〈11〉最後のビートファイト
「とうとう今夜でおしまいか……」
瑞ケ丘ハウスエステートを退職するのは一向に構わない。宅建士の資格を持っていても、ただの管理物件の清掃員に入居者の不具合対応の仕事になんの未練もない。
未練があるのは麻衣子のビートファイトが今夜でもう来れなくなるということ。
このビートファイトが終われば麻衣子に会えなくなること。
全てが悲しかった。
しかし、空き家になった実家に戻って人生をやり直すと決めた以上、仕方のないこと……。
せめて麻衣子と親しくなりたかった。
そうしたら、この悲しさもかなり軽減したはず。
〈親しくなれたら……〉
そんな信也の気持ちを麻衣子は知らない。
麻衣子はいつものように参加者に挨拶をし、ビートファイトが始まった。
華奢で小柄な身体で明るく元気にパワフルに参加者に動きを指示した。
いつもと変わらぬビートファイト。変わりがあるのは信也自身の心……。
信也はビートファイトを一曲一曲、心を込めて麻衣子の動きに合わせて動いた。
心なしか麻衣子をよく見た。麻衣子のビートファイトをやる姿を心に刻むために。
ビートファイトも中盤に差し掛かる。
あと三十分で終わる。
信也はそんな悲しい気持ちを振り払うように今夜初めて「えぃ!」と気合の声を出した。勿論、誰もその声に呼応する人はいない。続く人はいない。
しかし、麻衣子が信也の気合の声に、
「まだまだ!」と返してきた。
〈え? 煽られてる?〉
信也は思わず驚いた。
信也は続いて「えぃ!」と声を出す。
「もっと!」
「えぃ!」
誰も呼応しない。それでも麻衣子は信也を煽ってくる。
麻衣子のビートファイトに通い始めて一年。初めてのことだった。
麻衣子は信也を見つめていた。
信也もまた麻衣子を見た。
正面にいるからかもしれない。
それでも確実に麻衣子は信也を見ている。
四メートル先の麻衣子は見ている。
「えぃ!」
「もっと! 強いパンチ打って!」
麻衣子は微笑んでいて、頬がぷくっと盛り上がっている。
麻衣子は信也を見て、微笑んでいる。
楽しんでる。自分を見て笑っている。
信也と麻衣子はお互い見つめ合いながらビートファイトをやり続けた。
二人だけの空間。
二人だけの時間がここにある。
信也は麻衣子の笑顔から目が離せなかった。
〈この笑顔を心に刻む〉
いつもと少し違った麻衣子のビートファイトは終わった……。
全てを出し切った脱力感の中に寂しさと喪失感だけがぽつんと残った。
〈これでいい。とても良かった……良かったよ。これでいいんだ。これで終わりだ〉
信也はスタジオの前のベンチで両手に巻かれたバンテージを感慨深げに外した。そして、更衣室へ向かった。
更衣室へ行く前にロビーにいた萩に声をかけられた。
「今日で終わりですか?」
「はい。終わりです。燃え尽きました」
「そうですか。残念ですね」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
信也は萩に別れの挨拶をし、更衣室に向かった。
萩は信也を見て、安堵したのか少し微笑んだ。
信也の青葉スポーツセンターでのビートファイト、いや、麻衣子のビートファイトが終わった……。
今日が最後ということを当然、麻衣子は知らない。




