第9話 新たなる術式
「セレン様。おはようございま――」
ガチャン――。
エリアは水の入ったコップごとお盆を落とした。
フェフシュタイン家の令嬢のベッドの上には、裸の状態の当の本人と少年アルトが抱き合って寝ていた。
「あ、あわわ……!!セ、セレン様、こ、こ、これはいったい何事ですか……!?たとえアルト様といえども、その、まだ婚約してない男性を、ベッドに上げて……、その、その……一夜を過ごしてしまうなんてぇええっ!!」
メイドの絶叫に、セレンは心地の良い夢の世界から戻って来た。
「ふわぁ……、朝からどうしたのよ?」
「それはこちらのセリフです!!アルト様と一体何をしていらっしゃったんですか!?」
「なにって……ただの魔力供給よ?」
「私には”アレ”にしか見えませんッ!!!」
セレンは底意地の悪そうな笑顔を浮かべ、くすりと笑う。
「エリアったら、一体何を考えているのかしら?まったくもう、朝っぱらからいやらしいんだから……」
「セレン様……!そろそろ本気で怒りますよ……!?」
ご主人様のからかいに、エリアは頬を膨らませて抗議する。
「……ふふ。冗談よ。今日は決戦の日。いつまでもメイドと戯れている暇はないわね」
(た、戯れって……!!)
エリアは抗議の視線を送ったが、セレンはそれを無視し、衣装に袖を通す。
まだ半ば睡眠状態のアルトを起こし、彼も着替えさせた。
「あの……、プラトスはいつ来るんでしょうか?それに、一体どこから……」
セレンは窓際に立ち、外に視線を送る。朝日の浴びた彼女のブロンド髪は、宝石のような輝きを放っていた。
「東の空が曇ってきた……。もうすぐね……。アルトくん、中庭に向かいましょう」
「は、はいっ――!」
中庭には、既にリーゼロッテ、ガルザ、ルネの三人が二人を待っていた。
「アルト、遅いじゃねぇか」
「アルト様」
「アルト、おはよー」
再び静寂がこの場を支配したが、それもすぐに破られた。一番最初に敵を察知したのはリーゼロッテである。
「……来ます!」
聖女リーゼロッテは微かに漂ってくる竜貴族の瘴気を感知し、東の空を睨んだ。
突如、嵐のような猛々しい風が吹いたかと思うと、天から両翼を備えた禍々しい存在が、ゆっくりと降りて来た。
「これはこれは……。みなさんで出迎えてくれるとは、厚く感謝申し上げますぞ?セレン・フェフシュタイン嬢?」
青白い肌に、死人のようなクマ。高級な黒い貴族服を着ているが、その裾からは常に黒い煙のような魔力が漂っており、中庭の花壇を一瞬で枯らしてしまった。
(これが竜貴族……!!僕の故郷を滅ぼした魔物……!!)
大柄な人型で、全身は鋼のような鱗で覆われており、その太い首には竜の頭が乗っている。
アルトは圧倒的なプレッシャーを感じていた。少しでも下手をこいたら殺される――!
「フェフシュタイン嬢。私は争いに来たのではありません。あなたと和解しに参ったのです。賢明なあなたなら、きっと私の理想国家に納得して頂けると思いましてね」
「あら?聞かせてくれるかしら?」
「……もちろんです、フェフシュタイン嬢。私は人間を支配しようなどとは少しも思っておりません。人と竜の調和。それが私の理想です。ですから、私の支配する土地では、人間にはふさわしい役割を担って頂きたいと思っているのです。こんな風にね……」
プラトスの合図で、門から馬車が入って来た。だが、それは”馬車”ではなかった。
「ひぐ……!ひぐ……!ひゃ、ひゃくけてくれぇ……!」
轡をはめられ、重い荷馬車を引っ張っていたのは、ロイ、カリス、ゴードンの三人であった。
「このように、人間という脆弱な種が、我ら竜貴族の庇護下で家畜として安寧を得ることこそ、この世の調和だと思いませんか?」
「なんて悪趣味……!倒錯もいいところですわ……!こんな惨状のどこが理想だと言うの……!?」
リーゼロッテが苦々しく吐き捨てる。だが、セレンはさほど驚きもしない様子だった。
「まあ、”火を噴く鰐”の理想なんて、こんなものでしょうね」
「……な、なんだと!!?」
冷静だったプラトスは取り乱し、怒りを露わにして禍々しい黄色い目でセレンを睨んだ。
火を噴く鰐――。
これは、かつて竜族がまだ人としての知性を持っておらず、ただの巨大なモンスターとして君臨していた頃の蔑称、つまりは差別用語である。
「生意気言いやがって!最初から実力行使していればよかった!!くたばれ!愚かな人間ども!」
プラトスは飛翔し、空から致死性の毒霧を吐き出す!
