8.失いたくない人
♡♡♡ 八 ♡♡♡
おでこにひんやりとした重みが触れる。
木の葉と濡れた土が混ざり合った木葉沓の香り。
ゆっくりと瞼を上げると、見覚えのある木目に意識がはっきりとして急いで起きあがった。
「ほのちゃんっ!」
「ぐえっ!」
腹の上にドスンと重さがのしかかる。
ずいぶん身体が悲鳴を上げていたようで、植実が乗っかってきたことでトドメをさされた。
「うああああん! やっとほのちゃん起きたのら~!」
(よかった。植実ちゃん、無事だった……)
気を失う直前まで視界に入っていた植実は息しているのかさえわからないほど、ぐったりしていた。
今はちゃんと泥も拭われ、金木犀の甘く胸を満たす香りが鼻をくすぐった。
「目が覚めたのね、穂乃花ちゃん」
「育葉ちゃん……!」
布団に手をついて身体を前のめりにしようとすると、育葉の手が制止する。
温めたばかりの湯に布を浸し、髪の毛が張り付く頬を拭ってくれた。
「夢を見たの。夏生の直観も働いて、これは急がないといけないって思ったのよ」
育葉が丁寧に話してくれることで、状況が気になりだしてあたりを見回すと、隣で深琴が眠っていた。
ちゃんと胸の起伏があると、安堵の息を吐く。
そして私にしがみついてぐずる植実の頭を撫でながら育葉に視線を戻した。
「珀斗が力を貸してくれたのよ」
あの珀斗が助けてくれたのは意外だった。
いかにも育葉以外興味ありませんといった冷めた目をしていたから。
深琴に言わせれば「嫁さんの頼みは叶えてやりたいもんだ」というものだろう。
「ありがとう! 助けてくれてありがとぉ……!」
一気に魂に刻まれたドロドロの腐った醜さが飲み込んでくる。
千種を思い出すと、何も気づけなかった自分の愚かさに吐き気が襲いかかってきた。
今まで何度も自己嫌悪してきたが、これほど肌をかきむしりたいと思ったことはない。
見える景色はどんどん崩れていき、絢芽と深琴は深手を負ってしまった。
襲いかかる血の塊も、雷のごう音も、雨でぬかるんだ足元も、すべてが呼吸を浅くした。
バタバタバタ……!
山小屋の外から慌ただしい音がして、派手に扉が開く。
「穂乃花ぁ! 目を覚ましたかぁ!?」
「ぐえっ……!」
夏生が特攻してきて、圧迫感に乙女の欠片もない声が出る。
「夏生。穂乃花ちゃんを窒息死させる気?」
「あ。ごめんごめん、つい……」
育葉に頭を叩かれ、ようやく夏生は慌てて身を引く。
能天気に笑っているように見えるが、本気で心配してくれたのは伝わってくる。
そうでなければあれほど危険な場所に駆けつけてくれるはずがない。
何度も姉妹に救われて胸がいっぱいになっている。
どれだけ私が罪を犯しても抱きしめてくれる人がいることに、幸せを噛みしめた。
だが今は考えるべきことがある。
助けたい姉妹がいるから。
「絢芽ちゃんと八恵ちゃんは? 怪我してるはず……」
「絢芽ちゃんはもうピンピンしているよ。今、外で腹筋しているの」
良い発声とパワーは腹筋から。
強いポリシーを掲げる絢芽が無表情に筋肉トレーニングをしているのを想像し、つい笑みを零してしまう。
絢芽のいつも通りは非常時に心強い。
「八恵は……。あー……。まぁ、うん」
目を逸らす夏生に私は布団をめくって外へ飛び出そうとする。
「八恵ちゃんなら大丈夫。珀斗に見てもらっているから」
育葉に止められ足を止める。
「珀斗さんに?」
「あれ見ているっていうのかぁ? あんなのただの威圧……」
「夏生、おだまり」
ピリッとした空気に夏生は肩を浮かせる。
そそくさと植実を抱きあげて部屋の隅に避難していった。
圧倒的に主導権をもつのは育葉だ。
(育葉ちゃん、手厳しいからなぁ)
薬湯を無理やり飲まされたあの舌を突き出したくなる味を思い出し、うっと腹を抑え込んだ。
「絢芽ちゃんから聞いたけど、千種ねぇは操られていたってことね」
「……うん。どうして千種ねぇが八ツ俣なんかに……」
「アイツは卑怯者だ! アタシらが邪魔だからって千種ねぇに人柱が必要だと言わせたってことじゃん!」
「そうね。八ツ俣……許せないわ。私たちの千種ねぇを……!」
八ツ俣へ激しい怒りを抱いているのは私だけではない。
全員が千種を取り戻したい気持ちを持っており、今は悔しさを抑え込んでここにいる。
「あれからどれくらい経ったの?」
「丸一日よ。村人の避難を優先させて、ようやく一息ついたところ」
人命を優先するのは巫女として当然だ。
暁月村は壊滅し、復興するのは難しいだろう。
あれほど胸を焦がした黄金のだんだん畑ももう戻らないんだ。
「穂乃花ちゃんが目を覚ましてよかった。深琴くんはひどいケガをしているし」
足元のぬかるみが深琴をとらえた。
その時、一体何を――。
毛穴からどっと汗が噴き出す。
一瞬で脱水症状を起こしたみたいに疲労感が襲いかかる。
(深琴! 深琴……!)
これはただ眠っているだけではないかもしれない。
どうしようもなく顔に熱が集中して、救われたい気持ちで深琴の胸に耳を押しあてる。
呼吸は正常、心拍数も問題なし。
だが体温が少し低いような気がし、息が詰まりそうで深琴の肩を揺さぶった。
「深琴、起きて。私、無事だったよ。だから深琴も起きて」
どうして反応がないの?
驚かせようとしているなら性質がわるい。
いつもならくすぐったく笑って、真っ先に抱きしめて、馬鹿みたいに愛を語ってくるのに。
「夫だから」とはにかんでくれる唇が青ざめていた。
「からかうにしてはひどいよ。こういうのは好きじゃないんだから」
こんな身の切られるような想いは嫌だ。
世界が粉々になるみたい。
いや、勘違いではないだろう。
狭間に引きずり込むなんて、絶望の引力以外何でもないのだから。
「なんで……やだ、深琴。起きてよぉ」
手を握りしめても冷たさが消えてくれない。
太陽のようなまぶしさで笑ってよ。
私のことを「嫁さんだ」とからかってくる顔が見たい。
いつも前向きで明るい人なのに、肌の冷たさからは暗闇しか感じられなかった。
「悪夢かもしれない」
育葉の言葉に振り返ると、スッと手が伸びてきて私の熱くなった頬を撫でる。
「他の人がどんな夢を見ているかはわからない。でも悪夢の怖さはよくわかるの」
それが最悪の事態を示していることは理解できた。
「そんなのやだ! どうすれば……どうすれば助かるの!?」
「おい、穂乃花!」
あまりの乱れ方に夏生が止めにかかるが、我を忘れて薙ぎ払ってしまう。
とりとめなく大粒の涙がぽたぽたと落ち、頬に触れてようやく心の穴に気づいた。
(深琴がそばにいてくれたから、意地でも前に進めたんだ)
一人では罪悪感に苛まれていたであろう旅。
あの憎たらしい一途さが私の気を紛らわせてくれていた。
こんな今更になって、たくさんの笑顔が私の中に熱を灯す。
許せない反面、たしかに救われていたことがあった――。




