6
「あんた、噂になってるよ」
唐突にそんなことを言ってきたのは漁師仲間のエルメシアだ。
日に焼けた豊満な体は健康的でこちらに向けられる大きな瞳は好奇心で輝いている。
「噂?」
ソニアは首を傾げた。
この街を訪れた初日に海獣を狩ってきたのを皮切りに、毎日気儘に過ごしているからいろいろな噂を立てられていることは知っている。
「黒髪の商人と懇ろだって……本命の彼にバレたらまずいんじゃない?」
笑みを含んだ声を投げて、エルメシアが帆を操り、風を捉えてぐんと進む。
負けじとソニアは舵を脚で操りながら帆の位置を調整して追いかけた。
「噂は噂だよ。それに『本命の彼』とやらは弟のようなものだし……」
そう言ってからソニアは脳裏を過る二つの声を反芻した。
ふたりが口にした特別という言葉は違うものであるはずなのに、不思議と似た響きがあるような気がして……ふと、あり得ない可能性が頭に浮かびそうになる。
「ねぇエルメシア……何故あなたはルカを『本命の彼』だと思ったんだ?」
「そりゃあんたが大切にしているのがわかるからさ! あとは彼の眼差し! あれは周りがどうしようもないほどに恋焦がれた男の眼だ。ああも一途に想われて羨ましがられているからこそ、今回の噂は気を付けな……なにせ、皆娯楽に飢えているからねぇ」
あっはっは!
晴れ渡る空によく響く声で笑ったエルメシアはまた巧みに風を捉えて沖へ消えていった。
一葉の絵に納めたくなるほどの躍動感を網膜に残して消えた彼女を、ソニアは目で追ってまた、考え込んだ。
珍しく、その日の漁は収穫がなかった。
普段、噂話に興じることはないけれど。この時ばかりは気になったのでソニアは街の声に耳を傾けることにした。
思い立ったが吉日とばかりに漁から戻ったその夜に酒場の片隅に腰かけた。
噂の当事者が居ては話しづらいだろうと思って外套を纏い、フードも目深に被ったまま、主菜と具の多いスープをお供にパンを嗜む。
魚の香草蒸しのおいしさについ目的を忘れそうになったのは秘密だ。
そんなこんなで看板で店を追い出されるまで居座った結果、ソニアは自分が街の恰好の娯楽になっていることに気づいた。
流石に先王であることはバレていないようだが、ルカが国王ルシアンではないかという面白半分な予想もあって。その噂は笑われていたけれど的を射ていた。
イーグの正体に迫った者はいなかったが、どうやら自分は噂の中で、ふたりの美男を手玉に取る魅力的な悪女らしい。
てっきり年増女が貴重な男を……という刺々しい話になるかと思ったけれどそんなことはなく。
むしろ金髪と黒髪の青年どちらが自分を落とすか、またはどちらの子を孕むかという賭けまで始まったので正直途中で訂正しようかと思った。
エルメシアの言っていた娯楽に飢えているという言葉の意味をなんとなく察しながら。どうやら皆は金髪の男と黒髪の男の決闘か、自分を挟んでの修羅場を期待しているらしいと知った。
間違っても自分達はそんなことにならないと思うのだがどうすればこの噂は消えるのだろう、とソニアはすこし考えてしまった。
手っ取り早いのは海沿いの街の生活も満喫したということにして違う場所に引っ越すことだがせめて一年はこの街の生活を楽しみたいと思ったのでそれはなしだ。
まぁこれまで噂など気にせずに生活してきた。
それはこれからも変わらない。
そう思って、ソニアは仕入れた不要な情報を一旦忘れて普通に生活することにしたのだが……
「ルカ、いったいどうしたんだ?」
報せもなく、前回の訪問からそう日数が経っていないのにルカが家を訪れたことからなんとなくその理由を察しながらもソニアは問いかけた。
ちはみにドアを開けた途端に声もなく、覆いかぶさるように掻き抱かれて。ソニアは昔を思い出そうとして失敗しながらルカの背中をなだめるように撫でた。
「眼鏡をかけた黒髪の男を、眼鏡を忘れるほどに骨抜きにしたというのは本当か」
問い詰めてくる声は低かった。
どろどろとした感情が、確かにあって。
見上げれば煮詰められた愛情と嫉妬の色が確かにあって……息苦しくなるほどだった。
