キズとキズ
眠れば、やって来る。鋭い爪を立てて、心を引っ掻く。悪夢がまた、やって来る。
魘される狭間で浮かぶのは、過去の情景。心臓を貫かれた兄弟子や、絶命した騎士たちの顔である。
指先が思い出すのは最後に触れたヴェルナーの肌だ。冷たく、固い。それが、気付けばアルノルトへと変わっていた。
何度も、何度も反芻する感情に的確な名前はない。後悔と悲しみと、怒りと寂しさと、それから、溢れる涙もない空虚。それらを抱えたまま村を出たのは、ヴェルナーの葬儀が終わって間もなくのことだった。
許しのように思い出すのは、ゼップから聞かされたビアンカの伝言だった。最後まで会話をすることが出来なかった彼女は、兄弟子の魔道士証と共に「生きて、幸せになって」との言葉を渡してくれたのだ。
それはまるで、冷たい金属がじわりと温度を持つように虚ろに感情を滲ませた。泣く権利など、ないというのに。魔石から伝わる彼の魔力に、込み上げる感情を握り締めていた。
――お前が、ヴェルナーを殺したようなものなのに?
――戻れない一線を越えたお前が、幸せになるというのか?
ケタケタ笑う、悪夢が耳元で囁く。熱もなかなか下がらず、ベッドから起き上がることも出来ない。己の弱さにうんざりしていた。
――大丈夫だよ、ルーイ。もう大丈夫。
ぼんやりとした意識の中で、幾度となく聞いたのは優しいアルノルトの声である。ハイジャの森へ帰ってきてすぐ、何も聞かずに抱き締めてくれた温もりは、詰めていた息をようやく吐き出させた。
――ルーイ、なんでネールを死なせたの?
悪夢は、その記憶さえ蝕んだ。
――お前は産まれてすぐ、親に捨てられたような子なのに。
――なんで、お前が生きてるの?
何度も、何度も鋭い爪は傷口を抉る。
悪夢がまた、楽しげに笑っていた。
「お前、いつまでそこにいるつもりだよ」
青い目の竜が、食い殺さんばかりの怒気を纏って部屋へ訪れたのは、そんな悪夢を見始めて何日か経った頃のことだった。夕暮れの僅かな光に煌めく青色は、こんな時でも綺麗である。
「後悔も大概にしとけよ。お前、自分が死ねば良かったとか、思ってねぇだろうな」
「そんな、ことは……」
渇いた口が否定した。その言葉は、ホントでウソ。寄せられた眉間のシワからそれがバレていることは分かっていた。けれど分かったとて、何か言い訳する気にもなれない。心に彼は触れてきたのだ。
「もう戻らねぇ命を数えんな。手のひらからこぼれ落ちたもんにすがり付くのもやめろ。そんなことしたって、そいつらはもうここにはいねぇんだよ」
それでも残るのが未練と後悔なのだが、そんなことはこの竜も知っているのだろう。青の瞳の奥で揺らめく暗がりが、ここにはいない誰かを見つめている気がした。指先が蠢いたのはそれに触れたかったからだろう。気高い竜がそれを拒絶した。
「でも、生きてることが、苦しい」
転がり落ちたのは、彼にだからさらせた本音である。アルノルトになど伝えれば余計心配をかけるだけだろう。その言葉に、優しく微笑んだフェルディナントは言う。
「なら、その傷抱えたまま笑えるようになれ。死んだように生きるな。幸せにと願った奴の想いを、お前が否定してんなよ」
そう、言いたい事だけ言って去っていった背中を、呆然と見送ったものだ。教会に張られていた魔法障壁を力ずくで破壊し、全てを上書きした時にも感じたが、彼はなかなかに竜らしい雑さを持っているのだ。豪快で、なれど美しい。その有り様に久々に笑った。自分の声に、何かが吹っ切れたのを感じたのだった。
それ以来、悪夢を見なくなったのだから余計に面白いだろう。
ベッドから起き上がったのはその次の日のことだった。心配に顔を曇らせたのはもちろんアルノルトだ。リビングへと着いてすぐ、駆け寄り頬を包んだその手は温かかった。
「ディナから聞いたよ。辛い思いをさせて悪かったね」
悲しげに、告げられた謝罪には首を横に振って応える。
