八
「ねえねえ、勝手にこんなところに入っちゃっていいの?」
カウンターの陰にうずくまりながら、美樹原はひそひそ声を出した。正面出入口から入るわけにはいかなかったので、俺たちは猫のひたいほどの庭を伝って、裏口から店内に侵入した。
幸い、親父は調理にかかりきりらしく、まだ俺の帰宅に気づいてない。
「心配するな。ここ、俺の親父の店だから」
「へっ!?」
「俺だって、驚きまくってる。なんでわざわざ、こんなところに……」
姉小路と南風さんは、壁際のテーブル席に向かい合って腰かけていた。座席数九席、店舗面積八坪ほどの狭い店なので、どこにいてもお客の会話は聞き取れる。
俺と美樹原はカウンターの端に置かれたレジ台の陰から、ひょこひょこ顔を出しつつ、ふたりの話し声に耳を澄ませていた。
「すばらしいお店ですね。古風な隠れ家といった趣きで。さすがは僕が見込んだ女だけはある。敬愛するスタンダールいわく、『卑俗さは想像力を消し、ただちに私にとっては、耐えがたい退屈を生む』。見目麗しい方は、趣味もいいものです」
姉小路は鳥肌が立つような美辞麗句を、なんのてらいもなく口にする。
「ご、御冗談はおよしになって。前に一度、お母様の紹介で訪れただけなのです。なにか勘違いしておられるようですが、わたくし、あなたが思うような女ではございません。自己紹介の折にも申し上げましたが、庶民の生まれですので」
「ハハハッ。氏より育ち、と言うではありませんか。一〇〇カラットのダイヤモンドも、磨かなければただの原石のまま。僕の見たところ、あなたは一流の宝石研磨士の手によって、順調に磨かれてきています」
「さ、さようでございますか……身にあまる光栄ですわ」
「フフッ。美に殉じる人間として、あなたのような貴女と知り合えたことは、感激の極みと申し上げるしかありません」
『なにがレイディだこの野郎!』と叫びたくなったが、ぎりぎりのところで自制した。目を三角にした俺とは対照的に、美樹原は愉快そうに笑っている。
「クククッ……あそこまで徹底してると、逆に尊敬したくなっちゃうわ。あんな歯の浮くようなお世辞、よく真顔で口にできるわね。アタシだったら、三秒で総入れ歯になっちゃいそう」
「あんな……全世界の男にとって、悪の枢軸みたいな野郎に。くううっ……」
「ハハッ。なにそれ? なんていうか、いますぐ手を取って指輪でもはめかねない勢いね。いやーっ、ああいうやつって現実に存在するんだ。漫画の世界だけだと思ってた」
「あれが素だったら、骨の髄まで変人だな。どうせキャラ作って……ハッ!?」
苦虫を噛みつぶしながら言葉を続けようとしたところで、ドキッと胸が高鳴った。さっきから俺は中腰で、美樹原に覆いかぶさるような体勢でいた。
目と鼻の先に茶色い後頭部があり、そこからフローラルな甘い香気が鼻腔に忍び込んでくる。よく思い出してみると、生身の女性にここまで近づいたのは初めてなのでは?
