四
年が明け、一月の末頃。
うららかな冬晴れの日。
日中の気温はそれなりに上がってきたものの、まだまだ朝晩の冷え込みは厳しい。ゆったりと日の出は早く、日の入りは遅くなってきているが、依然として日が短く感じられる時候である。
北風がぴゅーっと吹きすさぶたびに、身も心も冷えびえとする。
春の訪れがはるか先のことのように感じられる、そんなある日。
学校から帰宅すると、俺は私服に着替えて『緑雨』の店舗へ向かった。俺と妹の海晴は小学生の頃から、店の手伝いに駆り出されてきた。
なるべく他人任せにしたくない性分の親父だから、極力、店の切り盛りは身内だけでやりたいらしい。客足が伸びる昼間の時間帯は、パートのおばさんがシフトに入るが、夕方以降は俺と海晴が交替で給仕を務める。
ただし、無給で働かされているわけではなく、きちんとアルバイト料は支払われる。かつてやり手の商社マンだっただけに、金銭面に関してはきっちりとしている親父なのだ。
もっとも、俺の尊い賃金は、ほとんどろくでもないことに費やされてしまったのだが……。
一例を挙げると、『星宮純コンプリート・DVD・リマスター・BOXSET』は(税込)で三九八〇〇円だった。
あえて自分に言いたい。お前は途方もない大馬鹿野郎だと。
――カラカラカラカラ。
木枠にガラスをはめ込んだ引き戸が引かれ、お客さんが入ってくる。
「あ。こんにち……」
――カタン!
挨拶が語尾に差しかかる寸前、俺は漆塗りのお盆を床に落とした。
店内に現れた女の子に目を留めた瞬間、時計の針が逆向きに高速回転していくような錯覚に襲われた。
「あの……?」
女の子は立ちつくしたまま、とまどったように小首をかしげている。問いかけの言葉は左の耳から右の耳に抜けていった。俺は沈黙したまま、女の子の立ち姿をじっと凝視していた。
ベージュのショートコートに薄茶色のプリーツスカート、ケープ式のストールを首に巻き、足元は焦げ茶色のショートブーツ。子牛皮のハンドバッグを右肩にかけ、両手に同じ皮の手袋をはめている。
いずれも黒色で、よく手入れされているのか光沢感にあふれている。髪型はオーソドックスなボブスタイルで、肩あたりで上品に切り揃えられていた。
まるでシャンプーのCMで見るような滑らかな黒髪で、うねりやほつれはどこにも見当たらない。素手でじかに触れたら切れてしまいそうな張りと腰のあるお髪だった。
そして、容姿に関して言うと……。
「し、失礼いたしました!」
ようやく我に返った俺は、あわててお盆を拾い上げる。そして失態を詫びるべく、深々と頭を下げた。
「どうぞ、お好きな席におかけになってください」
「恐れ入ります」
女の子は背筋を伸ばし、ていねいにお辞儀した。普通ならすぐに頭を上げるところだが、三秒ほど体を傾けたままでおり、それからゆっくりと上体を起こした。その典雅な身ごなしだけで、育ちのよさがうかがえる。
掛け値なしの、純度一〇〇パーセントのお嬢様だ!
だが、俺の驚きの理由はそのことにあらず。
お嬢様は店内を進んでいき、日替わりメニューが記された黒板横のカウンター席に腰を落ち着けた。背筋をピンと伸ばし、それでいながらどこか力の抜けた歩き方は、雅やかさに満ちあふれていた。
ランチタイムが終了した直後だったので、ほかにお客はひとりもいなかった。
俺は取り替えたお盆に湯気の立つ茶碗、メニューブックを載せ、お嬢様の席に運んでいく。
「どうもありがとう」
茶碗とメニューをテーブルに置くと、お嬢様はわざわざ俺のほうを振り返り、口元にほんのりと微笑を湛えた。
「あ、いえ……ご注文が決まりましたら、お呼びください」
緊張でコチコチになったまま、俺は引き下がろうとする。
「あの、よろしいかしら?」
「ははいっ! なんでしょう?」
「なにかおすすめのメニューはございますか? こちらのお店にうかがったのは初めてなもので」
「そ、そうですねえ……お腹は空いてますか?」
「いいえ。昼食はいただきましたので。デザートくらいでしたら……」
「それでしたら、シフォンケーキに当店自慢のオリジナルブレンドコーヒーはいかがでしょうか? セットで注文されると、お安くなりますが……」
「さようでございますか。でしたら、そちらをちょうだいできますこと?」
お嬢様はメニューを開かず、じっと俺の顔を見上げていた。馬鹿ていねいな言葉遣いもさることながら、いまどきの若者らしくないスローモーなしゃべり方が、よけいに気品を添えるのだった。
「かしこまりました。少々、お待ちください」
俺は厨房へ向かい、注文の品名を親父に告げると、ふたたび店内へ戻ってくる。
お嬢様は椅子の背もたれに寄りかからず、背筋を伸ばしたままの姿勢で、ハードカバーの書籍に読みふけっていた。ブックカバーがかかっているため、本の題名はわからない。おそらくリルケの詩集だろう。
妹情報によると、文学少女のお嬢様はリルケを愛読するらしい。ちなみに俺は一行も読んだことがないが。
間違っても、株取引のハウツー本やら、スピリチュアルな精神世界を説くオカルト本やらではないはずだ。芸能人の暴露自伝本でもないだろう。
それにしても、似ている。
いや、生き写しと言ってもいいくらいだ。
そうなのだ。お嬢様は俺の初恋の人――若い頃の星宮純に瓜二つなのだ!
