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9/19

八

「ねえねえ、勝手にこんなところに入っちゃっていいの?」


 カウンターの陰にうずくまりながら、美樹原はひそひそ声を出した。正面出入口から入るわけにはいかなかったので、俺たちは猫のひたいほどの庭を伝って、裏口から店内に侵入した。


 幸い、親父は調理にかかりきりらしく、まだ俺の帰宅に気づいてない。


「心配するな。ここ、俺の親父の店だから」


「へっ!?」


「俺だって、驚きまくってる。なんでわざわざ、こんなところに……」


 姉小路と南風さんは、壁際のテーブル席に向かい合って腰かけていた。座席数九席、店舗面積八坪ほどの狭い店なので、どこにいてもお客の会話は聞き取れる。


 俺と美樹原はカウンターの端に置かれたレジ台の陰から、ひょこひょこ顔を出しつつ、ふたりの話し声に耳を澄ませていた。


「すばらしいお店ですね。古風な隠れ家といった趣きで。さすがは僕が見込んだ女(ひと)だけはある。敬愛するスタンダールいわく、『卑俗さは想像力を消し、ただちに私にとっては、耐えがたい退屈を生む』。見目麗しい方は、趣味もいいものです」


 姉小路は鳥肌が立つような美辞麗句を、なんのてらいもなく口にする。


「ご、御冗談はおよしになって。前に一度、お母様の紹介で訪れただけなのです。なにか勘違いしておられるようですが、わたくし、あなたが思うような女(ひと)ではございません。自己紹介の折にも申し上げましたが、庶民の生まれですので」


「ハハハッ。氏より育ち、と言うではありませんか。一〇〇カラットのダイヤモンドも、磨かなければただの原石のまま。僕の見たところ、あなたは一流の宝石研磨士の手によって、順調に磨かれてきています」


「さ、さようでございますか……身にあまる光栄ですわ」


「フフッ。美に殉じる人間として、あなたのような貴女(レイディ)と知り合えたことは、感激の極みと申し上げるしかありません」


 『なにがレイディだこの野郎!』と叫びたくなったが、ぎりぎりのところで自制した。目を三角にした俺とは対照的に、美樹原は愉快そうに笑っている。


「クククッ……あそこまで徹底してると、逆に尊敬したくなっちゃうわ。あんな歯の浮くようなお世辞、よく真顔で口にできるわね。アタシだったら、三秒で総入れ歯になっちゃいそう」


「あんな……全世界の男にとって、悪の枢軸みたいな野郎に。くううっ……」


「ハハッ。なにそれ? なんていうか、いますぐ手を取って指輪でもはめかねない勢いね。いやーっ、ああいうやつって現実に存在するんだ。漫画の世界だけだと思ってた」


「あれが素だったら、骨の髄まで変人だな。どうせキャラ作って……ハッ!?」


 苦虫を噛みつぶしながら言葉を続けようとしたところで、ドキッと胸が高鳴った。さっきから俺は中腰で、美樹原に覆いかぶさるような体勢でいた。


 目と鼻の先に茶色い後頭部があり、そこからフローラルな甘い香気が鼻腔に忍び込んでくる。よく思い出してみると、生身の女性にここまで近づいたのは初めてなのでは?


 ……いや、訂正。

 『妹以外の生身の女性』だな。


 あいつはしょっちゅう、俺にプロレス技とかかけてくるし。

 まったくの余談だが、妹の好きなプロレスラーはアンドレ・ザ・ジャイアントで、全日派(全日本プロレス派)ではなく、新日派(新日本プロレス派)らしい。


 ほんと、いつの時代の人だよとツッコミたくなる……。


「どしたの? 急に黙り込んじゃってさ」


「あっ……いや、なんでもない……」


 俺はかぶりを振って、邪悪な色欲を振り払おうとする。こんなものは、ただの生理的反応だ。


 真の恋とはなんら関係なく、犬畜生にも備わった機能の一部に過ぎない。いまが戦闘時と仮定して、俺は無理くり熱くなった心を冷却しようとする。

 無念無想の境地で、引き続き耳をそばだてる。


「それにしても、意外でした。あなたのような奥床しい貴女(レイディ)が、はやばやと僕の誘いに乗ってくださるとは」


 やはりと言うべきか、姉小路のほうから誘いをかけたらしい。


「ずいぶんなおっしゃりようですわね。遠まわしに、わたくしの身持ちを責めておられるように聞こえますわ」


「これは失礼。ただ僕は、過分な幸運を強調したかっただけなのです。なにせあなたは、明けの明星(みょうじょう)に比すべき美しき女性だから。ああ、そばにいるだけで詩神(ミューズ)がささやきかけてくる。『この女(ひと)を言い表す詩句など、この地上には存在しない』のだと」


