一七
草木も眠る丑三つどき。
水墨画のような濃淡のある夜空が頭上に広がっている。昨日の午後から天気はご機嫌斜めだった。わだかまる雲の間から、うっすらと月明かりが差し込んでいる。まばらに散らばる外灯の光が、真っ黒な影を地面に投げかけていた。
ひんやりとした冷気を頬に感じながら、ポール式の噴水を横目に歩を進めていく。よくある下から水流が噴き出すタイプではなく、円柱の先端から霧が放出されるめずらしい造りの噴水だった。ただしいまは深夜なので、稼動していない。
舗装された園路を斜めに横切ると、円周五〇〇メートルの円形広場に差しかかる。芝生が敷き詰められた広大な広場で、ところどころに樹木が植えられている。
人影を認めると、俺は早歩きになり、やがて小走りになった。スニーカーの靴底が、芝生を踏む柔らかな音を立てる。ときおり耳にする車の走行音を除き、ほかには物音ひとつしない。
そして、俺はふたたび『地獄の夜叉姫』と対峙した。
髪型こそチリチリパーマヘアではないが、ほかはなにひとつあのときと変わらなかった。スカートが長丈のセーラー服に、口を覆い隠すマスク。立位姿勢で、腰に模造刀を提げている。
「どうして、そんな格好を……?」
俺は二メートル先にたたずむ南風さんに声をかけた。
「これは……決闘に臨む際に身にまとう、あたいの礼服なのさ」
「け、決闘だって……!?」
今日……いや、すでに昨日の放課後、俺は下足箱に一通の書状が入っているのを見つけた。
折巻紙というやつで、スピーチのカンペで使うような紙に、墨文字で『明くる日の午前三時 武蔵国分寺公園の円形広場で待つ 南風姫香』としたためられていたのだ。
「正体を知られたからには、こうするしかないだろう。あたいが消えるか、あんたが消えるか、さ。決闘に敗れたほうが学校を去るというわけだ」
「ちょ、ちょっと待て! なんでそうなるんだよ!? そりゃ、俺はあんた……いや、君のことを別人だと思っていたけどさ。でも、知っているのは俺と美樹原だけで、全校生徒にバレたわけじゃないんだぞ?」
「強さに似合わず、ほんとあんたは甘ちゃんなんだな。ひとりに知られれば、全員に知られたも同然さ。それにあたいたちは、とある界隈では有名人なんだ。そんな人間がふたり、しかも同じクラスにいて、いつまでも隠しおおせると思うのか?」
「そ、それで必死こいて別人になろうとしたんだろう? あんな不慮の事故で、いままでの努力を台無しにするつもりか?」
クックッ、と自嘲めいた笑い声が響く。
「はなから無理だったのさ。こんなはすっぱなあたいが、生まれ変わろうとするなんてさ。でも、あたいはどうしても……まっとうな女にならなくちゃならないんだ。そのために、あんたは邪魔なのさ。そばにいられると危険すぎる」
「そんな勝手な……俺が君の正体をさらすとでも?」
「そういう可能性だって、なくはない。目的のために手段を選ばないやつは、この世にゴマンといる」
「お、俺が君を脅迫するって言うのか!?」
情けないことに、じわっと涙があふれそうになった。いちばん気になる女の子から、邪魔者扱いされてしまったのだ。傷つかないわけがない。
「な、なんて顔するのさ……男だろ! シャキッとしろよ! それにあんたは、あたしに恨みがあって当然じゃないか。ずっと……だましていたんだから」
「俺はそんな風に思ってない!」
公園中に響き渡るような大声で、俺は言い放った。
すると、南風さんはきつくまぶたを閉じながら、大きくかぶりを振った。マスクのせいで表情の全体像は見えないが、なにかとてもつらく、悲しそうな顔をしているように見える。
込み上げてくる感情を抑えつけ、迷いを振り捨てようとしているような。
視線を合わさぬまま、南風さんは吐き捨てるような口調で、一方的な宣戦布告を発する。
「『両雄並び立たず』という言葉を知ってるかい? あたいたちは、同じ星のもとに立つことが許されぬ運命なのさ。問答無用……その気がないなら、その気にさせてやるまでだ!」
携刀姿勢で一礼すると、南風さんは右手を柄に添える。
大きく左足を後方に引くと同時に、刀身が|鞘から抜き上げられ、身体の中心線――正中線上まで持ち上げられたところで、振り上げられた左手が柄を握る。
会話中、すでに間合いを見切っていたのだろう。
いつか見たように、一切の動きがよどみなく、軽やかだった。
そのくせ、ビリビリと身体が震えるほどの気魄が伝わってくる。
「せやあああああああああっ!!!!!!!」
裂帛の気合が空気を震動させ、一刀のもとに切り伏せてくる。
が、俺は小指一本動かさぬまま、その場に立ちつくしていた。
白刃が頭頂部を打ち砕こうとする寸前まで、まばたきひとつしない。
「くっ! ……なぜ、よけない?」
接触まで三ミリの距離を残したところで、ピタッと刀が静止した。
「最初から負けるつもりだったんだろ?」
振り下ろしの姿勢のまま、南風さんはピクリとこめかみを動かす。
「気合こそすさまじかったが、殺気がなかった。前に戦ったときは、なにがなんでも勝つという執念があった。でも、いまの君は……そんな人に手は上げられないし、そもそも俺は戦うつもりはない。なぜなら……」
眼前にある抜き身は細かく震えていた。
「俺は南風さんが……す、好きだから」
うっ、とうめいたあと、南風さんはさっと後じさった。小指、薬指、中指、人差し指、と順繰りに柄に添えられていた指が離れていき、ポトリと模造刀が地面に落ちた。
突然の愛の告白に動揺を示し、頭のてっぺんから爪先までブルブル打ち震えている。
海面に漂う流木のように感情が行き場を見失い、完璧に戦意喪失していた。
心がグラついているように見えなくもない。
さては、南風さんも俺のことを……?
