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ゴロウの言った通り、午後は雨になった。
発掘の作業も、雨のときは休みになる。取引の材料となる紙や布などの資源は、濡れると価値が下がるからだ。あまりに雨が続くときなどは、シートを被せて運ぶ手もあるが、ここ最近は晴れが続いていた。雨にかこつけて、仕事はないだろう。
使用されていない三階の一室で、ゴロウとアキラは、共にTシャツにハーフパンツという、いでたちだ。裸足である。
パンデミックの前、ゴロウはいくつかの格闘技を嗜んでいたという。子供の頃から続けている空手は、かなりの腕前だと言っていた。学生時代には、レスリングとボクシングをやっていたらしい。
このハイブに住み始めた五年前から、若者組は、定期的に格闘技を教わっていた。
マンツーマンで稽古するのは、この日が初めてではない。同年代の友人が少ないアキラは、ゴロウによくなついていたし、ゴロウもまた、アキラのことを弟のように(ひょっとすると息子のように)思っているようだった。
準備運動を済ませると、「久々だからな。まずは様子を見たい」と、いきなり組手することになった。
ゴロウは軽く腰を落とすと、一方の手を突出し、もう一方を顔の前に置いた。アキラも、まったく同じ構えをとる。
アキラは、これまでゴロウに教わったことを全て覚えている。
『一にも二にも、まずは間合いだ』
「いいか、アキラ。一にも二にも、まずは間合いだ」
「知ってるよ、ゴロウさん。相手の体格や、得物によって間合いは変わるんだろ?」
『相手の間合いの外にいるのが基本。対等の条件なら、攻撃3防御7で戦え』
しばらく間合いを計ったあと、アキラは一気に踏み込んだ。同時にゴロウの顔面に向けて、左拳を打ち込む。
『間合いに入ったらスタートだ。先手必勝の言葉通り、仕掛けた方に分がある。相手が間合いの外に出るまで、攻撃の手を緩めるな』
しかし、拳は空を切った。ゴロウが後ろに引いたからだ。まだ、間合いの中にいる。続けて前蹴りを放つ。
ゴロウが蹴り足を払う。そして、そのまま間合いの外へ。
「やるじゃないか。さぼってなかったみたいだな。それに、お前はなかなか筋がいい」
寝技、投げ技にも精通しているゴロウだが、そちらは防御と簡単な関節技だけで、打撃主体の闘い方を教えている。
『寝技は、一対一のときに真価を発揮する技術だ。また、刃物を持っている相手には役に立たない。今の世の中、そんな状況が何処にある?』
「次は、俺から行くぞ」
答える代わりに、構えを深くした。両腕が交差する恰好になった。
『相手が攻めてきたら二択。間合いの外に逃げるか、攻撃を捌いてから、逃げる。後の先を狙いたいなら、前もって誘い込んでおく必要がある。ただし、簡単じゃない』
ゴロウが足の指で床を掴んで、間合いを計っているのが分かった。その瞬間、
ゴロウの髭面が、すぐ目の前にあった。
速い!いや、全ての動きから、予備動作が極限まで削られているのだ。
応戦しても、相手の方が早い。後ろへ飛んだ。
ゴロウの前蹴り、いや、金的。
慌てて掌底で叩き落とす。
…軽い。フェイントだ!
危険を感じて頭を低くした。頭の上で風を切る音がする。
「ほう、勘もいい。だが…、」。一瞬視界を失った隙に、背後に回ったゴロウが、アキラの頭をコツンとやった。実戦なら、首をへし折られていた。「少々行き当たりばったりな所がある。反射神経がいいから、それでも、そこそこはやっていけるかもしれんが、経験者相手だと役に立たない。攻め方、守り方を工夫して、自分の必勝パターンを見つければ、もっと強くなるはずだぞ」
アキラは、頭を擦りながら、「俺、ゴロウさんみたく頭良くないからさ…」
「たとえそうだとしても、お前の頭に代わりはないんだ。できる範囲で上手く使うしかないだろう」
「否定してくれよ」。アキラはむくれた。
「いや、しかし、お前の成長ぶりには驚かされた。それだけできれば、素人相手には絶対負けないだろう。相手が素手ならばな」
アキラは床に脚を投げ出して座った。
「結局、そこなんだよなぁ…。ね、ゴロウさん。拳銃と戦うには、どうすればいいのさ?」
ゴロウは、腕を組んで唸った。
「はっきり言って必勝法はない。拳銃の射程距離は短い。走って逃げれば、そうそう当たらんはずだ」
「だから、逃げられない場合もあるだろう?」
「格闘技は万能じゃないんだ。いくら稽古したところで、生き延びる確率が数%増えるに過ぎん」
「じゃ、俺はどうなってもいいから、誰かを生かすことってできるかい?」
ゴロウが、厳しい目つきになった。
「いいか、アキラ。そういう考え方は捨てることだ。誰かを守るためには、まず、自分を守らなければならん。まずは自分が生き残ることを考えろ。誰かを助けたいのなら、その次だ。自己犠牲なんてもんは、聞こえだけはいいが、そんなに美しいもんじゃない」
アキラは下から、まっすぐにゴロウを見返した。
「だけど俺は、俺なんかよりユイを守りたいんだ!」
「みんな、そうだ。多くの者に、自分より大切なものがある。だが、お前が守らなければならないのは、ユイちゃんだけじゃないだろう」
ゴロウは決して声を荒げたりはしない。だが、色素の薄い茶色の目の奥で、感情が波打っているのが、確かに見て取れた。
それから二人は、しばらく黙った。
少し風が出て来たようだ。雨滴が窓ガラスを叩き始めた。
ゴロウは窓際に立って、濡れた窓ガラス越しに外を見た。そこには、閑散としたグレーの街並みが見えているはずだ。
「俺には、娘がいたんだ。あのとき、まだ2歳だった。俺に似て、ギョロ目で鼻が低くてな。大きくなっても美人になりそうにない顔だったよ」
あのとき…。パンデミックだ。ゴロウが自分について話すことは珍しい。
「生きてりゃ、この三月で小学校を卒業する。俺は、あの子が死んで、もう十年以上も経つのに、今でも年を数えるんだ」
窓辺に立つゴロウの後姿は、逆光になって暗かった。
「何度…。俺から娘を奪ったあの病気を、何度恨んだか分からん。俺を殺さなかったあの病気を、何度恨んだか分からん。代わりに俺を殺してくれれば良かったのにと、何度思ったか分からん。だが、生きている俺には、また、大切なものができた。人間は、どれだけ愛し合っていようが、一緒に死ぬことはできん。ときには、順番が狂うこともある。だが、残された者は、そこでまた、生きる意味を見つけるんだ。人間とは、そういうものなんだ」
アキラも、両親と姉のことを思い出した。彼らは死んでしまったが、俺はまだ生きている。そして、ユイがいる。ゴロウがいる。
「ゴロウさん、天国ってあると思うかい?いずれ、そこに行けば、娘さんに会えると思う?」
「ない」。ゴロウは即答した。「死の向こうには何も無い。無いが、俺は娘にもう一度会うことができるとしたら、どんなことでもするよ」




