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〈8〉麻衣子、キレる

インストラクターにも引退の時は来る。

信也は今まで何度かその場に出会ったことがあった。

実家の家業を継ぐために引退したり、寿引退したり。

特にフリーランスの男性インストラクタ―は若いうちは出来ても将来のことを考えるとインストラクターで家族を養っていくのは収入面で中々難しく、インストラクターを辞めて会社員に転職する人も少なくない。

それにインストラクターは身体が資本だけに身体を崩せば自ずと辞めざるを得ない。そうでなくとも年齢的に引退の時は来る。

プロスポーツ選手と何ら変わりはないのだ。

信也は思った。

俺も今年で五十六。いろんな意味で、実家に戻るのは正解なのかもしれない。これが良い引き際なのかもしれない。

小倉さんのビートファイトは好きだが、小倉さんにもいつか引退の時が来る。

俺も自分の人生を考えなければいけない。

生きてる限り、人生の引退はないんだ。

それにしても何なんだろう。この心に押し寄せる虚無感は……。

でも、信也にはその虚無感の正体は分かっていた。

いつ頃からだろう。彼女のビートファイトの選曲が好きだったのが、いつしか、この選曲をする彼女のことが好きになっていったのは。

信也は人妻である麻衣子を好きになっている自分がいることをはっきりと分かっていた。

そう、信也は実家に戻れば麻衣子に会えなくなることが辛かったのだ。

たとえビートファイトで会えたとしても、ただ会えるだけ。決して進展しない関係。進展したところで、信也には何も与えられはしない。

信也はそのことに、激しいジレンマを抱えていた。

そして、それが信也を覆う虚無感の正体であることに、信也は薄々気づいていた。

「実家に戻っても、親父とは一緒に住めないが、老人ホームから母の墓参りに連れて行くことは出来る。それは良いことだ。俺が親父に出来る親孝行といえばそれぐらいだ。そして、今度こそちゃんと人生をやり直そう。幸せを探そう」

信也は実家に帰ることが前向きになるよう、自分に言い聞かせた。

実家に戻れば強制的に青葉スポーツセンターまで通うことなんて出来ない。たった一時間のために片道四十キロなんてありえない。

信也は瑞ケ丘ハウスエステートをあと一か月半で退職する。

その一か月半、麻衣子のビートファイトを楽しんで、それから実家に戻ろうと固く心に誓った。

信也は残り少ない麻衣子のビートファイトを楽しむために青葉スポーツセンターに行った。

青葉スポーツセンターで麻衣子のビートファイトの参加者、常連が信也に声をかけてくることは相変わらずなかった。

しかし、管理運営の責任者の岩城だけは信也を見ると声をかけてくる。

岩城は青葉スポーツセンターに配属されたことを左遷と思っているらしく、中高年とお年寄りだけの寄り合い所のようなスタジオレッスンを若者でいっぱいにしてやる。活力の溢れたスタジオにしてやる。ダブルエックスに実力をもって教えてやる、といつも口癖のように信也に言ってきていた。

「真島さん」岩城は通路で話しかけてきた。

「こんばんは」

信也の隣に信也と同じスタッフのポロシャツを着た女性が立っていた。

「どうですこの人」

「え?」

「こないだバイトで入った芹沢さんです」

岩城に紹介された女性は芹沢有里。とても若く綺麗な女性だった。

「どうも」芹沢は言った。

信也は会釈した。

「今、芹沢さんにインストラクタ―にならないかって声かけてるんですよ」

「まだ入ったばかりで、仕事も覚えてませんよ。岩城さんったら気が早いと思いませんか?」芹沢は笑顔で信也に尋ねてきた。

「さぁ、どうなのかな」

「芹沢さん。学生時代、バスケやってたっていうから、良いと思うんだけどな。第一華がある。ぜひこの青葉スポーツセンターの華になって欲しいんだ」

「華があるって、そんな若いだけで、壁の華になるかもしれませんよ」

「いやいや、そんなことない。ね、真島さん」

「いや、彼女が華になる前に、俺はもうここには来ないから」

「え、どうして?」

「いや、俺、四月に実家に帰るんだ。だからここに来るのもあと一か月ちょい」

「そうなんですか。いや、残念だなぁ」

信也は岩城と芹沢と別れ、スタジオに向かった。

麻衣子のビートファイトを受けられるのもあと五回。

四十人入るスタジオに参加者は十人、いつもの面子。永島裕子と加藤貴が前列に陣取り、信也はいつものように真ん中にいて、スタジオ後ろに萩がいる。

加藤にクレームを言われて、もう三か月は声を出していない。

インストラクターの麻衣子の声以外、声のないいつものビートファイトが始まった。

しかし、今夜だけは違った。

声を出しているのは麻衣子だけだったが、ビートファイトも終盤に差し掛かると、急に麻衣子がキレ気味に言った。

「違う! リズムが全然合ってない!」

一瞬、信也は麻衣子が誰に言っているのか分からなかった。

信也はスタジオの中央にいて、その四メートル先の正面に麻衣子がいる。

〈え、俺に言ってるの⁉〉

信也は自分が怒られている気がして、麻衣子から目を離さず、必死に動きを合わせた。

それでも麻衣子はキレ気味に言った。

「全然、リズムが合ってない!」

〈やけにキレるなぁ〉

信也には、なぜ麻衣子がキレているのか、誰に向かって言っているのか分からなかった。

〈そんな、スタジオエクササイズでキレることあるか?〉

こんな麻衣子さん、初めてだ。

今夜の麻衣子のビートファイトは、麻衣子がキレて終わり、どこか後味の悪いものになった。




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