第16話
誰かの声がする。近くて、明るくて、遠慮がない。
「——エル、座って。ここ」
返事が聞こえる前に、体が動かされた。肩を抱えられている。引きずられている——のとは少し違う。丁寧だが有無を言わせない力で、硬いものの上に頭を載せられた。膝だ。座っている誰かの太腿の上に、後頭部がぴたりと収まる。
「ニカ、いくらなんでも——」
「いいから。あなたもう私の婚約者なんだから、最初のお願いくらい聞いてちょうだい」
「最初のお願いが、これですか」
「これよ」
低い声のほうが黙った。膝が微かに揺れて、それからじっと動かなくなる。観念したような硬さだった。
軍服の布地の匂い。焼けた革と鉄と、微かに馬の匂い。
意味は取れない。声が音として通り過ぎていくだけで、単語がばらばらのまま水の底に沈んでいく。ただ——膝は硬い。骨の形がわかるくらいに硬くて、枕にしてはずいぶん具合が悪い。
「重い。この人、重い……」
「当たり前でしょう、あの体ですもの」
「いえ、本当に重いんですが」
「頑張って」
明るい声は楽しそうだった。
*
橙色の光がまぶたの裏を泳いでいる。窓から差す夕陽の色が、意識の浮き沈みに合わせて明滅する。浮くと明るくなり、沈むと暗くなる。
何かが顔に触れた。
柔らかくて、軽くて、垂れてくる。頬を擽る感触に薄目を開けると、上から覗き込んでいる顔があった。栗色の巻き毛がカーテンのように揺れていて、その奥に淡い青の瞳がある。大きな目だ。近い。輪郭が滲んで——水面の向こうに浮かんだ顔みたいだ。
「……くり、げ……」
唇が勝手に動いた。栗毛の——
だが瞳が青い。淡い、水色のような青。
「……ちがう……」
何が違うのか。舌がもつれて、言葉にならない。巻き毛がさらりと頬から離れていく。顔が遠ざかる。天井の石の目地がぼやけて、光が薄くなって、また暗い。
沈んだ。
どのくらい経ったのか。膝は硬いままで、体温だけがじんわりと後頭部に伝わっている。遠くで扉が閉まる音がした。それとも窓が鳴ったのか。
浮く。
声が聞こえる。
「——ニカ、あなた何を渡したの」
低くて静かな声。さっきの膝の声とは違う。壁際から聞こえる。
「ちょっときつめのウィスキーです」
明るい声。栗色の。
「ちょっと」
「ちょっと」
間があった。溜息が聞こえた——気がした。風かもしれない。
沈む。温かい。暗い。
浮く。
「——あなた本当に不器用なのね」
栗色の声が、すぐ頭の上から降ってくる。近い。しゃがんでいるのか。巻き毛の匂いがかすかにする。花の——何の花かはわからない。
「五年も隣にいて気づかなかったの?」
膝の上で、ハンスは眠っている。意味は取れない。五年。隣。誰の隣に。単語が散らばって、繋がらないまま沈んでいく。
廊下の空気が動いた。誰かが近づいたのか、遠ざかったのか。窓の外で鳥が鳴いて、夕陽の色がまた少し赤くなった。
「古い使用人は大体気づいてますよ」
壁際の声。静かで、何の感情も乗っていないように聞こえる。
何に気づいていたのか——と、意識の端が引っかかった。だが引っかかっただけで、その先に手が届かない。膝が硬い。ぬるい。暗い。
もう、声は遠い。
*
膝の主が、小さく呻いた。
何かが横に置かれた音がする。金属と革がぶつかる、硬い音。重い。膝が揺れた。支えている人間の体が傾いだのがわかる。
「——重……何ですかこの剣……」
低い声。膝の声だ。押し殺しているが、明らかに困っている。
「閣下からのお預かりものです。少佐殿の」
別の声。聞いたことがない。落ち着いた太い声。
膝がまた揺れた。重いものを支え直しているのがわかる。頭の上に人の頭を載せたまま、横に剣を置かれた男は、じっと耐えている。
ハンスは何も知らない。眠っている。
*
目を開けると、天井の色が変わっていた。
橙ではない。窓の外が赤い。壁に映る光が低くなっている。ずいぶん寝ていたらしい。
首を動かした。自分が誰かの膝の上にいるとわかった。膝が、硬い——何度目だ。
喉が乾いている。唇が割れそうだ。口を開いた。
「……栗毛……」
目の前で、ネリーナさんの肩が止まった。
壁際に立っていた姿勢のまま——ほんの一瞬。呼吸ごと凍ったように、まばたきが消えた。切れ長の目がわずかに見開かれて、すぐに元に戻る。だがその間、体のどこも動いていなかった。
ベロニカ嬢が、ネリーナさんの斜め後ろにいた。淡い青の瞳が、ネリーナさんの横顔をじっと見ている。
ハンスの頭には何も残っていなかった。何か夢を見ていた気がする。栗色の何かが揺れていた気がする。声も聞こえていた——たしか。だがそのどれも、目を開けた瞬間に蒸発してしまって——掴めない。
「……え? なにが……」
体を起こした。膝の持ち主と目が合った。黒い髪。濃い茶の瞳。日焼けした顔に、真面目で、ひどく疲れた目。
「……大尉?」
エルンスト大尉は、壁に背を預けて座ったまま、足を投げ出していた。右の太腿を手で押さえている。長い時間、人の頭を載せていた膝は、相当に痺れているのだろう。そしてその横——大尉の左腿の外側に、剣が置かれていた。
大尉の剣ではない。
ハンスは腰に手をやった。ない。
自分の剣だった。
柄の巻き革は自分の手の形に磨り減っている。鞘の先端に、訓練場で擦った古い傷がある。間違えようがない。
「……これ……」
声が掠れた。
「閣下が、お返しくださいました」
エルンスト大尉の声は静かだった。疲れてはいたが——嘘がない声だった。
剣を手に取った。重さが左手に戻る。
返ってきた。
閣下に預けた剣が、返ってきた。自分が寝ている間に。
何を言えばいいのか、わからなかった。言葉が出てこない。いつもそうだ。肝心な時に限って。
ハンスは剣を握ったまま、黙っていた。
エルンスト大尉が壁に手を突いて立ち上がった。左手で右の太腿を揉みながら、顔をしかめている。
「……あの、大尉。膝……すみません」
「いえ。膝はいいんです。膝は」
膝はいい。では何が——とハンスが口を開きかけた時、大尉の目が横の石の床——さっきまで剣が置かれていた場所を見て、それからベロニカ嬢を見た。
ベロニカ嬢は窓枠に手を置いて、夕焼けの空を眺めていた。こちらを見ていない。
大尉はそれ以上何も言わなかった。
嬉しいのだと思う。たぶん。剣の重さが左腰に戻っていて、体の真ん中が据わった感覚がある。それが嬉しいのだろう。言葉にすると嘘になりそうだったので、ハンスはただ鞘を握っていた。




