忍び寄る分解の影
悪徳領主であったカロリー男爵が、地獄のランジウォークとプランクによって「心身共にスマートな筋トレ愛好家」へと矯正されてから一ヶ月。
『カロリア』の街は、かつてないほどの活気と健康に満ち溢れていた。
領民たちは朝からスクワットで汗を流し、冒険者たちは豪の管理する『24時間営業フィットネスジム(旧・暴食の迷宮)』で己の肉体を鍛え上げている。
魔法至上主義だったこの街に、確かな「マッスルの波」が訪れていた。
「……ふぅ。今日もいい汗をかいたわね」
カタボリカはタオルで金髪を拭いながら、備え付けのプロテインサーバーからドリンクを注いでいた。
「嫌よ嫌よも好きのうち」とはよく言ったもので、最近の彼女はすっかり有酸素運動の虜になり、心なしか肌のツヤも良くなっている。
「素晴らしいぞカタボリカ! 君の背中にも、薄っすらとだが美しい起立筋のラインが見えてきた!」
「なっ!? べ、別に見せないわよ!
というか、レディの背中をジロジロ見ないでよね!」
顔を真っ赤にして隠すカタボリカの横で、クレアティナとマルトディアも充実した表情でストレッチを行っていた。
彼女たちの体は、一ヶ月の合宿を経て見違えるほど逞しく、しなやかに仕上がっている。
すべてが順調だった。このまま異世界に筋肉の教えを広めていける。
豪がそう確信してサイドチェストを決めた、その時だった。
『――ヒュゥゥゥゥッ』
突如として、ジムの開け放たれた窓から、氷のように冷たく、そして「嫌な気配」を孕んだ風が吹き込んできた。
「……えっ?」
風魔法の使い手であるカタボリカが、真っ先に異変に気づいて顔を青ざめさせた。
「な、なにこれ。大気の魔力が……『死んでる』?」
キャァァァァ!
次の瞬間、ジムの外から領民たちの悲鳴が上がった。
豪たちが外へ飛び出すと、信じられない光景が広がっていた。
青々としていた街路樹の葉がみるみるうちに枯れ落ち、道端の雑草が灰のように崩れ去っていく。
それだけではない。
先ほどまで元気にスクワットをしていた街の男たちが、突如として膝から崩れ落ち、ゲッソリと頬をこけさせて倒れ込んでいたのだ。
「な、なんだか体の力が、抜けていく……」
「重い……自分の腕すら、持ち上がらねえ……」
「な、なんだこれは!? 一体何が起きている!」
豪が叫ぶと、上空から耳障りな笑い声が降ってきた。
『やれやれ。随分と暑苦しい街になったと思えば……こんな下品な肉塊どもの集まりになっていたとはね』
空が、不気味な紫色に染まっていた。
そこに浮かんでいたのは、漆黒のローブを纏った、痩せこけた青白い肌の男。
その背中にはコウモリのような翼が生えており、彼から発せられる魔力は、周囲の生命力を根こそぎ奪い取っているようだった。
「あれは魔族……!? しかも、あの強大な魔力、ただの魔物じゃないわ! 魔王軍の幹部クラスよ!」
カタボリカの警告に、クレアティナが大剣を構え、マルトディアが杖を突きつける。
「ほう? この私、『衰弱』の二つ名を持つ魔王軍四天王、コルチゾルに向かって武器を構えるか」
男は、自らの名を優雅に名乗った。
「コルチゾル……(*筋肉を分解するストレスホルモン)……だと!?」
その名前を聞いた瞬間、豪の顔からサッと血の気が引いた。
それは本能的な恐怖である。
「クククッ、無駄なことだ。
私の固有魔法【強制萎縮】の前では、いかなる物理的抵抗も意味をなさない。……ほら、お前たちの自慢の肉体も、すでに崩壊を始めているぞ?」
「なっ……!?」
クレアティナが大剣を取り落とし、ガクンと膝をついた。
マルトディアも、杖を支えきれずに倒れ込む。
「し、師匠……っ! 力が……筋肉が、縮んでいくみたいで……っ!」
「クレアティナ! マルトディア!」
豪が二人に駆け寄ろうと足を踏み出した、その時。
彼自身の体に、かつて経験したことのない『異変』が走った。
「……がっ!?」
豪の太く丸太のような腕が、ピリピリと痛みを放ったのだ。
見れば、極限までパンプアップされていたはずの上腕二頭筋が、ほんのわずかだが数ミリ単位で、明らかに「細く」なっていた。
「なっ?!俺の……俺の筋肉が、削られている……!?」
「クククッ! そうだ、私の魔法は『質量』と『生命力』を強制的に分解する! 貴様のような筋肉ダルマなど、一番の的でしかないのさ!」
空に浮かぶコルチゾルが、残忍な笑みを深めた。
「宣告しよう、あと24時間だ。
24時間以内にこの結界内で私の魔力核を破壊できなければ、お前たちの肉体は塵となって消え去る。
……まあ、どんどん力が抜けていく中で、空に浮かぶ私にどうやって攻撃を届かせるのか見ものだがね!」
高らかに笑い声を上げ、コルチゾルは紫色の雲の中へと姿を消した。
残されたのは、街を覆う結界と、次々と倒れていく人々。
強靭な肉体を手に入れて以来、どんなピンチも筋肉で解決してきた豪。
しかし今、彼は「筋肉そのものが時間経過で奪われていく」という、彼にとって最大の恐怖にして、最悪の窮地に立たされていた。
物理攻撃が届かない上空の敵。時間と共に失われていくバルク(筋肉)。
「……ふざけるな」
震える腕を強く握りしめ、豪は血を吐くような声で絞り出した。
「俺の愛する筋肉を……俺の弟子たちが流した汗と努力の結晶を……削り取るだと……ッ!?」
豪の瞳に、かつてないほどの激しい怒りの炎が宿る。
タイムリミットは24時間。最凶の敵を相手に、最強の筋肉バカとの闘いが始まろうとしていた。