意を決して、俺は声をかけてみることにした。
「あのお……お取り込み中、もうしわけありません」
「きゃっ!?」
横から話しかけると、お嬢様はしっぽを立てた猫のように激しく身震いした。
「あ、すみません。驚かせちゃって……」
「いいいいえっ! こちらこそ、ご無礼いたしました。すこし、びっくりしただけですの」
お嬢様はどぎまぎしながら、開いたままの書籍を伏せる。
「重ねてお詫びいたします。あの、当店のことはどこでお知りになりましたか?」
「ええと、お母様に教わりましたの。素敵なお店だから、ぜひ一度、うかがってみなさいと」
「なるほど。そうでしたか。それはもう、お母様に感謝しなければなりませんね」
知らずに俺は、お上品な言葉遣いに感染しつつあった。
「お世辞抜きに、すばらしいお店だと思いますわ。外観も、内装もたいそう古色蒼然としていて。いるだけで、タイムスリップしたような気分になりますもの」
「いやあ、もとはボロボロの木造家屋ですからね。冬は隙間風が吹き込みますし、ヒーター代も馬鹿にならないようですよ。寒くはありませんか?」
お嬢様はコートを脱いで、薄桃色のカーディガン姿になっていた。なかには真っ白なブラウスを着ている。
こんなときになんだが、俺の視線は否応なく胸元に引き寄せられていく。薄い布地を盛り上げるふたつのふくらみは、清楚な顔つきにそぐわず、申し分なくその巨大さを主張しているのだった。
鎮まれ! 俺の男の子!
「お気遣い、ありがとう存じます。寒くもなく、暑くもなく、まことに過ごしやすいですわ」
邪念を頭のなかから振り払いながら、俺は小さくうなずいた。
「あの、読書がお好きなんですか?」
伏せられたハードカバーにさりげなく目をやる。
「えっ!?」
なぜかお嬢様は全身をビクつかせる。
「え? ……あ、ど、どうしました?」
「あっ……その、なんでもありませんことよ。オホホホ」
「そうですか……ちなみに、いまはなにを読んでいらっしゃるのですか?」
なんとか会話を続かせようと、俺は必死になっていた。思えば妙齢の女性とまともに会話した記憶がない。いま、このときも心臓はバクバク鳴りっぱなしだった。
「そ、それはその……えーと、あの、なんと申し上げたらいいのやら。あたし……じゃなくて、わたくし、あまり他人様に趣味をひけらかすような真似は好きじゃねえ……じゃじゃなくて! なくってよ! ……ええ……」
なにか突然、言葉つきがおかしくなったような気がするが。加えて、挙措動作も乱れてしまっている。ついさっきまで、一分の隙もないお嬢様ぶりだったのに。
「おーいっ! コーヒーできたぞおっ!」
「おわっ!?」
親父の銅鑼声が響き渡ると、俺はお嬢様に一礼してから、厨房へ駆け込んでいく。
――三〇秒後。
注文の品をお盆に載せて店内に戻ってくると、お嬢様はなにやらぶつぶつ言いながら、鬼気せまる表情でハードカバーのページを繰っていた。
「くっそお……ちょっと動揺しただけで、これだ。あと二ケ月ちょっとしかないのに……このままじゃ……くそっ、くそっ……なんとかしなくちゃ……ううっ……」
「お待たせしました」
「きゃううっ!?」
背後から声をかけると、お嬢様は首をすくめて震え上がった。不意打ちに弱いのか、それともどがつくほどの小心者なのか。きっと、温室育ちなのだろう。
「あうっ……え、あっ、ごめん……あそばせ。ど、読書に集中しておりまして……ホホホホ」
「いえ、こちらこそ……たびたび驚かせてもうしわけございません」
俺はペコペコ頭を下げながら、ケーキ皿とコーヒーカップをテーブルに置いていく。
「シフォンケーキにオリジナルブレンドでございます」
「まあ! おいしそう!」