……いや、訂正。
『妹以外の生身の女性』だな。
あいつはしょっちゅう、俺にプロレス技とかかけてくるし。
まったくの余談だが、妹の好きなプロレスラーはアンドレ・ザ・ジャイアントで、全日派(全日本プロレス派)ではなく、新日派(新日本プロレス派)らしい。
ほんと、いつの時代の人だよとツッコミたくなる……。
「どしたの? 急に黙り込んじゃってさ」
「あっ……いや、なんでもない……」
俺はかぶりを振って、邪悪な色欲を振り払おうとする。こんなものは、ただの生理的反応だ。
真の恋とはなんら関係なく、犬畜生にも備わった機能の一部に過ぎない。いまが戦闘時と仮定して、俺は無理くり熱くなった心を冷却しようとする。
無念無想の境地で、引き続き耳をそばだてる。
「それにしても、意外でした。あなたのような奥床しい貴女が、はやばやと僕の誘いに乗ってくださるとは」
やはりと言うべきか、姉小路のほうから誘いをかけたらしい。
「ずいぶんなおっしゃりようですわね。遠まわしに、わたくしの身持ちを責めておられるように聞こえますわ」
「これは失礼。ただ僕は、過分な幸運を強調したかっただけなのです。なにせあなたは、明けの明星に比すべき美しき女性だから。ああ、そばにいるだけで詩神がささやきかけてくる。『この女を言い表す詩句など、この地上には存在しない』のだと」
もうこれは、脳味噌に蛆が湧いているとしか思えない。
「おええっ。いい加減、胃にもたれてきた。三食、豚の角煮だった気分。あのチャラ男、口から先に生まれてきたんじゃない? てか、いまって二一世紀だよね?」
辟易している美樹原を無視して、俺は姉小路ではなく、南風さんの反応を注視していた。ずっと気にかかっていたのだが、彼女はずっと視線を落としたままでいた。
いつのまに取り出したのか、膝の上に書籍らしきものが広げて置かれている。そういえば、前に来店したときも、熱心に読書していたな。だがしかし、あのときはひとりだったのだ。
「どうなされました? それと、先ほどから僕の顔を見てくれませんね?」
姉小路も気になっていたらしく、さりげなく南風さんに疑問をぶつけた。
「あっ……え、ええと、少々、考え事を……あ、あなたのお顔立ちがおよろしすぎて、まともに見ていられねえ……じゃなくて、いられございませんですのよ……オホホホ」
「なるほどなるほど。いや、無理もないですね。僕は幼少のみぎりより、美しかったですから。それこそ、儚げなムラサキカタバミの花びらのように。おかげで、たくさんの女性たちにかわいがってもらいましたよ」
姉小路はキザッたらしく前髪をかき上げながら、遠くを見つめるような瞳をした。いけしゃあしゃあとどの口が、とツッコミたくなったが、懸命に自制心を働かせた。
「なんかおかしくない?」
ずっとウンチングスタイルでいる美樹原は、しきりに首をひねっていた。
「なにがだよ?」
「お嬢様のことよ。なんか急に、言葉遣いがおかしくなったし。それにさ、さっきからなに読んでるわけ? 普通、人前で読書なんかする?」
美樹原も南風さんの奇行が気になっていたらしい。
「キザ野郎のトークが退屈すぎて、我慢できなくなったんだろ。あれはさ、無言の抵抗なんだよ。うん、きっとそうに違いない」
「あんたもとことん、正直なやつね……ま、知らぬが仏とも言うし。せいぜい、妄想のお花畑でごろごろ転がりまわってるといいわ」
「なんだよ、そのいわくありげな言い方は。やっぱりお前、南風さんと知り合いなんだな? ……ハッ、そうか! 中学時代にいじめてたんだろ?」
「はいー?」
「あのとおり、か弱げな女の子だからな。いじめっ子たちの標的にされてもおかしくない。もし彼女に手を出すようなことがあったら、俺は……」
たとえ最後の一兵になろうとも死闘を演じ続けることだろう。フランス外人部隊史上、もっとも名の知られた義手の英雄、ジャン・ダンジュー大尉のように。
かの人物はどんな絶対的不利な状況に置かれても、決して冷静沈着さを失わない知勇兼備の軍人だった。
一八六三年のカメロンの戦いにおいて、壮烈な戦死を遂げたのだが、彼が率いた部隊兵は降服勧告に応じることもなく、敵軍のメキシコ軍をして『人間ではなく、鬼だ!』と言わしめた。
以上の逸話はすべて親父からの受け売りだが、俺の気持ちは本物である。
「あ、あんたねえ……」
目を怒らし、いまにも食ってかかりそうな美樹原をよそに、俺の心は一五〇年前の古戦場へ旅立っていた。
「そうだ……男子に生まれたからには、敵軍にひざまずくことなど……」
「聞いてんの! ……だあれがいじめたって? え? ふ、ふざけんにもほどがあるわよ!」
「なーにやってんの? こんなところで」
美樹原が俺の胸ぐらをつかみ上げようとしたところで、頭上からのほほんとした声が降ってきた。
「み、海晴!? ……なんでお前が……」
