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リュシテール王国は領地のほぼ大半を森に覆われた国だ。
豊かな植生を擁する肥沃な土地は農作にも向いており、国土の北側は穀倉地帯になっている。
主に作られているのは小麦で国土の南側の温暖な地域では米や芋が主流だ。
森の恵みは季節を問わず豊かで、貧しくとも、ただ生きていくだけならば苦労しない国だ。
とはいえ快適さや楽しみを求めるのなら当然、国が鋳造している貨幣が必要になる。
貨幣は鋳造された時代により価値が異なるが、凡その価値は共通観念としてある。
だが、王都から離れた村では物々交換も珍しくはない。
ルシアン王が即位してから半年。
ソニアはリュシテール王国南部の街に滞在していた。
その街を選んだ理由は街道を抜けた先の、坂道の上から海を抱くように広がる街の景観が気に入ったからに他ならない。
ほぼ着の身着のままだったソニアは小舟を借りて漁をする女達に混ざって初めての漁に挑み、魚ではなく海獣を仕留めて帰ってきた。
海獣は貴重な油を多量に得ることができ、さらに時期によっては王宮に献上されるほどに美味であるため。それ以来、ソニアはちょっとした有名人だ。
一度の狩りでしばらく遊んで暮らせるほどの資金を得たソニアは坂道の上の家を借り、のんびりと生活している。
海で泳いだり、お茶とお菓子を嗜んで顔見知りの女性たちと他愛のない話に興じたり、気まぐれに漁に出たり……ふと思い出したように馬を駆って森へ入ったり。なんとなく出掛けるのが億劫な日は猟で得た獲物の皮を鞣したり、骨やサンゴを磨いてアクセサリーを作ったりもした。
要は、人生の休暇をこれ以上なく満喫していたのだ。
その間、ルカは何度かソニアの元を訪れた。
その度にソニアはルカを歓待したけれど。何故かルカは頑なにソニアの住む家に泊まろうとせず、街の宿に泊まる。
部屋が余っているとはいえ家主からベッドを奪う気にはなれないのだろう。
若しくはこの街の宿が気に入ったか。
酒場を兼ねた宿にお気に入りの娘でもいるのなら少し安心できると思ってしまうほどに王に関する浮いた噂がなくてソニアは最近心配していた。
ただ一つ、王ルシアンが先王フィロソフィアを王宮に囲っているという根も葉もない噂があるが。それは完全に事実無根なのでルカの縁談に障る前に早く立ち消えてほしいと思っている。
「やぁ」
「あら、ソニアさん」
昨日、三日間の滞在を終えて帰ったルカのことを考えながらソニアは市場で買い物をしようとし。顔なじみの宿屋の主人と鉢合わせして挨拶をした。
「ルカさん、今日の早朝に発たれましたよ。それにしても……一緒に住めない理由があってもこうも頻繁に通ってくるなんて愛されているわね」
恰幅の良い宿屋の主人は若い頃はさぞや美しかっただろうと思うほどの美人で、彼女の娘は彼女によく似た美人だ。
年齢もルカと釣り合いがとれるので、頑なに宿屋に泊まるのはもしかして……と思っていたのだがルカに仄めかした途端、怖い顔をされてしまったので何も言うまいと思った。
宿屋の娘がルカをどう思っているのかわからないけれど。宿屋の主人は何故か自分とルカが恋人同士だと思い込んでいるようで。何度訂正しても照れて誤魔化していると思われてしまうので正直、ソニアは彼女が少し苦手だ。
「白金の腕輪を両腕に贈った人が恋人じゃないなんて誰も信じないわよ。恋人どころか伴侶なんでしょう。別に外国に行くことは禁じられていないのだからルカさんと暮らせばいいのに……」
彼女の言葉にソニアは曖昧に微笑んだ。
白金の腕輪を贈られた理由を語るわけにはいかないので黙るしかないのも彼女の間違いを完全に訂正できない理由の一つだ。
虫除けなら銀の腕輪で十分なのに何故白金の腕輪を選んだんだ、とこの時ばかりはルカを咎めたくなるけれど。ルカからすれば先王として十年国を護った自分への選別の気持ちもあったのだろう。
そう考えるともらったものを無碍にできなくてソニアは何も言えなくなる。
「なんだ、また来たのか」
「はい、この街に用事があったので」
買い物を終え、家に戻ると葦毛の馬が居て。家の前にイーグが立っていた。
ルカ同様、イーグもたまに家を訪れるのだ。
イーグと再会したのは偶然だった。
南部の珍しい品物を買い入れる為だろう。
港に居る彼とばったり鉢合わせしたのだ。
彼は相変わらず学者然として、旅慣れない様子で。放っておけないと思ったソニアは彼に声を掛け。何が気に入ったのか、彼はこの街に来る度、時折家を訪れるようになった。
彼もまたルカと同じように食事を共にして夕暮れ前には宿に戻る。
彼との会話は相変わらず面白く、外国の珍しい品などを食事のお礼に持ってきてくれるのでソニアは彼の訪れも歓迎していた。
「珍しいお酒が手に入ったので、一緒にどうかと思って。王乳を含む蜂蜜で作られた蜂蜜酒です」
