2.おはよう、オレの嫁さん
♡♡♡ 二 ♡♡♡
次に意識が浮上したのは山を下った人里だった。
身なりを整えてもらった状態で目を覚ますと、隣で顔を覗き込みながら横になる“あの男”がいた。
「おはよ、オレの嫁さん」
「ひぃ! ああああムリッ! ムリムリムリーッ!!」
吐きそう。
目の玉が飛び出そうなくらい顔に血が凝縮して圧迫されそうだ。
口の中がまた、濁った液体に満たされていく。
勘弁してくれと泣き叫びたくなっていると、目の前に透明の器に入った水が寄せられた。
「とりあえずもうチューはしねぇよ。水、飲みな」
そんな怪しいもの、飲めるはずがない。
どんなに喉が渇いていようが明らかに乙女の敵である男の手渡すものなんかごめんだ。
そうして歯を食いしばって睨みつけていると、男は困り果てて思考した結果、一口水を飲んで安全なことを証明しようとした。
……余計に飲めない。
男の成分が混じったものなんか体内に取り込めばもっと汚染される。
「飲まないとチューして飲ませるぞ」
そう言って唇を寄せてくる男に、地獄の選択を迫られる。
これ以上、直接毒を流し込まれるよりは薄まったものの方がマシだ。
男を突き飛ばすと水を喉に流し込み、潤いを得ると同時に大切な何かをまた失った気がした。
「で、オレの嫁さん。名前は何ていうんだい?」
「はあ?」
男の手がスッと伸びてきて、赤茶色の髪が指に絡む。
瑠璃色の瞳に映る自分がまるで知らない人と錯覚するほどに、弱々しい小娘に見えた。
「ちなみにオレは深琴ってんだ。呼び捨てでもいいし、旦那様って呼ぶのもありだぜ」
キモチワル! 何を阿呆なことを言っているんだ!
そもそも嫁と言っておきながら相手の名前も知らないとか頭が狂っている。
(言うもんか。絶対に言ったりなんか……)
「あらぁ、穂乃花ちゃん。目を覚ましたのねぇ」
気の抜けるほんわかとした声。
聞き馴染みのある声にハッとして顔を上げると、襖を開いた先に懐かしい人がいた。
「まって……守里ちゃん!?」
「久しぶりねぇ、穂乃花ちゃん。無事でよかったわぁ」
「うっ……守里ちゃ……。守里ちゃーん!」
布団から飛び出して小柄で色白の姉・守里に飛びつく。
「あらあら」と守里はくすぐったそうに笑い、泣きじゃくる穂乃花を受け止めた。
甘い乳白色の香り。
包まれていると微睡んでそのまま甘さに溶けたい願望さえ生まれてくる。
八人姉妹の六番目。
私の一つ上の姉が目の前にいた。
「守里ちゃん、いつ目を覚ましたの!? 私、どうやって守里ちゃんのところに……」
「深琴くんが連れてきてくれたのよ~」
守里が指し示したのは、極悪純潔強奪野郎もとい深琴だ。
へらっと笑いながらうんうんと頷く深琴に、私はますますイラっとして畳に拳を打ち付ける。
「なんであんたが守里ちゃんの所にいるのよ。守里ちゃんに姿を見せるな汚らわしい」
「落ち着けって。声をかけてきたのはそちらのお姉様からだって」
「……守里ちゃんから?」
訝しげに守里を見ると、守里は微笑ましそうにしながら認めた。
「占いでね。穂乃花ちゃんたちが来るの、見えたのよ」
「だからってなんでこんな奴……」
「穂乃花ちゃん怒ってるわねぇ。でもこの人、悪意なんてなさそうだからぁ」
守里にそう言われてしまうとウッとたじろいでしまう。
守里は昔から人の真意に敏感だ。
加えて占いを得意とし、その人の内面まで見透かすところがあった。
つまり、唇は奪ってきたが悪気があってしたわけではない。
心から私を「嫁」と思ってした行為というわけだ。
だからといって許されることでもないが、守里に言われてしまうと私は燃焼しきれずにいた。
「守里姉さんから聞いた。穂乃花、勾玉を探してんだろ? だったらオレもそうだし、このまま一緒に旅しようぜ」
「は? 何言ってんの。するわけないでしょ! ――ねぇ、守里ちゃん! コイツ何なの! いきなり私のこと嫁とか言ってきたんだけど」
守里なら何かわかるかもしれない。
目を覚ましてから何が起きているかさっぱり把握できず、振り回されっぱなしだ。
本来の目的である勾玉探しのことも一切考えられていない。
一番に考えるべきは務めを果たすことなのに、さっそく迷惑をかけたくない姉を巻き込んで胸が苦しくて仕方なかった。
「それは穂乃花ちゃんがこの先選ぶことだからね。今、占ったとしても未来は変動するものよ」
「そうだけど……」
煮え切らない。
何故、初対面相手に貞操を奪われて嫁とならなくてはならないのか。
よりによってこんな軟派そうな奴とは、私が一番嫌悪するタイプではないか!
(やっぱり嫌だああああ!)
さめざめと守里に泣き縋るも、まったくこの悲痛さは伝わらない。
どうして守里までこの男を受け入れているんだ。
理不尽だ。
だが純潔を奪われた以上、私に選択肢はない。
はじめて唇を重ねた者と添い遂げる――それが私の価値観であり、常識だった。
長い時の流れで価値観が流動していることなんぞいざ知らず。
不服ながらも嫁入りしてしまった現実に嘆くしかなかった。




