一〇
空は高く、どこまでも澄み渡っている。
通学路をとぼとぼ歩きながら、俺は何度となく上空を見上げた。スカイブルーが目に沁みて、涙腺がゆるみそうになる。
「かといって、いつまでも憂鬱じゃいられない……」
心は落ち込んでいたが、折れるところまではいかなかった。
よく『健全な精神は健全な肉体に宿る』などと言われるが、ありゃ絶対に嘘だ。だったらなぜ、健康優良児を通り越して傭兵予備軍の域にまで鍛えられた俺が打たれ弱いのか。
蛇のようにうねうねとカーブする坂道を歩きながら、俺はふと後方を振り返った。俺が通うことになった高校は高台のてっぺんに位置するため、見晴らしが抜群によかった。
夜の屋上では、ライトアップされた町並みが一望できるらしい。
「きっと、夏はカップルが忍び込んだりするんだろうな……」
「おはようございます」
「はい?」
瞳の焦点が結ばれた瞬間、俺は気を失いそうになった。
「今朝はたいそうあたたかで、過ごしやすい一日になりそうですわね」
目尻がほんのわずか下がり、唇の口角がきゅっと引き上げられた、完璧な微笑だった。砕けすぎていず、かといってよそよそしさは微塵もない。見る者の心を一瞬でほぐし、副交感神経を活性化してリラックスさせてしまう。
坂の中途でふたり、立ちつくしていると、両側を幾人もの制服姿の男女が通りすぎていった。
まるで映画の一シーンにいるようだ、と錯覚するのは、目の前にいる南風さんが比類なきお嬢様だからだろう。
「……どうなされました?」
はっとした俺は、極力平静を装いながら、身体の向きを反転させる。
「い、いえ、なんでもありません。あ……それと、おはようございます」
横に並んで、ゆっくりと歩き出す。
「ふふっ。ずいぶん、間の空いたおはようございますですわね。なにか考え事でもしていらっしゃったのかしら?」
「あ……はい。ちょっと……」
口が裂けても、『あなたに見とれていたのです』などとは言えない。
その後しばらく、沈黙が続いた。
なんとか会話の糸口を見いだそうとするが、頭のなかであれでもないこれでもないと堂々めぐりしてしまう。どんな話題を振っても、場違いになりそうな恐怖心がある。
「あの、昨日は失礼いたしました。突然お訪ねして、ご迷惑ではなかったでしょうか?」
校舎まで残り一〇〇メートルを切ったところで、南風さんは昨日のことについて触れてきた。
「そんなことは……いや、ちょっと驚きましたけど」
「実はすこし、怖かったのです。わたくし、男性に誘われたのは初めての経験でしたので。あの方……姉小路様は、たいそう世慣れた方のように見受けられましたから」
「じゃあ、南風さんがあの店に連れて行ったんですか?」
「はい。知り合いのお方がいらっしゃるお店なら、安心できると思いましたので。それに鬼堂様は……感じのいいお方でいらっしゃりましたから」
ドクンッ、とひときわ激しく心臓が鳴った。『感じのいいお方』とは、どのような意味なのだろう?
ストレートに受け取れば、いい人っぽいから安心できる、程度の意味なんだろうが。でも、『いい人』ってあまり恋愛対象に含まれないよな……。
「あのあと、どこかへ行ったんですか?」
このタイミングを逃すわけにはいかない、と俺は昨夜からずっと脳内を占領していた疑問を口に出した。
「いいえ……帰る方向が反対でしたので、駅のホームでお別れいたしました。初めの印象と異なり、よくお気がつかれる方で……やはり、何事も見かけの印象で決めつけてはいけないと、心から反省いたしましたわ」
「そ、そうですか……いやまあ、なかなか強烈な男ですよね。美男子だし。黙っていても、ホイホイ女の子が寄ってきそうな……」
胸の動揺を押し隠しながら、俺は気力を振り絞って会話を続けようとした。
「さようでございますね。色白でいらして、女性のように美しいお顔立ちをしていらっしゃいますし。それに機知とユーモア、教養もおありになる。少々強引なところが玉に瑕ですが、それも個性のうちと思えば気にならないのではないでしょうか」
「で、ですよねえ……」
ほめ言葉のひとつひとつが弾丸となって、心臓を貫通していく。繊弱なハートは血まみれになり、みるみる傷口が広がっていく。戦場で蜂の巣にされた兵士のようだった。
血反吐ならぬ胃液が喉元に込み上げてきて、何度もえづきそうになる。
「よしっ! できたっ!」
意気消沈していると、唐突に南風さんが聞き慣れない声を出した。なぜかガッツポーズするように、右のこぶしを胸の前に突き出している。
「えっ……?」
「あ……ご、ごめんあそばせ! ……こ、心の声が、つい……どうかお気になさらないで。ホ、ホホホ……」
「はあ……」




