〈2〉レジェンド
〈ただ今日は写真を撮るだけ〉
信也はそんな軽い気持ちでビートファイトのスタジオエクササイズに参加した。
信也はエクササイズが始まる前にポーズをとってスマホでサッと写真を撮った。
エクササイズの開始時間が近づいているのにスタジオには十人ほどの参加者しかいない。しかもほぼ中年か信也より年上。四十人入るスタジオに十人。あまりにも少なすぎる。
スタジオの鏡張りの前の音響機材の上でスマホを操作しているインストラクタ―の女性がいた。華奢で小柄で年齢は四十代後半から五十代前半に見えた。
定刻時間が来るとインストラクタ―はみんなの前に向かって立った。
「それではビートファイトを始めます。宜しくお願いします」
参加者は会釈した。
曲が流れた。
信也は一曲目を聞いたとき、その曲が自分がビートファイトを始めたときに流れていた曲に驚いた。
〈この曲をやるのか! 懐かしいな〉
それからインストラクタ―は一時間、十曲のビートファイトをやった。
インストラクターの彼女の選曲に一曲一曲驚きをもって楽しんだ。
選曲があまりにも古く、おそらくビートファイトが始まった当初に使用していた曲が流れ、二十年やっている信也でさえ知らない曲もあった。
信也にとって予想もしなかった楽しい一時間になった。
〈凄い選曲だ。ビートファイトでこんな選曲する人、おそらく今いない。この選曲で参加者が十人なんてありえない!〉
エクササイズが終わり、スタジオを出たところに貼ってあるタイムスケジュールを見た。今夜のビートファイトの欄に小倉という名前が書いてあった。
信也は会社に言われて写真を撮りに来ただけだったのに、久しぶりにビートファイトを楽しみ、しかもそれが今のビートファイトのインストラクタ―ではありえない選曲に喜びを感じ、毎週通うきになった。
信也にとってビートファイトは精神的支柱といっても過言ではない。シナリオライターを目指していたとき、落選ショックを慰めてくれるのもビートファイトだった。「えぃ!」と気合の掛け声を出してストレスを解消していた。バイトで嫌なことがあってもビートファイトで声を出してストレスを解消していた。
信也にとってビートファイトはストレス解消であり、楽しみであり、なくてはならないものとなっていた。それが電気会社に勤務してやる時間が消え、しかも、最近のビートファイトは楽しむというよりも鍛えるという方向性が変わったのか、あまり面白いモノではなかった。
それだけに小倉が選曲するビートファイトは信也の心を一夜にして鷲掴みにした。
小倉の選曲はまさにレジェンド。
信也は家に帰ってから小倉のことを考え、ネットで調べた。小倉はSNSをやっていた。フリーランスのビートファイトのインストラクタ―であることが分かった。
名前も小倉麻衣子。
年齢や既婚者なのか未婚者なのかは分からない。
しかし、バイタリティがありストイックであることが分かった。ちょっと不思議ちゃんな面も小倉があげているSNSから垣間見れた。
プロのシナリオライターになる夢も閉ざされ、人生を変えるための宅建士の希望も失った信也にとって、週に一回、青葉スポーツセンターでやる小倉麻衣子のビートファイトが唯一の楽しみになっていった。
信也は小倉のビートファイトに通うようになり、ある日、「えい!」という掛け声を出した。しかし、周りの参加者は誰も掛け声を出さず黙々とやっていた。
信也はビートファイトの楽しいところは「えぃ!」と掛け声を出し、他の参加者もそれに呼応するかのように「えぃ」と合いの手を入れるところに楽しさがあり、何かお祭りのようで普段の日常では味わえない楽しさがあると思っていた。
今までビートファイトをやってきたスポーツジムや体育館ではいつもみんな気合の声を出して盛り上がっていた。
しかし、青葉スポーツセンターのビートファイトは声を出すのは信也だけだった。
信也は小倉のビートファイトが終わり、スタジオを出た小倉と一緒になったときに声をかけた。
「なんか、みんな、声出さないんですね」
「そうね。ここの人は」と小倉は早口にむにゃむにゃ、て言って、急いでいたのか信也を追いて、更衣室へ向かっていった。
〈なんか、場違いなのかな……〉
でも信也は次の週も「えぃ!」と気合の声を一人出した。
信也は、ビートファイトは声を出してやるからこそ全てを出し切ることが出来る。ストレスも気合の声と一緒に吹き飛ばすことが出来る、と思っていたので、掛け声を出すことを辞めようとはしなかった。
小倉は信也が声を出すことに嫌な顔はしなかった。どちらかというこ好意的に受け取っているように信也は思えた。
やがて信也が声を出すと前面の鏡に前列で参加している常連の永島裕子が笑顔を見せるようになった。それからたまに自ら進んで声を出すこともあった。
信也は自分が声を出すことが他の参加者にあまり迷惑とは思われてはいないと思うようになった。
俺が声を出せば、それが呼び水になり、いつか声を出す人も出てくる。
声を出して祭りのように盛り上がれば、小倉さんのビートファイトも十人ではなく、きっと満員御礼になる。
信也は本気でそう思っていた。それほど小倉の選曲は素晴らしく、彼女はまさにレジェンド級のインストラクターだった。ビートファイトファンなら放っておくわけがないと信じていた。