「ふ……ふふふふふふふふざけんな! この鳥頭野郎!」
だが、淡い期待はあっさりと打ち砕かれた。
「よくもそんなことが言えたもんだ……前の一騎打ちのとき、あんたはあたいになんと言った? 『俺の趣味じゃないから』って、はっきり告げられたんだぞ? 人の乙女心を踏みにじりやがって! ただでさえ、ナイーブな時期だったのに。そうだ、あの一言であたいは精神的に動揺して、本来の力が出せなかったんだ。あんな敗北、あたいは認めない! もう一度あの時点に戻って、やり直しを要求する!」
「うっ……そ、それは、だって、あのときはまさか、君があんな風になるとは……」
まさかあの発言が、そこまで尾を引いていたなんて……。
まさに、『口は災いのもと』だった。
「あんなしょっぱい演技に化かされやがって! あんたの目は節穴か? なにがお嬢様だ! あたいみたいなやつが、お嬢様なんかになれるもんか!」
「実際、なれていたじゃないか……それに俺だって、死ぬ気で変わろうとしたんだ。そもそも、俺は不良なんかじゃなかったんだ。誘われてしかたなく、その真似事をしていただけで。昔から平和主義者だし、非戦非暴力のガンジー主義者なんだ。だから、本当は居心地が悪くてしょうがなかった。それに不良じみた無愛想キャラになったせいで、中学じゃ友達がいないどころか、口をきく人間すらいなかったしな。それもあって、不退転の覚悟で変身しようとしたんだ……」
俺の打ち明け話を、南風さんは黙然と聞いていた。
「で、そこへ同じく、変身した君が現れて。そうだ。俺たちは似た者同士なんだよ? 同士として、一緒に青春をやり直さないか? 似たような経験をしてきたんだろうし、きっとわかり合えることがたくさんあるはずさ」
「ヘッ……なぁにが『青春をやり直さないか』、だ! 鳥肌が立つぜ! 負け犬同士、ペロペロ傷の舐め合いをしようってのかい? だいたい、人がそう簡単に変われるもんか。ゲームじゃあるまいし、コンティニューなんてできないんだよ! あたいのお嬢様キャラなんて、ぜんぶハリボテの、作り物だったのにさ……」
出し抜けに南風さんはいちばん近くにある植樹のもとへ駆けていき、根元にしゃがんでなにやらごそごそしたのち、一冊のハードカバーを抱えて戻ってくる。
差し出された書籍の表紙には、『お嬢様になるための一〇〇のレッスン 増補版』とでかでかと題名が印刷されていた。
著者名、武者小路えり。タイトルの下には、和服姿の涼やかな女性が淡いタッチで描かれ、下端に巻かれた帯には『宮内庁推薦! これさえ読めば、みるみるあなたも高貴な女性に!』と本気か冗談か判別しがたいキャッチコピーが記されている。
「姿勢も話し方も、服装も、なにもかも……そう、なにもかも、馬鹿のひとつ覚えみたいに、この本に書かれていたとおりにやっていたのさ。お嬢様らしくなるために。言葉に詰まったときは、虎の巻的に使ったこともあった。それでも不安なときは、その日に口にしそうな台詞を自分で作って、丸暗記したりもした。とにかく、ボロが出るのが怖かったからね。これでわかっただろう? あたいが、とんだニセモノだってことがさ」
台詞の途中で、はっと思い出した。まだ肌寒い二月、お嬢様となって南風さんが『緑雨』に現れた日のことを。
彼女は着席したのち、ひたすら読書に熱中していた。そして姉小路と一緒に訪れたときも、しきりに膝元に置かれた書籍のページに視線を落としていた。
「そ、そうだったのか……」
これで不自然な挙動の謎は解けた。
「ま、あんたはお人好しなんだろうね。一度出会っているのに、一向に思い出さないなんてさ。こっちは、最初から気づいていたのに……」
「さ、最初から!?」
「そうさ。あの喫茶店で会ったときから、バレバレだったよ」
「なんてこった……」
そんな事情は露知らず、俺はひとりで胸をドキドキさせていたのだ……。
「ひとつだけ聞かせてくれ。なら、君はお嬢様になろうとしている自分がきらいだったのか?」
「えっ……?」
「そりゃあ、いろいろ大変だったんだろうけど……すくなくとも俺には、そう見えなかった。いやいやながらで、あんな本物らしく振る舞えるとはとても思えない。俺の目が節穴だとしてもだ……で、その、俺はそんな南風さんが好きになった。それって、悪いことなのかな?」
「な、なにを……あ、あれは、あたしじゃない!」
「じゃあ、質問を変えよう。君は俺のことをどう思っているんだ?」
南風さんはぐっと息を呑み、手に持ったハードカバーをきつく握る。悪寒がしたように身体が震えおののき、瞳の焦点がぼやけていく。
それでもなんとか、引きはがすように唇を開き。
「あ、あんたなんか……だいっっっっっっっっっっっきらい!!!!!!!!!!!!!!!」
「そ、そんな……」
すうっと血の気が引いた俺は、まるで地面が消失したように両足をフラつかせた。
よろけ、倒れそうになる俺を尻目に、南風さんは樹の根方に置いてあった通学かばんをつかみ、北西の方角へ駆け出した。
そして、その後姿が見えなくなったところで、俺はガクリと膝をついた。
すぐ目の前で、芝草に埋もれる刃が淡く月光を反射している。
涙すら出ないほどの壮絶な撃沈だった。