セーターにミニスカート、エプロン姿の海晴は、からからと乾いた笑声を立てた。
「だって、今日はわたしが店番だもん。それより、横にいる人はどなた? ……あっ! もしかして、お兄ちゃんのコレ?」
意地悪な笑みを浮かべながら、海晴は右手の小指を立てる。
「違ーう!」
示し合わせたわけでもないのに、俺と美樹原の怒声はきれいにユニゾンした。そのはずみにふたりして身を起こしてしまう。
何事かと、テーブル席のふたりは同時に立ち上がる。
あわてて身を隠そうとしたが、すでに時遅しだった。
姉小路は興深げに、南風さんはあっけに取られた顔をしながら、こちらに近づいてくる。
「やあやあ、これは奇遇ですね。運命をつかさどる女神、アトロポスですらこの邂逅は見抜けなかったことでしょう。鬼堂君、君もなかなかやりますね。入学式の日に、こんな素敵なお嬢さんをお連れになるとは」
男の俺に対しても、姉小路のキザっぽい口調は変わらなかった。
「違う違う! 俺たちは、その……うーんと……そ、それより日本人なら日本語をしゃべれよな! フロイラインって、お前はどこの国の人間なんだよ?」
「日本生まれの日本育ちですが? もっとも、恋に国境は存在しませんけど。瞳や肌の色が何色だろうと、恋物語の障害にはなりえません。かのシェイクスピアの四大悲劇の一作、『オセロ』のオセロ王は黒人という説があるくらいですし」
「へええっ、そうなんだ……って、それはそれとしてだ! あのな、ここは俺の親父の店なんだよ。だから、ここに俺がいるのは偶然でもなんでもない」
「ははあ。なるほど。そういうことでしたか。すると南風さん、あなたは鬼堂君のことをご存知だったのですか?」
「は、はい……以前うかがったとき、定員として鬼堂様がおられて。よもや、同じ学校に通うことになるとは思っておりませんでしたけれど」
南風さんは胸の前で両手を組み合わせ、狼につけ狙われる子うさぎのようにおろおろしていた。その頼りないしぐさが、なおさら薄幸の令嬢感を醸し出す。
初めて会ったときから、彼女は全力で守りたくなるようなオーラに包まれていた。
「ふむ。事情はよくわかりました。ですが、美樹原さん、なぜあなたがここに?」
「あ、アタシは……んーと、この馬鹿を監視するために……かな? こいつってば、ものすごい形相であんたたちのこと、追いかけてったんだよ? 仇討ちにおもむく赤穂浪士もかくやって感じで」
「お、おいっ!」
美樹原はどこ吹く風といった様子で、口笛を吹く真似をしている。
だが、俺はそれ以上なにも言わなかった。姉小路と南風さんをつけてきたのは事実だし、そのことに関しては言い訳のしようがない。
「つまり、僕を恋敵と見なしたということですね? もしそうでなければ、追いかけてくる道理がありませんからね」
「えっ? ……そ、そんな……あの……」
南風さんの動揺は増すばかりで、両手の人差し指をくるくる絡みつかせている。
「な、なんでそういうことになるんだよ? 言っておくけどな、この店の目の前が俺の実家なんだ。そりゃ、黙ってつけてきたのは悪かったけどさ……」
あまりのバツの悪さに、俺は視線を落としてしまった。
「どうか、顔をお上げください。君はなにも悪くないのですから。幸いなことに、自由意志による恋愛を禁ずる法律はこの国に存在しません。さらに言うと、法の女神、テミスと言えども人の恋心を裁くことはかないません」
「いやだから、なんでそうなるんだってば!」
「現に君は南風さんをストーキングしていたではないですか?」
「ス、ストーキングって!? ……あ、あのなあ。たまたま帰り道が一緒になっただけだ! それ以外の何物でもない!」
「フフフ。『目は口ほどに物を言う』とは、よく言ったものです。おっと、怒らないでください。僕はヴィクトリア朝期の紳士のごとく、騎士道を奉じる者ですから。初対面の女性と一夜をともにしようとか、そのような不埒な企みは抱いてないですよ?」
「あああああたり前だそんなこと!」
どもったうえに、声が裏返ってしまった。突然、なんてことを言い出すんだ……。
「さてと、そろそろおいとましましょうか。このままでは、営業妨害になってしまいそうですからね」
何百本ものバラが咲き誇ったような笑みを浮かべながら、姉小路は南風さんに目配せする。
「は、はいっ……」
南風さんはあわててコートを羽織り、通学かばんから財布を取り出そうとする。
「ここはエチケットとして、僕に払わせてください。誘ったのは僕のほうですから」
「い、いいえ! そういうわけにはまいりませんわ。ちゃんとワリカンにいたしましょう」
「ですが……」
「たしか、セットで八五〇円でしたわね。ちょうどございますから」
とりつくしまも与えず、南風さんは小銭をカウンターに置いた。
「ふーん……」
その様子を、なぜか美樹原が怪訝そうに見守っていた。




