2.夫婦という契約
次に訪れた先は、それはそれは乙女心をくすぐる夢を体現した空間だった。
深紅の絨毯は湯たんぽのように足に馴染み、夕焼け色の照明が漆の艶あるインテリアを照らす。
すべてが一時の儚い歓楽を演出する芸術作品のようだ。
「ここは?」
「カフェーだ。甘味もあるぞ」
甘味を主とする食事処のようだ。
メニューの読めずに困惑していると、深琴は嫌な顔一つせずに教えてくれる。
皮肉にもここまでの道のりにおいて、深琴は基本的にやさしかった。
唇を無理やり奪うような輩でなければ私も絆されていたかもしれない。
(コイツ、ムカつくのよ。最低野郎のくせに見目だけはいいんだもの)
つくづく皮肉なことに、見た目だけは悪くない。
口ぶりは軟派野郎だが、所々で品のある佇まいを見せる。
つまりのところ、許せない存在ではあるが見た目の良さだけは認めようというわけだ。
最初は化け物のように見えていたが、さすがに接し慣れてくると本来の深琴の笑顔も視界に入るようになった。
(でも許さないから。……あんなの、キモチワルイ)
唇を奪うとは乙女をバカにしている。
冷静に考える必要がないほどに、人への冒涜だ。
男女関係なく、尊厳の破壊をされても会話をしてあげているだけ感謝してほしい。
私にとって乙女の生き方は大事なこと。
恋も触れあいも、語らいも。
唇を通して行う憧れが、目を覚ましたあの一瞬で壊れてしまった。
テーブル越しに向き合った深琴を睨みつけてみると、穏やかな微笑みが返ってきたので腹立たしくなって殴りたくなった。
「お待たせいたしました。ホットケーキです」
店員が運んできたのは、この時代でもお目にかかるのが貴重な甘味だ。
白くてふわふわの小麦生地に、添えられたバターとハチミツをかけて食べるらしい。
かわいい見た目なのに品よく食べるのは難しく、銀色のフォークとナイフに苦戦して平な皿が金切り声をあげた。
周りの視線を気にしながらもなんとか不格好に切り分け、バターをつけて一口。
ハチミツをかければまさに“幸せの味”が口の中に広がった。
「うまいか?」
ホットケーキを頬袋に詰め込み、内側からくる歓喜に笑窪が浮いた。
首がもげる勢いで頷くと、ホットケーキが喉の奥に流れ込んでむせてしまった。
水で口をスッキリさせた後も、病みつきになるホットケーキをいち早く平らげたくて仕方ない。
「美味しい。すごく美味しくてビックリした」
「それはよかった。かわいい嫁さんに喜んでもらえるならオレも満足だ」
サラッと誉め言葉が飛んできて、不意打ちを喰らって私は慌ててホットケーキを口に放り込む。
着替えたときは何も言わなかったくせに、どうでもいい時はヘラヘラしている。
意味がわからない。
接吻で蹂躙してくるような人なのに、言葉の端々まで甘ったるく、棘なんて一つも感じられなかった。
「ほら、穂乃花。これも食べな」
唇に押し付けられたのは深琴の食べる甘味に乗っていた赤い宝石のような果実だ。
甘味はあんみつ、果実はさくらんぼと呼ぶらしい。
ちょうど口づけのことを考えていたため、唇に果実を押しつけられるとその時のことが頭に過って悔しくなる。
「いって!」
憂さ晴らしだと深琴の指に噛みつき、獣のように果実を奪い取った。
これくらい仕返しをしてもいいだろうと調子を良くしていると、口の中で甘酸っぱさが破裂する。
初接吻もこれくらいの味がすればよかったのに、と後から虚しさが襲いかかる結果に終わった。
「さて、穂乃花。これから夫婦円満にやっていくためにも、まずはお互いのことを話していこうじゃねぇか」
「はあ?」
すでに関係は崩壊しておりますが、と言いたいところだがここは耐える。
いずれにせよ、今後を考えたときに深琴の狙いを知らなくては進もうに進めない。
私が一人で行動すればいいだけの話だが、それでは守里に迷惑をかけてしまう。
(これは妥協。女の身を守るにはある程度盾になる存在が必要……。なんでこんな危険な奴が盾なの……)
何度考えても悲劇だ。
一番私の貞操を危うくする相手を盾にするしかないなんて、それこそどこかの狭間に逃げ隠れてしまいたい。
すべてが終わったら手頃な岩場を見つけて眠ろう。
誰にも邪魔されない穂乃花だけの楽園。
夫婦という縛りさえも拒絶できる静かな場所へ行きたい。
この世で生きている限り、私は夫婦という契約が科せられてしまったのだから。




