〈9〉声
先週は後味の悪い麻衣子のビートファイトだった。
信也は自分が怒られているのでは、と思っていた。それでも信也は今夜もまた麻衣子のビートファイトに参加するため青葉スポーツセンターに向かった。
〈残り四回、怒られたって俺は行くぞ。楽しむぞ〉
信也はスタジオに入ったがレッスン開始の時間が近づいても加藤の姿がなかった。
もしかして欠席?
どうしていないんだろう。
仕事が忙しいのか?
それとも常連の加藤は麻衣子とも親しく話が出来る。加藤が自分で俺にクレームを言ったことを小倉さんに言ったのか?
先週、キレたのは俺ではなく加藤にキレていたのか?
信也は考えを巡らせたが参加者の誰とも会話のない信也には分からなかった。
分かっていることは今夜は加藤がいないということだ。
〈そうか、いないのか……なら久しぶりに声、出そうかな……〉
麻衣子の挨拶と共にビートファイトが始まった。
信也と他の参加者も黙々と麻衣子の指示する動きに真似た。スタジオで声を出しているのはインストラクタ―の麻衣子だけ。
麻衣子は先週のようにキレることもなく普通に動きの指示を出していた。
信也は思わず、「えぃ!」とスタジオ中に響く大きな声を出した。
その声を聞いた前列にいる永島裕子の笑顔が鏡に映った。
笑っているのは永島裕子だけじゃない。
四メートルほど離れていても、麻衣子は口元に笑みを湛え、頬が盛り上がっているのが見えた。
小倉さんも笑ってる?
〈別に俺が声を出すのを嫌っているわけじゃない。嫌っていたのはあいつだけか?〉
信也はまた「えぃ!」と声を出す。
その声に誰も呼応する者はいない。
別に信也の声を嫌っているような人はいないように見えた。
〈久しぶりに楽しませてもらうぞ〉
信也は「えぃ!」と声を出し続けた。
鏡に永島裕子の笑顔が写る。
麻衣子も、微笑んでいるのか頬がぷくっと盛り上がっているように見える。
スタジオで声を出すのは麻衣子の動きを指示する声と信也の「えぃ!」という気合の声だけだった。
燃えた……
麻衣子も先週のようにキレることはなかった。
信也は久しぶりに声を出しながら動いたせいか、いつも以上に気合が入り、頭の先からつま先までびっしょり汗で濡れた。
頭の中は空っぽでストレスなんて微塵もない。心地よい脱力感だけが残った。
更衣室まで歩いていくとロビーで麻衣子を待っている萩がいた。
萩は更衣室に向かう信也を見るなり声をかけてきた。
「声、出しましたね」
「はい、出しました。楽しませていただきました」
「そうですか」
「俺、四月に実家に戻るんです。だから小倉さんのビートファイトを受けられるのは今月だけなんです」
「ご実家に戻るんですか⁉」
「ええ。実家に戻ったら、とてもここには通えません。何せ、ここまで片道四十キロですから」
「そうですか、それは残念ですね」
「だから、もう声、出しちゃおうかな、と思って」
そういって萩と別れ、信也は更衣室に向かった。
萩の顔から笑みが零れた。
萩は麻衣子が来るのを待った。




