだが。





「じゃあ、これから大変ですね」


 ベロニカ嬢がそう言ったのは、廊下の窓を背にしたままだった。夕陽が低くなって、壁の橙色が赤に変わっている。


「これから」


 ハンスは鞘を握ったまま聞き返した。


「養子ということは、ここに住むということでしょう?」


「……ここに」


「侯爵家には帰らないわけですし。私物は——ネリーナ、送ってもらえるわよね?」


「手配します」


 ネリーナさんの返事は、いつも通り短かった。一秒の間も置かずに「手配します」が出てくるあたり、この人は養子受諾の時点で段取りを組み終えていたのかもしれない。


「はい?」


 ハンスは言った。


 ここに住む。侯爵領には帰らない。養子になったのだから、ここが——辺境伯家が、自分の家になる。


 当たり前のことだった。当たり前のことなのだが、剣を握りしめた手が少し強張った。


「私物と言っても、そんなに多くないでしょう」


 ネリーナさんが腕を組んだまま言った。視線はハンスの足元を見ていて、何かを計算しているようだった。


「軍装と替えの下着と——本はありますか」


「……サリーさんに借りたのが二冊」


「それだけですか」


「それだけです」


 ネリーナさんの眉が、ほんのわずかに動いた。溜息は出なかった。出さなかったのかもしれない。


 ベロニカ嬢がエルンスト大尉の腕に手を添えた。大尉はまだ太腿を庇うように立っていたが、ベロニカ嬢に促されるまま歩き出した。


「客間を使ってもらいましょう。母たちに言ってあるから」


 ベロニカ嬢は振り返らずにそう言った。「母たち」という言い方がさりげないが、義母が二人いるということだ。


 ハンスは廊下に座ったまま、遠ざかる二人の背中を見ていた。


「立ちなさい、ハンス」


 ネリーナさんの声がした。


「あ、はい」


 立ち上がった。剣が腰にある。足元がまだ少しふらつく。ベロニカ嬢の酒が完全には抜けていない。


 ネリーナさんが先に歩き出した。背筋の伸びた影が、赤い廊下の奥に進んでいく。


「ネリーナさん」


「何ですか」


「俺、今から何を——」


「歩きなさい」


 ネリーナさんの背中は、いつも通り一分の隙もなかった。





 客間に通されて、荷物もないのに椅子に座らされて、水を飲まされて、窓の外がすっかり暗くなった頃に、その男は来た。


 扉を開ける前に足音でわかった。重い。胸甲を着た人間の歩き方だ。だが足運びに迷いがない。廊下を我が物顔で歩いている。


「——軍事教育の時間だ」


 扉が開いた。


 黒い髪を後ろに流した男が立っていた。口髭と顎鬚を手入れした、彫りの深い顔。口もとは笑っている。だが——目が、笑っていなかった。暗い褐色の瞳が、こちらを値踏みするように見ている。


 深紅の手袋が目に入った。軍装に赤い手袋。それ以外は暗い色で統一されているから、手だけが浮いている。


 胸元にトルコ石のピン。辺境伯家の色だ。


「ペドロ・ラ・ニエブラ大佐。お前の教官だ」


 ハンスは椅子から立ち上がった。大佐。自分より上だ。


「ハンス・ベル・メルンヴァルト少佐、着任いたしました——」


「いい、いい。座れ。堅いのは後でいくらでもやる」


 ペドロ殿は片手で制して、部屋を見回した。調度品の位置を一瞬で確認する目の動き方が、軍人のそれだった。


「親父殿——辺境伯閣下から預かった。お前の教育計画」


 懐から折り畳んだ紙を出して、テーブルに置いた。


「軍事は俺が見る。辺境伯家の軍の動かし方、戦術ドクトリン、指揮系統。全部叩き込む」


「はい」


「貴族の作法は——」


 扉の外から、足音を立てない靴の気配がした。


「私が担当します」


 ネリーナさんが、いつの間にか扉の横に立っていた。腕を組んで、壁に背を預けている。


 ペドロ殿が口の端を上げた。さっきと同じ顔だ。瞳の奥は静かなまま——だが、今度はほんの少しだけ目元が緩んだように見えた。ネリーナさんのほうを見た一瞬だけ。


「ネリーが作法。俺が軍事。二正面作戦だ」


 ペドロ殿がこちらを向いた。深紅の手袋をはめた手で、テーブルの紙を叩いた。


「逃げ場はない。覚悟しろ少佐」


 ハンスは紙を見た。びっしりと何かが書かれている。日程表だった。朝から晩まで枠が埋まっていて、余白がない。


「……あの」


「あ、弄り担当は別にいる。ベロニカ嬢がやるそうだ」


 ベロニカ嬢の顔が浮かんだ。淡い青の目。楽しそうな口もと。


「何か質問は」


「…………いつ寝るんですか」


 ペドロ殿が、初めて本当に笑った。


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