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よく晴れた春の日だった。
春一番が吹き荒れた先日までの天候が嘘のように、風はなく、青い空には雲一つない。ずっと向こうに、デパートのアドバルーンが二つ浮かんでいる。一つはオレンジ色、もう一つは紫だった。
三歳のアキラは、市営住宅の屋上の、階段室の上にいた。全身に力がみなぎっていた。
四つ上の姉さんは小学校に行っていた。母さんは洗濯に夢中で、アキラが玄関を出たことに気付いていない。
高い所から跳べば、遠くに飛べると知っていた。ここから跳べば、さぞかし遠くまで飛べるだろうと思っていた。
ひょっとしたら、あのアドバルーンの辺りまで行けるかもしれないぞ。どうせなら、オレンジの方がいい。オレンジは、アキラが大好きな色だ。
ただ、階段室の屋根の端は小さな段差になっていて、そこに躓かないか、それだけが心配だった。段差の手前の排水溝には、誰が捨てたのか、煙草の吸殻が引っ掛かっていた。
反対側の端まで下がる。助走が長ければ、それだけ遠くまで飛べる。アキラは、そのことも、よく知っていた。
まずは、思いっきり走る。思いっきり踏み切る、段差に気を付けて。あとは、跳んでからの問題だ。
足の速さには自信があった。市営住宅の一角は公園になっていて、年の近い子供と毎日のように遊んでいたが、一つや二つ上の子なら、たいていアキラの方が速かった。
走り始めた。小さなアキラにとって、小さな階段室の屋根は十分に広い。そして踏み切った。
しめた。躓かなかったぞ。
アキラが想像しうる最高の形で、彼は宙に飛び出した。
僕は今、飛んでいる。あのアドバルーンより、もっと遠くまで行けるかもしれないぞ。
ノゾミの死から、一週間が過ぎた。
ヒザキは、ワスプ(であったかどうかは、今となっては分からないが)を殺した罰として、二週間の謹慎を申し付けられた。その間、彼は二段ベッドのある相部屋から外に出ることができない。トイレだけは許されるが、食事は部屋に運ばれる。
スーコによると、ベッドに横になったまま、ろくに起きても来ないそうだ。食欲も失せて、ヒザキが残した物はスーコが食べてしまうということだった。
ハイブの警備は三交代制で24時間行われ、五十代組と呼ばれるマミヤたち四人を除く、十台後半の若者から五十代までの男性に義務付けられていた。因みに、『五十代組』とは、このハイブの運営を行っている四人を指して使われる言葉であり、五十代の男だが、五十代組でない者も五人ばかりいる。以前は43人いたため、警備はだいたい一週間ごとに回って来て、その相棒は前順の者と後順の者が交互に入れ替わったが、ノゾミが抜けたことによって42人になり、そのため、アキラは今回、二度連続でゴロウと組むことになった。
今回は朝の当番だ。午前6時に交代して、午後二時まで続く。
秋晴れと言って相応しい天気だった。秋にしては濃い青空に、薄くいわし雲がかかっている。下では、女性たちが農作業をしていた。
確か、これくらいの高さだったかな?
アキラは下を見て、小さいときのことを思い出した。続いて、脚の手術痕を見る。
よく、これくらいで済んだもんだ。
そのときアキラは、たまたま下を通りがかった軽のワゴン車の上に落下した。その屋根がクッションになったのが良かったらしい。脚を複雑骨折して、頭も六針縫ったが、命に別状は無かった。あのときといい、パンデミックで生き残ったことと言い、自分にはよほど運があるのだろう。
「午後は、雨になりそうだな」と、ゴロウが西の空を見て言った。
「そんな馬鹿な」と、よく晴れた空を見てアキラは言ったが、ゴロウの天気予報は、いつも当たる。「じゃ、もし降ったらさ、稽古つけてくれよ。久しぶりに」
「別にいいが…」と、ゴロウはアキラの顔をまじまじと見て、顎鬚を撫でた。「ノゾミのことは、お前たちのせいじゃない。あんまり気に負うんじゃないぞ」
「ああ。でも、俺には、その…」。赤くなった。「守らなきゃならない物が、あるからさ」
「なるほど」と、ゴロウは微笑んだ。「そういうことなら、少しきつくなるぞ」
「望むところだぜ」




