第8話 決戦前夜
フェフシュタイン領の夜は静寂だった。明日には一大決戦が行われるとは思えないほどの平安さを保っている。
だが、その静けさの奥底に、アルトは微かな緊張感を感じ取っていた。
(……来る。もうすぐ、プラトスが来るんだ)
領主館の中庭で、月光を浴びながら、アルトは一人、自らの内側に意識を沈めていた。
両手を前にかざすと、手のひらから強靭な輝きを放つ術式が展開される。
(何の役にも立たないと思っていた解呪のスキル……。まさか、みんなを守れる力になるなんて……)
アルトの指先が、空間に光の糸で複雑な術式を描いていく。
(今度は、僕が守る番だ。セレンさんも、エリアさんも、みんなも……。僕にこんなにもよくしてくれたみんなを……また失うわけにはいかない……!)
「……こんな夜更けに、ずいぶんと熱心ね。アルトくん」
不意に背後から声をかけられ、アルトは肩を跳ねさせた。
振り返ると、そこには薄い寝間着の上にガウンを羽織っただけのセレンが立っていた。
夜風にさらされた黄金の髪が月光を反射し、彼女をこの世のものとは思えないほど美しく、そしてどこか儚げに見せている。
「セ、セレンさん……。起こしちゃいましたか?」
「あら?今回は天使って言ってくれないの?ふふ……」
セレンは歩み寄り、アルトのすぐ隣に立った。彼女の体から漂う甘い香油の匂いと、夜の冷気が混ざり合う。
セレンはアルトが描いていた未完成の術式を見つめ、細い指先でそれに触れた。
「……怖くないの?」
「怖いです。……でも、それ以上に、竜貴族にこの場所を壊されるのが、許せないんです」
アルトは真っ直ぐに、セレンの瞳を見つめ返した。その瞳に宿る意志の強さに、セレンは一瞬、息を呑んだ。
「……ふふ。やっぱり、私が見込んだ通りの子だわ……」
セレンは小さく微笑むと、アルトの肩にコテリと頭を預けた。
「いいわ。今夜は、あなたのその決意に、私も力を貸してあげる。……私の魔力を、あなたの好きに使いなさい。これは、あなたへのささやかなプレゼントよ?」
そう言って、セレンはアルトの背中から腕を回し、密着するように抱きしめてきた。
ガウン越しでも伝わる、セレンの熱い体温。そして、彼女の内側から溢れ出す、膨大で気高い魔力がアルトの中に流れ込んでくる。
(すごい……。これが、セレンさんの力……!)
これまでアルトが扱ってきた魔力とは、密度も格も違う。アルトは体にどんどん力がみなぎってくるのを感じた。
「う……わ……!これ……凄いです……!」
「……私は戦闘能力を持たないわ。でも、魔力は持っているの。誰かに密着することで、その相手に魔力を渡すことができる……。フェフシュタイン家に伝わる特別な力よ……」
「セレンさんにそんな能力が……」
「今日はたくさんスキルを使ったし、疲れたでしょ?だから、補給が必要と思ったのよ。それに……私の魔力と君のスキルが化学反応を起こして、何か特別な力を開花させるかもしれない……」
確かに、アルトの小さな体には、今まで感じたことのないような不思議が力の漲りがあった。
「セレンさん……。僕、明日、必ずプラトスを止めます。竜貴族のせいで誰かが悲しむのは、もう嫌なんです」
アルトはセレンの手を力強く握りしめる。その眼差しには、かつての弱気な少年の面影はなかった。一人の解呪師として、そして、彼女を守ると決めた一人の男としての輝きがあった。
「……ふふ、あんなに震えていた子が、私を守るなんて言うようになるなんて……。これも紋章の力なのかしら……」
セレンは、少しだけ潤んだ瞳でアルトを見つめると、いたずらっぽく笑って彼の唇を自分の指でなぞった。
「いいわ。その言葉、信じさせて。……もし明日、あなたが無事にこの領地を守り抜いたなら、その時は、このセレン・フェフシュタインのすべてを、あなたにあげる」
「セ、セレンさん……」
それは、領主としての契約ではなく、一人の女性としての約束だった。
セレンはアルトの額に、誓いの印のように優しく、長く口づけを落とした。
「アルトくん。私の部屋で……朝まで一緒にいましょう?朝日が昇るまで、た~っぷり魔力補給をしてあげる……」
「えっ……!? あ、あの、セレンさん……!?」
赤面するアルトの手を引き、セレンは月光の中、自らの寝室へと歩き出す。
その背中は、明日訪れる絶望すら、二人の前では無力であることを予感させていた――。