空を覆い尽くさんばかりに広がる、ドス黒い腐食の霧。触れるものすべてを朽ち果てさせる絶望の雲が、雨のようにアルトたちの頭上に降り注ぐ。
「逃げろ、アルト! こいつは危ないぜ!」
ガルザが叫び、リーゼロッテが聖なる障壁を展開しようとする。
だが、プラトスの激昂と共に放たれた霧は、聖女の結界すらもジワジワと侵食し、腐らせていく。
「無駄だ家畜ども!! 朽ちろ、塵に還れ! それが私の与える唯一の慈悲だ!!」
上空からプラトスの嘲笑が響く。
だが、その中心で、アルトは一歩も引かなかった。
(……今だ。セレンさんの魔力が、僕に力をくれる……!)
昨夜、セレンの温もりに包まれながら練り上げた新しい術式。それは局所的な呪いを解呪する今までの術式とは違い、辺り一帯の呪いをすべて無効化する――!
「……うぉおお!!行くぞぉおお!!」
アルトが両手を天に掲げた瞬間、彼の体から黄金の光柱が立ち昇った。
セレンから注がれた膨大な魔力が、アルトの【聖なる紋章を受け継ぎし解呪】によって、一切の穢れを許さない純白の閃光へと変換される。
「すべてを書き換えろ……! 【極光浄化】!!」
アルトを中心に放たれた光の波動が、空を覆っていた毒霧に触れた瞬間――。
シュアアアアアアッ――!
激しい音を立てて霧が消滅していく。だが、ただ消えるのではない。腐った空気が、アルトの光に触れた途端に澄み渡った朝の空気へと書き換えられていくのだ。
「な……っ!? 私の霧が……消えただと!? バカな、ありえん! 人間のガキごときに、私の呪いが、否定されるはずが……!!」
空中でプラトスは、生まれて初めて恐怖に顔を歪めた。
「……信じられないですわ。あのプラトスの毒霧を、一人で……?」
聖女リーゼロッテが呆然と呟く。
彼女が全身全霊を懸けて維持していた障壁を、アルトの光が軽々と上書きし、さらに純度の高い絶対防御領域を作り上げている。
「へへっ……、流石はあたしが見込んだ男だぜ。おい、鰐野郎! 上で震えてる暇があるなら、とっとと降りてきな!」
ガルザが大剣を肩に担ぎ、空を見上げてニヤリと笑う。
一方で、馬車を引かされていたロイたちは、光の奔流に目を焼きながら絶望していた。
(なんだよ……あの光……。あんな力、あいつにはなかったはずだろ……!?)
ロイの目から、どろりとした涙が溢れる。自分たちが無能と蔑み、路地裏に捨てた少年。その少年が今、自分たちが手も足も出なかった世界の終わりのような怪物を、たった一人で圧倒している。
その事実が、ロイたちのプライドをプラトスの毒霧以上にボロボロに腐食させていった。
「おのれぇ……、おのれおのれおのれッ!!」
プラトスが空中で身をよじり、その醜悪な顔を激しく歪ませる。
「……そのような小細工、俺様の圧倒的な力の前には無力だと教えてやるゥ!!」
理性を失ったプラトスは、翼を畳んで弾丸のようにアルトへ向かって急降下してくる。 それは、魔法でも呪いでもない、数トンの質量を持った力の塊であった。
だが、アルトは動じない。 彼の背後には今、セレンが、そして仲間たちがついている。
「……みんな。いくよ!」
アルトの合図と共に、ガルザが、リーゼロッテが、ルネが、一斉に動き出す――!