何故、と思う前に走馬灯のようにこれまでの諸々が脳裏を過る。
即位式の後に話をしたいと言った時の、ひたむきな、期待をしているような面持ち。
即位式の夜に宿を訪れた時に言われた特別という言葉と白金の腕輪と、親愛で片付けるには長くて、執拗だった抱擁。
十八歳の男、という言葉の真の意味。
そしていま。好意と嫉妬と独占欲を煮詰めたような、恋焦がれた眼。
しばらく呆然としていたのだろう。
答えない自分に、焦ったような眼をしたルカが割り込んでくる。
「ソニア、俺はソニアが特別なんだ……他の男の存在なんて許せない。あなたが俺以外の誰かを選ぶくらいなら王としての権力を使ってでもあなたを望んでしまうほどに、好きなんだ」
即位して半年。
日々忙しく過ごしているけれど政務以外の時間もきちんと過ごしているのだろう。
ルカは会うたびに逞しく、男らしくなっていく。
そうして会わない日々が積み重なるうちにほんの少しずつルカは自分の知るルカと離れていったように感じられるけれど。注がれる視線は直向きで。自分が『理解』していなかっただけで捧げられる言葉も変わっていない。
ソニアは言葉を探した。
言葉を探すなんてこと、ここ五年、外交の場ならともかく私生活ではなかったことだ。
自分の中にある言葉ではまだ、自分の気持ちを表現しきれないと思った。
ルカが特別だと言うことはできるし、好きだとも言える。
けれど何かが違う気がして声が出なかった。
「既成事実を作ってでも、その男を追い払いたいよ」
けれど考えているうちにルカがそんな青いことを言い始めるのでソニアは取り敢えずルカの頭に軽く手刀を落とした。
「まずは訂正する。変な噂を野放しにした責任は私にあるが……ルカ、君も王ならば場末の噂を軽々しく信じるな」
取り敢えず客観視だ、と思って声を出すと思ったよりも硬い声が出て、反射的にルカが姿勢を正すので自分でも少し焦る。
自分は説教がしたいわけではないのに教師時代の口調になってしまったのはそれだけ自分に余裕がないせいだ。
「……そうではなく、その男とは友人のようなもので、噂になるようなことは何もないよ」
どうにか普段の自分の口調を保とうとしながら説明すると目に見えてルカの背中から力が抜けた。
「いま、私は正直戸惑っている……何から話せばいいのかわからないほどだ」
正直にそう告げるとルカがじっとこちらを見つめてくる。
どろどろとした嫉妬の色は消えているけれど煮詰められた好意は確かにあって。何故これまで見逃すことができていたのか不思議になるほどだ。
恋焦がれた男の眼、というエルメシアの言葉が脳裏を過る。
ああ。そうか。ルカはずっと私に恋焦がれていたのか、と改めて認識すると何故だか胸の奥が落ち着かなくなる。
浮つきとも違うそれが罪悪感を含んでいる気がするのは……王宮で育った年下の少年を誑かしているような気分になるせいだろうか。
現時点ではルカの気持ちに応えるという選択肢はない。
ルカは王で、望めば誰でも喜んで妻になるような若い男だ。
片や自分は先王で、二十六歳。二十六歳は初婚としては遅く、ルカと婚姻を結べば国内及び周辺諸国から角が立つ可能性がある。
尤も、国の機密を漏洩させないためには最善とも言えるが……それは現王との婚姻である必要はない。
そこまで考えたところで、そうではない、と思い直す。
いま考えるべきは国の方向や王の理想的な伴侶ではなく、ようやく理解したルカの気持ちと、自分の感情の行方だ。
まずは自分がどんな勘違いをしていたかをルカに伝えなければいけないだろう。
それを知ったルカの恋がさめてくれるならこの話は終わりでいいのだが、きっと物事はそう簡単にはいかない。
「私はずっと勘違いをしていた。ルカは……私を伴侶にしたいと望んでいるんだね」
訥々と、これまでの勘違いをあげつらうのはルカに心労を掛ける気がして。ソニアが簡潔に確認するとルカは純粋に驚いた顔をした後、頷く。
「俺は恋を知った時からずっと……成人し即位したら、ソニアを妻にしたいと思ってきた。人生を共にする相手はあなたしかいないと思った。だからこそ、自由を満喫したいあなたを無理やり連れ戻してはいけないと思ってずっと『ルカ』として接してきた」