 もうこれは、脳味噌に蛆が湧いているとしか思えない。


「おええっ。いい加減、胃にもたれてきた。三食、豚の角煮だった気分。あのチャラ男(お)、口から先に生まれてきたんじゃない? てか、いまって二一世紀だよね?」


 辟易している美樹原を無視して、俺は姉小路ではなく、南風さんの反応を注視していた。ずっと気にかかっていたのだが、彼女はずっと視線を落としたままでいた。


 いつのまに取り出したのか、膝の上に書籍らしきものが広げて置かれている。そういえば、前に来店したときも、熱心に読書していたな。だがしかし、あのときはひとりだったのだ。


「どうなされました? それと、先ほどから僕の顔を見てくれませんね?」


 姉小路も気になっていたらしく、さりげなく南風さんに疑問をぶつけた。


「あっ……え、ええと、少々、考え事を……あ、あなたのお顔立ちがおよろしすぎて、まともに見ていられねえ……じゃなくて、いられございませんですのよ……オホホホ」


「なるほどなるほど。いや、無理もないですね。僕は幼少のみぎりより、美しかったですから。それこそ、儚げなムラサキカタバミの花びらのように。おかげで、たくさんの女性たちにかわいがってもらいましたよ」


 姉小路はキザッたらしく前髪をかき上げながら、遠くを見つめるような瞳をした。いけしゃあしゃあとどの口が、とツッコミたくなったが、懸命に自制心を働かせた。


「なんかおかしくない?」


 ずっとウンチングスタイルでいる美樹原は、しきりに首をひねっていた。


「なにがだよ?」


「お嬢様のことよ。なんか急に、言葉遣いがおかしくなったし。それにさ、さっきからなに読んでるわけ? 普通、人前で読書なんかする?」


 美樹原も南風さんの奇行が気になっていたらしい。


「キザ野郎のトークが退屈すぎて、我慢できなくなったんだろ。あれはさ、無言の抵抗なんだよ。うん、きっとそうに違いない」


「あんたもとことん、正直なやつね……ま、知らぬが仏とも言うし。せいぜい、妄想のお花畑でごろごろ転がりまわってるといいわ」


「なんだよ、そのいわくありげな言い方は。やっぱりお前、南風さんと知り合いなんだな? ……ハッ、そうか! 中学時代にいじめてたんだろ?」


「はいー?」


「あのとおり、か弱げな女の子だからな。いじめっ子たちの標的にされてもおかしくない。もし彼女に手を出すようなことがあったら、俺は……」


 たとえ最後の一兵になろうとも死闘を演じ続けることだろう。フランス外人部隊史上、もっとも名の知られた義手の英雄、ジャン・ダンジュー大尉のように。


 かの人物はどんな絶対的不利な状況に置かれても、決して冷静沈着さを失わない知勇兼備の軍人だった。


 一八六三年のカメロンの戦いにおいて、壮烈な戦死を遂げたのだが、彼が率いた部隊兵は降服勧告に応じることもなく、敵軍のメキシコ軍をして『人間ではなく、鬼だ!』と言わしめた。


 以上の逸話はすべて親父からの受け売りだが、俺の気持ちは本物である。


「あ、あんたねえ……」


 目を怒らし、いまにも食ってかかりそうな美樹原をよそに、俺の心は一五〇年前の古戦場へ旅立っていた。


「そうだ……男子に生まれたからには、敵軍にひざまずくことなど……」


「聞いてんの! ……だあれがいじめたって? え? ふ、ふざけんにもほどがあるわよ!」


「なーにやってんの? こんなところで」


 美樹原が俺の胸ぐらをつかみ上げようとしたところで、頭上からのほほんとした声が降ってきた。


「み、海晴!? ……なんでお前が……」


 セーターにミニスカート、エプロン姿の海晴は、からからと乾いた笑声を立てた。


「だって、今日はわたしが店番だもん。それより、横にいる人はどなた? ……あっ! もしかして、お兄ちゃんのコレ?」


 意地悪な笑みを浮かべながら、海晴は右手の小指を立てる。


「違ーう!」


 示し合わせたわけでもないのに、俺と美樹原の怒声はきれいにユニゾンした。そのはずみにふたりして身を起こしてしまう。


 何事かと、テーブル席のふたりは同時に立ち上がる。

 あわてて身を隠そうとしたが、すでに時遅しだった。


 姉小路は興深げに、南風さんはあっけに取られた顔をしながら、こちらに近づいてくる。


「やあやあ、これは奇遇ですね。運命をつかさどる女神、アトロポスですらこの邂逅(かいこう)は見抜けなかったことでしょう。鬼堂君、君もなかなかやりますね。入学式の日に、こんな素敵なお嬢さん(フロイライン)をお連れになるとは」


