守りの戦士
森は、いいにおいがした。
湿った土と、苔と、木の皮のにおい。
白樺の木の幹が、白いろうそくみたいにすらりと並んでいる。
その間から差しこむ木漏れ日が、足もとの草の上でちらちらと揺れている。
頭の上では、名前も知らない鳥が、フルートみたいな声で鳴き交わしていた。踏みしめる落ち葉が乾いた音を立てる。
旅立ちにあたって、私は旅用のマントを借りていた。
白地に藍の縁取りの、美しいマントだ。
背中には、金の糸で何か文字が刺繍されている。
きれいな文字だなと思ってティエタさんにきいたら、「レッツゴー光の尻文字聖女」という意味のことが書いてあるらしい。
今すぐ脱ぎたい。
でも森の朝は思ったより肌寒くて、脱げなかった。
「――で、私の世界では、『文化祭』っていう学校のお祭りがあって、出し物をしないといけないんですよ」
「ほほー」
「なんか私って頼みごとしやすいらしくて、いつもやらされちゃうんですよね」
「はっはっは!」
笑い声が、森じゅうに響く。
私の隣を歩いているのは、スオヤラさんだ。
「光の尻文字聖女様も、大変ですな!」
とにかく、大きい。
背は二メートル近くあると思う。私が見上げると、首が直角になる。
短く刈りこんだ黒髪に、頬からあごをぐるりと覆う立派なひげ。腕は、私の太ももより太い。なのに、目だけがやけにやさしい。大きな犬みたいな、垂れぎみの茶色い目。
そして背中には、私の身長よりも大きな盾を背負っていた。
鉄の板を何枚も重ねた、分厚い盾だ。表面は無数の傷でいっぱいだ。でも、丁寧に磨かれていて、木漏れ日を受けて鈍く光っている。
肩の上のいもむしが、スオヤラさんが歩くたびに揺れるひげを、興味深そうに見上げていた。
「笑いごとじゃないですよ。スオヤラさん」
「光の尻文字聖女様」
スオヤラさんが私を見る。
「どうぞ、私のことは、スオヤラと呼び捨ててください」
「でも、私のことを守ってくれるんですよね?」
私は、スオヤラさんを見上げる。
答えたのは、ティエタさんだった。
「はい。スオヤラは、盾で守ることにかけては、右に出るものはいない戦士です」
森を歩きながら、本を読んでいる。
でも、木にぶつからない。
「いやいや、まだまだ修行が足りません」
「いえ!」
ティエタさんが、ぱたんと本を閉じた。
「我が国には、光の尻文字聖女様をお守りするために、これ以上の戦士はいません」
きっぱりした口調だった。
「そして、光の尻文字聖女様。私のことも、ティエタとお呼びください」
「じゃあ、私も、あかりと呼んでほしいんだけど」
「それは無理ですな。光の尻文字聖女様を、呼び捨てなど」
「できるわけないじゃないですか。光の尻文字聖女様を、呼び捨てなど」
ふたりそろって、同じ角度で首を振った。
「じゃあせめて、『光の尻文字聖女様』はやめて……あかり様とか……」
「では、あかり様、と。そのようにさせていただきますかな」
ほっとした。どれくらいの旅になるか分からないが、旅のあいだに何千回も呼ばれることになる。そのたびに私の心がすり減る。
ガサガサッ。
茂みが、揺れた。
鳥の声が、ぴたりとやんだ。
そして、調子の外れたオルガンを、誰かがでたらめに押さえているような音。
低くて、不安定で、ぐにゃりと歪んだ和音が、背筋を下から上へと逆撫でしていく。
ヴォ……ヴォォォ……。
「あかり様、気をつけてください」
スオヤラが、低い声で言った。さっきまでの笑い声が嘘みたいな、静かな声だった。
「え、何なの?」
「モンスターです」
めきめきめき、と白樺の木がなぎ倒された。
現れたのは――いもむしだった。
馬車くらいの大きさの。
ぶよぶよとした緑と黒のしましまの体。何十本もの短い足が、波のようにうごめいている。
頭のところには、ガチガチと噛み合わさる、ハサミみたいな大あご。
腐った葉っぱみたいな、むっとするにおいが漂ってくる。