ルカはソニアを抱きしめたまま、熱烈な言葉を紡ぐ。
これまでは、伝わらないと思って言えなかった数多の言葉は確かにソニアに届いたけれど。ソニアは驚くほど静かな気持ちのまま頷いた。
ルカのことは確かに大切で特別だ。
そしてルカもそうだろう。
けれどそれは恋を知ってずっと自分だけを見ていたからで。盲目になっている気がしてならなかった。
そして自分もまた、恋に現を抜かす歳を過ぎてしまって。一般的には『行き遅れ』と言われる年齢になっても恋というものがわからないままだ。
このままルカの熱意に押されるまま頷いてはいけない事だけは、わかった。
「すまないルカ、君が本気なのはもう十分にわかっている。けれど……君は私以外の女を知らないし、私に至っては恋というものがわからないままだ。だから……まだ君の気持ちには応えることができない」
自分らしくもない、優柔不断な言葉。
きっとルカは納得しない、と思っていると案の定ルカはぐっと詰め寄ってくる。
胸も腹も、太腿も。すべてが触れ合って絡み合う近さ。
なんとなくまずい気がしてすこし距離を取ると今夜、初めてルカが微かに微笑んだ。
「まだ、ということは考えたいということだね、ソニア」
その微笑みは抜け目ない男のもので。
自分の知らない表情に、ソニアはじっとルカを見つめた。
ルカはまだ青い、導くべき少年だと思い込んでいたのは自分だけかもしれない、とその時になって思った。
「俺は焦らないよ。もう十年もあなたを想っているんだ。それに皆、俺がソニアを娶りたいと言ったら応援してくれている。そもそも王族の結婚は自由だから婚姻を急かされることもない」
微笑むルカは落ち着かせるようにソニアの肩から背を撫でる。
それは大人が子供を落ち着かせるものとはほんの少し違っていて、言いようのない甘さを含んだ手つきだった。
「俺がソニアを選んだように、俺はソニアに選ばれたいんだ。ソニアが先代の王だからじゃない。伴侶として対等に生きていきたいから」
晴れ渡る空と海が混ざり合う、青い眼が真っ直ぐにこちらを見つめる。
その眼にあるのは憧ればかりだと思っていたけれど、いま見ればその眼には慈しむような色すらあって。それに気づいた途端、何故かじっと見つめていられなくなったソニアは目を逸らした。
「すまない、格好がつかないな」
ルカの本気は疑うべくもない。
ルカにこれから運命的な出会いでもあれば変わるかもしれないと思っていたけれど。これまでのルカの行動や言動を思い返すとその可能性は低そうだし、なにより既に外堀が埋められている気がする。
「もしも、私が王宮に戻らないと言ったら?」
念のため聞いてみたけれどルカの微笑みは揺るがない。
「王妃になりたくないなら俺がソニアの元に通うよ。俺は王妃が居なくてもいいけれど、ソニアの伴侶の座は誰にも譲らないから」
「いまのように?」
「そうだね……もう少し王宮に近いところに住んでほしいと交渉はするかもしれない」
とうとうソニアは返す言葉を失った。
ルカは食事もとらずにただ、ソニアを抱きしめて帰っていった。
噂を聞いて王宮を飛び出したということは、この街にはルカと情報をやり取りする者が居るのだろう。
それが王宮の手のものか、それともルカに近づきたい者なのかはわからないけれど。
噂の伝わり方から察するに自分を良く思わない者である可能性が高そうだ。
考えるべきことは多くないはずなのにいっこうに答えは見つからない。
自分はルカが大切で好きで特別だが……恋をしているのかはわからない。
そもそも恋というものは何なのか。
自分もまた、物心つく前に王宮に出入りし、ルカ以外の男と交流のないまま大人になってしまったので恋をする機会がなかったし。女王に即位してからは国が第一となり、どんなに男性と話しても、あるいは社交の場で触れ合っても、ソニアという一個人の感情が入る余地はなかった。
溜息を吐いたソニアはベッドに横たわって見慣れた天井を見上げた。
恋を知っている誰かに話を聞いてみたいと思った。