「謝らないでください、ルトさま。あれは、僕の力不足です」
「そんなことない。お前は、よくやったよ」
その言葉が慰めなんかではなく、本当の称賛であることが何より嬉しいことだった。思わずふにゃりと笑った。その顔に、ますます悲しげな顔をするのだから、困った師であった。
「そんなに心配しないでください、ルトさま。僕ならもう、大丈夫ですから……全部、吹っ切れたわけじゃないけど。それでも、僕の幸せを願ってくれる人がいるって分かったから。だから、大丈夫なんです」
言いながら、きっと傷ついているのはこの人も同じなのだろうと、そんな当たり前のことにようやく思い当たった。もしかしたら、彼の傷口の方がまだ血を流し続けているのかもしれない。そう思ったら、彼を抱き締めずにはいられなかった。傷の舐め合いだと言うならそれでいい。
大丈夫じゃないけれど、大丈夫だとアルノルトも思えたならそれでいいのだと。見上げたその瞳は、どこか寂しげにも見えたりもした。
彼がハイジャの森へ居続ける理由を聞いたのはその二日後のこと。紅茶を二つと珈琲をひとつ用意した席で、アルノルトはいつも通り穏やかな顔つきで話し始めた。
「ルーイが知りたいのは、私がこの森に閉じ込められているのかどうか、だったね」
「はい。僕の、思い違いでしょうか」
答えによっては、説得を試みねばならないと強張る肩に彼は笑った。
「いいや、半分正解で半分間違いかな。いま私がここにいるのは、自らの意思だからね」
だから、ここに居続けているのは自分で選んだ結果なのだと、そう話す。彼が語ったのは、有名な恋愛譚。この国のかつての女王、ツィリィとの話だった。
それは八百年ほど前のこと。この国がまだ貧しく、長雨や日照りが続けば国民が飢えてしまうようなところだった頃のことである。
私が来たのは気紛れだったんだと、アルノルトは語った。この森が静かで、それこそ寝るのにちょうど良いと思ったのだと。
――でも人間にとっては、大ごとだったろうね。今なら分かるけど、竜の飛来は豊かさか災いが伴うものだから。
女王自ら、対話をしに来たんだよ。
『なぜこの地に来た。竜が人の地に来る意味を知っているのか』
凛とした威厳のある声だった。意思の強そうな緑の瞳がまた綺麗でね。たぶん一目惚れだったと思う。“人が勝手につけた意味など知らない”そう返した私の答えに、心底呆れた顔をしたのもまた良かったんだ。
『なんだ。古い竜は知識に長けているときいていたが、そうでもないんだな』
“何度も言わせるな。人のことなど興味もない”
『馬鹿を言うな。人の地に勝手に来たのはお前の方だろう。今からでも知っておけ』
その言い種がまた面白くてね、しばらくこの国にいることを決めたんだ。私の存在を警戒してだろう。彼女はよく森へ訪ねに来てくれた。その度私たちはたくさんのことを話して、愚かな私はますます彼女のことを好きになっていったんだ。
そうして数年経ったころ、近隣の村や町の作物がよく育つようになった。所謂、竜の恩恵だね。同じようにハイジャの森からは魔石が採掘され始めた。
彼女は悩んだだろうね。私を利用しようとする傲慢さと、国の発展を望む女王としての気持ちの板挟みだ。私を友と思っていたのだから尚更だろう。それでも、選んだのは国だった。
『お前、いつまでここにいるつもりだ?』
『さぁ、君がいなくなるまでなんじゃないか』
でも私はそんな人間の都合なんか知らない。本当に彼女のいないこの場所に興味なんてなかった。それが伝わったんだろうね。ツィリィは結局、この地に私を縛り付けた。この国を見守って欲しいだなんて、尤もらしいことを言ってね。
それから数年後だったよ、彼女が亡くなったのは。
解呪でも壊すでも、やろうと思えばいつでもできた。けど、この身に残る彼女の魔力が愛しくてね。私はこの地に居続けることを選んできたんだ。
「では、ルトさまは今でも、この地に居続けたいと思っているのですか」
