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装置の間を抜けて、地下室を奥へと進んだ。コンクリートの壁には、染みとも汚れともつかない、得体の知れない模様がたくさんついていた。
「発電機の音が聞こえないが、電気はどうしてあるんだ?」
「発電機も動く。電気が足りなくなればな。主に太陽光発電を使っているんだ。そこにある装置のうち、三分の一は蓄電設備だ」
よく分からないが、要するに、発電機を使わなくても電気が使える、たいした設備らしい。
奥の角には、粗末なベッドと小さなテーブルがあった。テーブルの上には、ひび割れた食器が置いてある。壁には、小学校で使うような大きな黒板がかかっていた。全体にチョークで、様々な記号を駆使した計算式が、殴り書きに書いてあった。
「こんなところで一人暮らしかい?もの好きな爺さんだな」
フクロウは答えず、黒板消しで、黒板を半分ほど消した。テーブルの前に一つだけある椅子にアキラを座らせ、
「あまり時間をかけたくないのでな。かいつまんで説明する。分からなくても、質問しなくて、よろしい。私も、お前が全て理解できるとは思っていない」
「ずいぶんだな」
「まずは、基本的なことから始めよう。『次元』という言葉を知っているかな?例えば、三次元。お前が今、見ている世界だ。縦、横、高さ。物体の場所を指し示す座標は、この三つの要素によって定められる。黒板上の出来事は二次元、つまり平面だ。座標を示すにあたって、縦と横だけの、二つの要素しか持たない」
言いながら、フクロウは黒板に、立方体の絵を描いた。
「通常、人間がはっきりとその存在を認識できるのは、三次元までだ。だが、これに時間軸が加わると、四次元になる。四次元の空間には、三次元の空間が無限に存在できることになる。二次元が三次元の内に無限に存在できるようにな。つまり、一秒前の自分と一秒後の自分は、まるで別物だ。四次元の空間では、特定の時間ごとに、それぞれ独立した自分がいることになる。私やお前だけじゃない、この宇宙全てが、無限に存在すると言ってよい」
フクロウは、元教育者か何かだろうか。黒板に物を書きながら説明する姿が、板についている。そのふざけた面さえ無ければ、だが。
アキラは、ボリボリ頭を掻いて「既に、分かんねぇよ」
フクロウは、アキラのことなどそっちのけで続けた。
「たとえば、私がこのチョークを手離し、チョークが床に向かって落下し、割れて床じゅうに飛び散ったとする。それは、チョークが動いたのではなく、私が持っているチョーク、宙にあるチョーク、床に接触したチョーク、割れて飛び散ったチョークが、別々に、それぞれの宇宙に存在していることを意味する。チョークが動いて見えたのは、全て我々の脳が作り出す錯覚に過ぎない。これは、時間軸が持つ特殊な性質のせいであり、我々が生活する三次元空間において、現在は過去からしか影響を受けない一方通行だからなのだ。チョークは手放されたから落下し、落下したから床に衝突した。同様に、落下中のチョークを認識した脳には、私がチョークを持っているという過去から受けた影響が、記憶という形で残っている。床に衝突したときには、君の脳は私がチョークを持っていた記憶と、チョークが落下した記憶を持っている。そうして、瞬間、瞬間の記憶を脳が結びつけて、物体が運動したのと勘違いしているというわけだ。物体の運動の不可能性については、2500年も前にパルメデスが証明している」
「要するに、チョークを落とすと割れるということだろう?」
「そうだ。だが、割れるともったいないから、実際に見せてやることはできん」
「なぁ、これって、聞く必要ある?寝てていいか?」
「許さん。まだ本題にも入っていない」
「ハァ…」と、アキラは深く溜め息をついた。
「人間は、三次元の世界なら、正しく認識できる。四次元の世界も、存在くらいは感じ取ることができる。だが、確認できないだけで、それ以上の次元が存在しないということにはならない。縦、横、高さの三つの次元に加えて、時間。五つ目の次元は『多様性』だ」
「たようせい?」
「そうだ。さっき、特定の時間において、独立した宇宙が存在すると言ったろう?さらに、多様性の軸においても、独立した宇宙が存在するということだ。そこには、全ての宇宙の全ての時間が存在する」
「要するに、いっぱいあるわけだ」
「その通りだ。分かっているじゃないか」
アキラは、少し得意になった。
「小学校は一年生で中退したけれど、簡単な算数なら、ゴロウさん…、ハイブの先輩だけど、その人に教わっていたからね。これでも、二桁の引き算を、筆算でできるんだぜ?」
ちょっと見栄を張ってみた。正直に言うと、繰り下がりが、まだ分からない
フクロウは仮面の向こうで溜め息をついた。「続けよう。多様性の軸があることによって、時間が進むルートは一つではない。これもまた、無限にある。一見、同じように進んでいる時間も、些細な違いで別のルートを辿ることになる。例えば、さっき私はチョークを落とさなかったが、別の時間軸にいる私は、引き算しかできない生徒に多次元の存在を教えるため、もったいないのを覚悟で落として見せたかもしれない」
アキラはムッとした。話の意味は分からないが、馬鹿にされていることを察知する感覚だけは敏感だ。末っ子の特性かもしれない。
「いいか?」とフクロウは、ここからが肝心だぞという風に、前置きした。「これから、お前を送り込むのは、こことは違う別の時間軸だ。パンデミックが起きなかった世界。そこには、この世界で失われてしまった全てがある。お前の死んだ恋人も、別の形で生きていることだろう。もし、その世界で私の言う仕事を果たしてくれるのなら、そこで永久に住むことを許そう」
「別の世界?おとぎ話みたいだな。ユイが、そこに?天国って言う名の世界じゃないのかい?」
「当たらずとも、遠からずだ。だが、私の基準で言えば、そこが天国なのではなく、今が地獄なのだよ」
「言えてるぜ。それで?俺は何をすればいいんだ?」
「人を一人、殺してもらいたい」