私は、肩の上のいもむしを見た。
「君、モンスターだったの?」
いもむしが、ものすごい勢いで、体を左右に振った。
違う違う違う、と全身で言っている。
「あれは、いもむし型のモンスター、キャタピラーです!」
「違いが分からない!!」
いもむしが私を見る。
あんなのと一緒にしないで、と言っているようだ。
でも、正直、違いが分からない。
スオヤラが、私とモンスターの間に立つ。
「あかり様! 私が守りますので、攻撃尻文字魔法をお願いします!」
「え?」
間。
「私が守りますので、攻撃尻文字魔法をお願いします!」
こうげきしりもじまほう。
脳内で、変換ができない。
「……スオヤラは、攻撃しないの?」
「私は、守りの戦士」
「はい」
「ゆえに、武器は一切持っておりませぬ!」
「この戦士、残念すぎる!」
「それでは、守ります!」
スオヤラは、「うん!」と、腹の底から気合を発した。
地面が、びりびりと震える。
すごい。さすが、守りでは右に出るものはいない戦士。
そして、スオヤラは、キャタピラーにくるりと背を向けた。
「ん?」
敵に背を向けるとは、どういうことだろう。
背中の大盾が、キャタピラーのほうを向く。
そして、腰を落とし、膝を曲げ、上半身を前に倒して、お尻を、ぐいっと、突き出した。
背中の盾ごと、お尻を突き出している。
――守りの構えが、完成した。
「ええと、それは、何を……してるの?」
「何って……、守りですが?」
「どこが?」
「この世界の守りは、このようにするのです」
ティエタが、当然のことのように言った。
「これで、守……れるの?」
「はい! 体内をめぐる魔力を利用して、尻文字魔法で強化した盾で、守る!」
スオヤラのお尻が、ぷるぷると小刻みに揺れていた。
どうやら、ものすごく小さな尻文字で、盾に魔力を送り込んでいるらしい。
それに応えるように、盾の表面に、うっすらと青い光の膜が浮かび上がる。
その青い光が、炎のようにゆらめき、柱になった。
すごい。ちゃんと魔法だ。
ちゃんと魔法なんだけど。
「ティエタ、あのさ、このスタイルってさ、もう完全に」
「何を想像したかはわかりませんが、違います」
「……いやいやいや、どう見てもそうだよね?」
「違います。カッコいいじゃないですか」
「カッコいいかな?」
「もちろん」
「でも、あれさ、もう、だって、どう見ても」
「さあ、あかり様! 攻撃尻文字魔法をお教えしましょう!」
「おっ、無視したな」
ティエタは、本を取り出して広げた。
「キャタピラーは、火に弱いモンスターです」
「おお、虫タイプだ」
「何ですかそれ」
「私の世界の話。虫タイプは、火に弱い」
「よくわかりませんが、話は早いですね」
ティエタは、私を見て微笑んだ。
「どうぞ、尻文字で、火の魔法『タイクオッタ・ジョカ・ポルッタ・トゥルタ』と、お願いします!」
ええと、タイクオッタ、ジョカ、ポル……
「長いよ! 覚えられないよ! いやだよ! つっこみきれないよ!」
「なぜですか!?」
「恥ずかしいからに決まってるでしょ!?」
「今は、そんなこと言ってられません!」
ギシャアアアア!
キャタピラーが、耳をつんざくような声を上げた。
大あごの間から、白い糸が、滝のように噴き出す。
糸は、一瞬でスオヤラに巻きついた。
お尻を突き出した姿勢のまま、スオヤラは、みるみるうちに白いまゆみたいになっていく。
「ぐはーーーーーー!!!」
「スオヤラーーーーー!」
「あかり様、キャタピラーの糸は、猛毒なのです!」
「ああ、もう! 分かったよ!!」
私は、いもむしを肩から下ろす。
「ちょっとここにいてね」
私は、走り出した。
「どこに行くのです!?」
「木の陰だよ!」
「なんで?」
「尻文字が恥ずかしいからに決まってるでしょ!」
私は、キャタピラーとは反対方向の、いちばん太い樫の木の裏へ走った。