問いかけに、生返事をひとつ。そっと視線を落としたアルノルトは苦し気に声を霞ませた。
「本当はね。お前を初めて見た時にはもう、出ていかなければと思ってたんだよ」
「僕を?」
その言葉に眉を跳ね上げた。ここで自分の名が出てくると思わなかったのだ。
「そう、お前を。私が、ハイジャの村で時々生まれる竜に近い魔力を持った子を引き取って、制御の仕方を教えながら育てているのは知っているね。ヴェルナーもそういった子のひとりなことも、お前は少し事情が違うことも」
「はい。生まれつき魔力量が多かったから、でしたよね」
語る声に滲むのは後悔だろうか。伏せられた金色が揺れたように見えた。
「これも半分嘘で、半分本当。……お前はね、竜の角を生やして生まれてきたんだよ。その所為で難産となった母親はルイを産んだ直後に亡くなってしまってね。手放したくなかったのは本当だと信じて欲しいんだけど。父親はあの馬鹿げた文化の所為で、森の入り口にお前を置いていくしかなかったんだ」
だから。紡いだ声が掠れる。
「もう、潮時だとは思っていたんだ。なのに、ずるずると先延ばしにしてしまった。その結果に、悔いるばかりだよ」
そう語り終えた湿った口調が、何を指しているのかは皆理解していた。傷が癒えていないのは彼も一緒なのだと。ふいに重くなった空気を、フェルディナントは遠慮なく蹴りを入れてぶち壊したのだった。
「いっ……、本気で蹴ったねディナ」
「ガキが前向いてんのに、お前がウジウジしてるからだろ」
うぜぇと吐き出した言葉は本音だろう。昔馴染みだから出来る言い合いについ、笑ってしまった。
「なら、ルトさまはこの国から出たいと考えてはいるのですね」
「うん、それは、そうなんだけど」
ならば話は早いと意気込んだのも束の間。それまで滑らかだった舌を鈍らせ、フェルディナントを見やった仕草に嫌な予感が首をもたげた。
「あの、怒らないで聞いて欲しいんだけどね」
「なんだよ、言ってみろ」
「あー実は。ツィリィには心臓も盗られていてね。歴代の王族には基本、逆らえないんだ」
だから半分正解で半分間違いなんだと両手を上げる、師の姿にルーイは絶句した。
「お前……馬鹿だとは思っていたが、そこまで馬鹿だったのか。術式が届く前に壊すとか出来ただろ」
「すごく綺麗な文様で、そんなこと出来なかったんだよ。それに、自分の内側に彼女の魔力がずっと残っているのが嬉しくて。どうにかしなければとも、あまり、思えなかったんだよ」
と、そう言って自身の左胸に触れたアルノルトの、寂しさと愛しさの混ざった表情は、よく理解出来るものだった。ルーイにとってはつい最近経験したばかりのその感情は、まだ痛いばかりである。右手が無意識に白の魔道士証を握り締めた。
「知らなくていいことを、覚えさせてしまったね」
その姿に気付いたのだろう。彼の謝罪に、やはり必要ない首を振って応えた。それでも笑って生きると決めたのだから、まずは目の前の問題から解決しようと、改めて師へ問いかける。
「それで、ルトさま。心臓を取り戻す方法は分かっているのですか」
「んー。それがねぇ。どこに術式が刻まれているのか分からないんだよね」
「分からないって、お前なぁ」
「大丈夫。目星はついてるよ。あの頃彼女の側にいたエルフの魔道士が知ってるはずだからね。ツィリィだけじゃ、あの術式は思いつかないもの」
しかし問題はまだ山積みらしい。
「会ってそう簡単に話してくれるような奴なのか?」
「どうだろう。まぁ行ってみてかな?」
「かなって……こんなのが師匠で大変だな、お前」
気楽なその言動に振り回される、フェルディナントの苦言に、こちらも苦く笑い返した。
「世話には慣れてますよ」
じゃあさっそく準備しようかと、自身に施されていた束縛の術式をあっさりと解呪したアルノルトはウィンクをひとつ。黒い竜は諦めの息を吐き出していた。