 男の俺に対しても、姉小路のキザっぽい口調は変わらなかった。


「違う違う! 俺たちは、その……うーんと……そ、それより日本人なら日本語をしゃべれよな! フロイラインって、お前はどこの国の人間なんだよ?」


「日本生まれの日本育ちですが? もっとも、恋に国境は存在しませんけど。瞳や肌の色が何色だろうと、恋物語(ラブロマンス)の障害にはなりえません。かのシェイクスピアの四大悲劇の一作、『オセロ』のオセロ王は黒人という説があるくらいですし」


「へええっ、そうなんだ……って、それはそれとしてだ! あのな、ここは俺の親父の店なんだよ。だから、ここに俺がいるのは偶然でもなんでもない」


「ははあ。なるほど。そういうことでしたか。すると南風さん、あなたは鬼堂君のことをご存知だったのですか?」


「は、はい……以前うかがったとき、定員として鬼堂様がおられて。よもや、同じ学校に通うことになるとは思っておりませんでしたけれど」


 南風さんは胸の前で両手を組み合わせ、狼につけ狙われる子うさぎのようにおろおろしていた。その頼りないしぐさが、なおさら薄幸の令嬢感を醸し出す。


 初めて会ったときから、彼女は全力で守りたくなるようなオーラに包まれていた。



「ふむ。事情はよくわかりました。ですが、美樹原さん、なぜあなたがここに?」


「あ、アタシは……んーと、この馬鹿を監視するために……かな? こいつってば、ものすごい形相であんたたちのこと、追いかけてったんだよ? 仇討ちにおもむく赤穂浪士(あこうろうし)もかくやって感じで」


「お、おいっ!」


 美樹原はどこ吹く風といった様子で、口笛を吹く真似をしている。

 だが、俺はそれ以上なにも言わなかった。姉小路と南風さんをつけてきたのは事実だし、そのことに関しては言い訳のしようがない。


「つまり、僕を恋敵と見なしたということですね? もしそうでなければ、追いかけてくる道理がありませんからね」


「えっ? ……そ、そんな……あの……」


 南風さんの動揺は増すばかりで、両手の人差し指をくるくる絡みつかせている。


「な、なんでそういうことになるんだよ? 言っておくけどな、この店の目の前が俺の実家なんだ。そりゃ、黙ってつけてきたのは悪かったけどさ……」

 あまりのバツの悪さに、俺は視線を落としてしまった。


「どうか、顔をお上げください。君はなにも悪くないのですから。幸いなことに、自由意志による恋愛を禁ずる法律はこの国に存在しません。さらに言うと、法の女神、テミスと言えども人の恋心を裁くことはかないません」


「いやだから、なんでそうなるんだってば!」


「現に君は南風さんをストーキングしていたではないですか?」


「ス、ストーキングって!? ……あ、あのなあ。たまたま帰り道が一緒になっただけだ! それ以外の何物でもない!」


「フフフ。『目は口ほどに物を言う』とは、よく言ったものです。おっと、怒らないでください。僕はヴィクトリア朝期の紳士のごとく、騎士道を奉じる者ですから。初対面の女性と一夜をともにしようとか、そのような不埒な企みは抱いてないですよ?」


「あああああたり前だそんなこと!」


 どもったうえに、声が裏返ってしまった。突然、なんてことを言い出すんだ……。


「さてと、そろそろおいとましましょうか。このままでは、営業妨害になってしまいそうですからね」


 何百本ものバラが咲き誇ったような笑みを浮かべながら、姉小路は南風さんに目配せする。


「は、はいっ……」


 南風さんはあわててコートを羽織り、通学かばんから財布を取り出そうとする。


「ここはエチケットとして、僕に払わせてください。誘ったのは僕のほうですから」


「い、いいえ! そういうわけにはまいりませんわ。ちゃんとワリカンにいたしましょう」


「ですが……」


「たしか、セットで八五〇円でしたわね。ちょうどございますから」


 とりつくしまも与えず、南風さんは小銭をカウンターに置いた。


「ふーん……」


 その様子を、なぜか美樹原が怪訝そうに見守っていた。


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