ふわふわのシフォンケーキを目にすると、お嬢様は胸の前で両手を組み合わせ、ふにゃりと相好を崩した。年頃の女の子らしい反応に、俺はニヤニヤしてしまう。
「甘いものがお好きなんですか?」
「はい。わたくし、昔から甘いものには目がなくて……お母様によく叱られますの。『甘いものは別腹なんて、お菓子メーカーが流行らせたキャッチコピーなのよ』って」
「はははっ。なかなかおもしろいお母様ですね」
「口うるさくて、いつも辟易しておりますわ。あの、はなはだぶしつけではございますが……」
「はい。なんでしょう?」
お嬢様はしげしげと俺の顔を眺め入る。見つめられただけで、黒水晶のような黒目に吸い込まれてしまいそうだ。
「いえ、なんでもございません。失礼いたしました……ホホ」
「はあ……なにかありましたら、お呼びください」
それから三〇分後。
会計をすませると、お嬢様はうやうやしくいとまを告げてから、静かに店をあとにした。
俺は皿やカップを片すのも忘れて、直立不動の姿勢で出入口を眺めていた。まだ、夢覚めやらぬ気分だった。
これが神様のいたずらというやつなのか。天上界があんまり退屈なので、ふと出来心で運命のサイコロを振りたくなったのか。
よりにもよって、『ホッシー(現役時代の星宮純の愛称)』にクリソツな女の子がこの店を訪れるなんて!
それとも俺は、知らぬ間に異世界だか並行世界だかに紛れ込んでしまったのか?
「きれいな人だったねー。なんていうか、大正時代のお嬢さんって感じ?」
「ふおっ!?」
いつ、どこから出現したのか、真横に海晴が腕組みしながら立っていた。
「『ありがとう存じます』とかさあ、いつの時代の人だよ、ってツッコミたくなっちゃった。イヒッ」
「お、お前だって、しょっちゅう時代遅れの言葉使ってるだろが。つうか、ずっと見てたのかよ!? 悪趣味なやつだなあ」
「わたしのは考古学的興味ってやつだもん。けどさあ、ふーん……まあ、無理もないか。あの人、お兄ちゃんの惚れたナオンにそっくりだったもんねえ。正直、びっくりしちゃったよ」
「ナオンとか言うなっ! ……それになんのことか、よくわからないんだが……」
表向き、俺がアイドルにハマったことは内緒にしてあるが、『壁に耳あり障子に目あり』の我が家では、ほとんど公然の秘密扱いとなっている。
「おっとっとっ……フフフ。そういえば、そうだったねえ。ま、純情なチェリーボーイぶりに免じてスルーしておくよ。顔真っ赤にしながら、慣れない敬語なんか使っちゃってさあ」
「チェリーボーイって……お前。うっ……頭痛くなってきた……」
親父の教育の被害者が、またここにひとり。女の子ということもあってか、海晴は俺とは正反対に自由奔放に育てられた。
だが、何事も程度が肝心だろう。自主自立を重んじるアメリカならともかく、ここは礼儀と忠節を尊ぶ日出る国なのだ。
「まあでも、詰めが甘いとこがお兄ちゃんらしいよね。けっきょく、連絡先はおろか名前すら聞き出せないんだもん。ほーんとなまっちょろいんだから!」
『なまっちょろい』の意味はわからないが、おそらくやり方が甘いとか、厳しさに欠ける様を表す形容詞なのだろう。それはまったくそのとおりで、俺は人生最大の好機を逸したのかもしれない。
だが、それもしょうがない。いままで一度も、まともに女の子と話したことがなかったのだから。経験値〇の身からすると、まだよくやったほうだと思う。
それにもう、『ホッシー』のことは忘れるべきだ。自業自得とはいえ、彼女の存在が俺の人生の一面をおかしくさせていたのは事実なわけで。
うん、そうだ。これできれいさっぱり、忘れられることだろう。未練たらたらでいるのは女々しいし、再来週には高校受験が控えている。いつまでも、『過去の女』にこだわっているわけにはいかない。
そう思わないと、やってられないし……。