「おぉ! それは希少だな。だがそれは特別な相手に贈る物にもなりえるほど希少だから、大切にとっておいた方が良いんじゃないか」
王乳とは蜂蜜の中でも特に栄養価の高いものだ。
王乳を食べさせた蜂は女王蜂になるともいわれており、蜂蜜酒の中でも王乳を含む物は薬として扱われることすらある。
「ソニアさんは恩人で、このお酒はソニアさんと飲みたいと思ったので」
イーグに微笑みかけられて一瞬、イーグが『元女王』である自分に王乳を含む蜂蜜酒を贈る意味を勘ぐりそうになるけれど。
元女王である自分をどうにかしたいのならこの半年、いくらでも好機はあっただろうと思い直したソニアは気にしないことにして蜂蜜酒に合う料理を考えることにした。
「そうか……なら、蜂蜜酒は塩っけの強い料理にも甘い菓子にも合うからな……いろいろと用意できるぞ!」
貯蔵庫に置いていたとっておきの猪の肉を使おうと考えながらソニアはイーグを招き入れた。
イーグは少し困ったように微笑んで家に入ってくる。
以前よりか旅慣れてきた雰囲気はあるものの、相変わらず少し鈍くさく感じてしまうけれど。完全に警戒を緩めているわけではない。
普通、両腕に白金の腕輪をつけている女の家を訪れる男などいないからだ。
確かめたことはないが、経歴に嘘がある彼は十中八九、ソニアが先王だと気付いて……何らかの行動を起こすと思っていた。
その狙いが何なのかはまだわからないが油断だけはしないようにしていた。
だから……食後にソファに押し倒された時も冷静に急所に膝を当てると同時に、容赦なく喉仏を親指で圧迫した。
武器を持っていないことは知っていたけれど力を緩めないまま絨毯の上に転がし、膝で背中の中央を遠慮なく押さえつけるとイーグの喉からかふっと掠れた音が漏れた。
「残念だよ。君と話すのは結構楽しかったんだけどね」
ふっと息を吐きながらソニアは微苦笑を浮かべた。
「ごめんなさい、魔が差しました……あまりにもあなたが、魅力的だから」
「ふふ、ありがとう。さて……即位式の日の出会いは偶然だったのかな」
微笑んだまま、ソニアはイーグを見下ろす。
イーグは痛みと喉仏を圧迫された後遺症で一時的に声が出づらくなっているようだがその顔に大きな怯えはない。
王として振舞っていた頃にイーグの顔を見た覚えはないが、眼鏡が落ちた顔には少し見覚えがあった。
「ロスメルタ公国」
リュシテール王国の東隣の国の名を呟くとイーグの表情は変わらなかったけれど左手がピクリと動いた。
「君は王の血縁かな。若しくは目的のために動かざるを得ない庶子か。私はすべてを把握しているわけではなかったけれど……あの国くらいだからね、私を執拗に求めていたのは」
流れるような口調でソニアが言うと観念したようにイーグの身体から力が抜けた。
「……その通りです。即位式の日に出会ったのは偶然でしたが……俺は、成りあがるためにあなたに近づいた。あなたが先王フィロソフィアであることはすぐにわかったからだ」
眼鏡を落とし、黒い髪を乱したイーグはソニアを見上げる。
「最初は……あなたを騙してロスメルタ公国に連れて行って、ずっとあなたにご執心の兄に献上しようと思っていた。けれどあなたは……魅力的すぎた。血は争えないのかもしれないですね、私は人生を諦めるほどにあなたが特別で、好きです。あなたの傍に居られるのなら辺境で何者にもなれないまま死んでもいい」
歪んでいる気がするけれどまっすぐな言葉にソニアは微苦笑を浮かべ……ふと、ルカに言われた言葉を思い出した。
似た言葉だと思ったせいで思い出してしまったけれど二人がそれぞれ込めた感情は違う、はずだ。
ソニアは昼下がりの薄暗い部屋の中で静かに煌めく白金の腕輪をなぞった。
「気持ちはありがたいが私は自由で居たいんだよ。憲兵に突き出したりはしないからとっとと帰るが良い……手荒な真似をして、悪かったね」
イーグから離れ、言葉を投げながら少しだけ残念に思う。
自分は欠片もイーグに対して恋をしていなかったけれど。イーグと話をするのは純粋に楽しかったのだ。
もう会わない方が良いのかもしれないけれど……それならば一つだけ伝えたいと思った。
「君と知り合えて私は楽しかったよ。君は自由な私に惹かれた。だから本当は……自由に惹かれているんじゃないかと思うよ。一度美味しいものでも食べて海を眺めてみると良い」
手を差し伸べるとイーグは俯きながら手を借りずに立ち上がった。
「ソニアさんには敵わないですね」
眼鏡は、変装用だったのだろう。
右腕に嵌めた銀の腕輪を撫でたイーグは微苦笑を浮かべて出て行った。
その横顔は悲しげだったけれどどこか晴れ晴れとしたもので。
なんとなくまた、彼に会えるような気がした。
その背中を見送ったソニアは……今になって言いようのない気持ちが喉奥で蟠るのを感じながら首を傾げた。




