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 通路の酔っ払いは、まだ寝ていた。投げ出した脚を飛び越え、走る。

 タクミとの攻防は、二~三分のものだったが、大きなロスだ。ショウゴは逃げたのか、やられてしまったのか、騒ぎは既に治まっていて、今度は銃声を聞きつけたワスプたちが、こちらに集まって来た。

「いたぞ!捕まえろ!」

 おそらく、百人近い男たちが追いかけてきている。捕まったら、一溜まりもない。

 足を踏み出すたびに、腹の傷口が開いて生温かい血を吐き出すのがわかったが、アキラはユイの手を引いて走った。不思議と、痛みはほとんど感じなかった。

 暗い通路に突入し、松明をめがけて走る。

 一本目。

 文字通り、命がけで走った。

 暗闇の中を、わき目もふらず、一心不乱に松明目指して走り抜ける。何度か躓いたり、足がもつれたりと、ヒヤリとすることもあった。倒れてしまえば、それは死に繋がる。

 六本…、七本…。

 背後から飛ぶ怒声が、いくぶん近くなっている気がする。まずい。やはり傷のせいで上手く走れていないらしい。

 なんの、いざとなればユイだけでも…。

 十一本…。

 もう少し。もう少しだ!

 十五、十六…。

 十七本目の松明を、アキラは倒れ込むようにして拾い上げた。そいつを、左側の壁際に投げる。予めまいてあったガソリンに引火して、炎が細く、前後に走った。

 後方では、その先で一面に燃え広がり、轟音と共に、トンネルの中に炎の壁を作った。

 ワスプたちの悲鳴があがる。

 十数メートルのところまで迫られていた。危ういところだったが、一人も、炎を越えて来る様子はない。上手くいった。

 とはいえ、一時的な足止めにしかならない。早く逃げなければ。

 前方に走った火は、出口近くまで続いているはずだ。この先に松明は置いてないが、暗かったり、道を見失ったりすることはないはずである。

「今のうちだ」

 アキラは、ユイの手を引いて再び走り始めた。

 やがて、線路からホームによじ登り、改札を抜けて上りの階段に突き当たる。太陽の光が見えたとき、アキラは雄叫びをあげた。助かった。生き残った。ユイと共に!

 一瞬気を抜いた、そのときだった。

 パンッという銃声。

 隣を歩いていたユイの膝がカクンと抜けて、地面に倒れ込んだ。

「ユイッ!」

 まさか。ワスプたちは遥か後方だ。追いつかれるはずはない。

「チッ、当たったのは、女の方か」

 出口から差し込む光の中に、硝煙が立ち上る拳銃があった。アキラが持つ物と同じ、五連発のリボルバー。ニューナンブだ。かつて、警察官に正式採用されていたこの銃は、今や、最もよく出回っている、ありふれた拳銃であった。

「俺を殺しておくべきだったな、ガキ」

 光の中に、顔が現れた。

 マサキだ。

「あれだけ喋ったんだ。もう、ヴェスパにはいられねぇ。逃げなきゃ、ボスに八つ裂きにされるのは、目に見えてる。…どうしてくれるんだよ。俺は、これから、どうやって生きてきゃ、いいんだよ!せめて、お前らを殺してやらねぇと気がすまないぜ」

 銃を持つ手に火傷の痕があった。手足を縛ったロープを切ったのは、アキラたちが目印にしていた松明だった。

 俺のせいだ。ショウゴの言う通り、始末しておくんだった。チクショウ!ここまで来て…。

 怒りが、腹の奥で燃え盛り、汽車のボイラーのように、アキラを突き動かした。

「うおぉぉぉ!」

 最短距離で、マサキとの距離を詰めた。ゴロウやタクミなら、引き金を引く前に近づけたかもしれない。だが、アキラに、そんな芸当はできない。

 銃声がする。一発、二発。

 一発は肩に受けた。もう一発はわからない。当たっていても、知ったことじゃない。

 さらにもう一発発射しようとしている拳銃には目もくれず、アキラは右の拳をマサキの顔面に打ち込んだ。

 拳の先で火薬が弾けるような、完璧な手応え。マサキは後ろにひっくり返った。

 その手首を踏みつけ、拳銃を奪う。

「コノヤロウ、よくも…!」。頭に向けて、撃鉄を起こした。

「ヒ、ヒィィ!」。鼻のひしゃげたマサキが、悲鳴を上げた。

 引き金に力を込める。撃つつもりだった。怒りが胸の中で渦巻いていた。もう少しで逃げられたものを、こいつが台無しにした。憎い、この男。そして何より、この事態を引き起こした自分の甘さを、自分で許せなかった。

 しかし、上手くいかない。体が、拒否していた。最後の、ほんの何分の一ミリのところで、殺人を許さない自分が勝ったのを、ほとんど客観的に知った。

「クソッ!」。銃を下ろす。「行け!行っちまえ!」

 マサキは慌てて立ち上がり、一目散に階段を上って逃げ出した。

 すぐに、ユイに駆け寄る。こんなところで休んでいる暇はない。すぐに後ろから追手がやって来る。

 もう、あと一歩で階段という所に、ユイは倒れていた。地上から差し込む光が、二人を照らしていた。

 ユイの細い腰から脚の付け根にかけて、ズボンがどす黒く染まっていた。どうやら、腰の辺りを撃たれたらしい。

「歩けるか?ユイ」

 助け起こして、階段を上らせようとする。

 ユイは呻きながら立ち上がったが、すぐにまた、座り込んでしまった。

「ごめん、アキラ。ダメみたい。私を置いて逃げて」

「バカ!そんなことできるか!」

「おねがい」

 真剣な、懇願するような表情だ。

 アキラは、見ていられなくて、目を逸らした。背中を突き出し、

「ほら、おぶっていくよ」

「無理よ。アキラだって、怪我してるじゃない。逃げられっこないわ」

 脇腹の刃物傷に、肩の弾創。アキラも、もう、立っているのがやっとの状態だ。

 通路の向こう。まだ炎の揺れる暗闇を、大勢が動く気配が近づいて来た。

「ほら、来た。アタシなら大丈夫。だから逃げて」

「嫌だ!たとえ殺されても、俺はお前と一緒に…」

「これでも?」

 ユイは、アキラのズボンに差してあった拳銃を抜いて、自分の頭に突き付けた。

「な、何してる?!」

「下がって!下がらないと、死ぬわよ!」

 すごい剣幕だ。しぶしぶ距離をとった。

「ど、どういうつもりだ?」

 ユイの目から、涙が溢れた。

「だって、こうでもしないと、アキラ、逃げてくれないじゃない。あんたがアタシに死んで欲しくないのと同じくらい、アタシもあんたに死んで欲しくないんだよ。アタシが生きている限り、あんたは何度でも助けに来るわ。そして、いつか死んでしまう。そんなの、耐えられない。あなたは逃げて。そして、幸せになって。おねがい」

「分かった、ユイ!分かったから、銃を下ろせ!」

「一つお願いがあるの。このまま撃ったら、きっと、頭が酷いことになっちゃうだろうから、見ないで欲しいの。…あとね、これ、嬉し涙だよ。だって、もう無理だと思っていたのに、最期に好きな人に会えたんだもん」

 ユイはゆっくりと瞼を閉じ、そっと引き金を引いた。

「やめろ!ユイ!」

 地下鉄の階段に、銃声が響いた。

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