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〈3〉実家

信也にとって週に一度の青葉スポーツセンターでの小倉麻衣子のビートファイトが今の人生で唯一の生き甲斐であり、楽しみになっていた。


瑞ケ丘ハウスエステートで営業助手として働き始めて五か月が過ぎた頃、信也の兄、秀一から電話があった。

「親父が老人ホームに入るといってきた」

それは信也にとって晴天の霹靂だった。

「老人ホームって、あの頑固おやじがよくそんなこと言いだしたな」

「一人で生きていく気力がなくなったらしい」

確かに親父は九十歳。妻を亡くしてからずっと一人暮らし。兄の秀一は遠いところにいる。近くにいるとすれば信也ぐらいだったが、それでも信也の住んでいるところから片道三十六キロはある。

「どうする? 親父が老人ホームに入ったら実家は空き家になるぞ。お前、住むか?」

「あの頑固おやじが老人ホームでうまくやれるか?」

「わからん。とりあえず来月から入ることになった。俺もその手続きで週末、実家に戻る」

「どうせ、老人ホームはあわん、とかいって戻って来るんじゃないのか?」

「とりあえず入居することになったから。お前が実家を使うのならそれでもいいし、使わないのならそれでもいい。お前にも都合があると思うから好きにすればいいよ」

「わかった。とりあえず、まず様子見るよ」

信也は秀一との電話を終えてから考えた。

〈あの頑固おやじが老人ホームに入る……〉

信也はなぜかショックを受けた。老人ホームに入ることなんて、考えたこともなかった。

だが、信也は自分が実家に戻り、親父と一緒に暮らすということはありえない。そもそも子供のころから父とそりが合わず、逃げるように実家を出たのだから一緒に住むという選択肢は毛頭考えられなかった。

〈どんな頑固で傲慢な人間も、孤独になり、歳を取れば、おのずと気力を失っていくということか……〉


信也は陰鬱な気分で会社に出社し、いつものように自転車に清掃道具を乗せて管理物件に向かい、清掃を行った。

信也は管理物件の清掃をしながら考えた。

そうか、実家に帰れば家賃を払わなくて済むのか……。

今の俺は月々の家賃を払うためにここにいるようなものだ。

不動産の仕事とはいえ、この仕事でとても人生を変える未来が待っているようには思えない。待っているのはシルバー人材養成所から立派なシルバー人材になる未来が待ってるだけだ。俺は人生を変えるために宅建士の資格を取ったのであって立派なシルバー人材になるために宅建士の資格を取ったんじゃない。

信也は実家が空き家になると聞いて、この会社で働く意味をまるっきり失っていた。

不動産会社といえば歩合制。沢山契約をとり頑張った分だけ給料もあがる。それがやりがいでもある。しかし、管理物件の清掃や物件の入居者の不具合の小間使いでは到底、高給取りになることはない。そんな仕事に高給を払う会社はない。

〈人生を変えるなんて夢のまた夢。手取りも二十万ではバイトとなんら変わりはない〉

信也の心は一気に瑞ケ丘ハウスエステートを辞める方向に傾いた。

〈この会社に何の未練もない。未練があるとしたら……〉

それは青葉スポーツセンターで行われている小倉麻衣子のビートファイトが受けられなくなること。

実家に戻れば青葉スポーツセンターに通うことは出来ない。片道四十キロ、車で二時間はかかるだろう。たった一時間のスタジオエクササイズのために実家から通う? あまりにも遠すぎるし現実的ではない。

信也にとって実家に戻ると、今の人生唯一の楽しみである小倉麻衣子のビートファイトが受けられなくなることだけが心残りだった。

〈まずは実家が本当に空き家になってしまうのか、それを見極めてからでもいい〉


信也は、週に一度の青葉スポーツセンターの小倉麻衣子のビートファイトに参加する。

麻衣子の選曲はビートファイト黎明期のバックナンバーと今ではどのスポーツジムでも味わえない選曲。

麻衣子は華奢で小柄だがスタミナとパワーを兼ね備えているのか軽快なフットワークで参加者にパンチ、キックの動きの指示を出す。

参加者は常連と信也で十人ほどといつもと変わらない。それでも信也は一人、スタジオの中央で「えぃ!」と気合の声を出す。その声に呼応する人はいない。声を出すのは信也だけ。それがおかしいのか前列にいる永島裕子のいつものように明るい笑顔が鏡越しに見えた。麻衣子もどこか微笑んでるようなに見える。

〈どんな嫌なことも、この瞬間だけは忘れさせてくれる〉

信也は一人、「えぃ!」と気合の声を出し続けた。




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