神聖ローマ帝国
中世から近代にかけて、現在のドイツを中心としたあたりに『神聖ローマ帝国』という帝国があった。
帝国というので皇帝がいたが、歴代中国の皇帝のような絶対権力をもったものではなかった。
地方豪族である公国や侯国、カトリック教会の司教領、修道騎士団領、自由都市(例えばニュルンベルク)などの寄せ集めのような帝国で、皇帝の直接支配は限定的であった。
神聖ローマ帝国は、その起源を西暦八〇〇年のカール戴冠に求める説と、九六二年のオットー一世戴冠に求める説があり、いずれにせよ十九世紀初頭の一八〇六年まで、ほぼ千年にわたって存続した。
古代ローマ帝国を、皇帝が立ってから(前二七年)、西ローマ帝国が滅びる(四七六年)までとすると、約五百年だ。
その倍もの期間を永らえた帝国だ。それなのに、内部はガタガタで、中央集権ではなく、官僚制でもなかった。
無理を承知で日本の歴史に例えるならば、平安末期の体制のまま、鎌倉・室町・江戸の歴代幕府が登場せず、古代国家のまま明治維新をむかえたような形になるかもしれない。
なぜ、このような国家が出来たのか。
なぜならば、この国家は武力や政治力などの実力によって建設された帝国ではなかったからだ。むしろ名目上建設された帝国だった。
西暦八〇〇年といえば、西ローマ帝国はすでに滅びていたが、東ローマ帝国は健在だった。教皇庁はローマでペテロの墓を守っていたが、東ローマ帝国から見れば、西方に正統な皇帝は存在せず、フランク諸王は「田舎の王」にすぎなかった。
ところが七九七年、東ローマ帝国で政変がおこる。
皇帝コンスタンティノス六世が、実の母親によって追放され、母親のエイレーネーが女帝として即位してしまった。
ローマ帝国初の女帝だった。
帝国西部のフランクは、この即位を認めなかった。そして時のローマ教皇レオ三世がフランク王国の国王カールをローマに呼び寄せてコンスタンティノス六世の後継者として戴冠させてしまう。歴史上『カールの戴冠』と呼ばれる。
このときのフランク王国の領土は、主に現在のフランスあたりだ。
カールはこの時から『カール大帝』になる。トランプ・カードのハートのキングは『カール大帝』だそうだ。
他の三人のキングは『カエサル』、『ダビデ王』、『アレキサンダー大王』なので、かなり格上の顔ぶれだ。
これは現在のカードの元になっているのが十六世紀のフランス、パリのデザインだからだろう。
カロリング朝を開いたピピン三世と、その子供のカールが建設したフランク王国は実力をもって建国された国であっただろう。しかし、その上に被さる神聖ローマ帝国は、実態よりも理念や権威が先行した存在だった、と言えるかもしれない。
なのでカールの死後には、その軍事的実体は失われる。
このようないきさつで、名目上ともいえる皇帝位が出来てしまう。なお、女帝エイレーネーは八〇二年に失脚し、東ローマ皇帝は再び男性になる。
フランク王国は東に拡大し、現在のドイツの一部、北イタリアあたりまで支配する。ところがフランク族には当時、長子相続という習慣がなく、兄弟で分割相続がなされたため、西フランク、中部フランク、東フランクの三つに分かれ、中部フランクがさらに三つに割れて、その一つがイタリア王国になる。
神聖ローマ皇帝位は、それらの国王の間を行き来することになるが、そのうちに途絶えてしまう。
十世紀前半、東フランク国王ハインリヒ一世が、次男のオットーを後継者とし、合わせて王国の単独相続を志向した。これによりカトリック世界の世俗権力が落ち着き始める。
このオットーが中部フランクから分かれたイタリア王国の王位を兼ねることになり、九六二年に改めて神聖ローマ皇帝を名のることになる。
この年を神聖ローマ帝国の初めとする説もある。
歴史的には実現しなかったが、神聖ローマ帝国は、おそらく一度だけ、真の帝国になるチャンスがあった。それはハプスブルク家の台頭だった。
片田達の時代、皇帝はハプスブルクのマクシミリアン一世だ。かれは物語の時点までで、
・一四七七年 ブルゴーニュ公(ブルゴーニュ公女マリーとの結婚による)
・一四八六年 ローマ王(選帝侯の投票による、皇帝後継者)
・一四九三年 神聖ローマ帝国の君主(父皇帝の崩御による)
・一四九六年 息子フィリップがカスティーリャ女王ファナと結婚(スペインの継承権)
・一五〇八年二月 『選ばれしローマ皇帝』を名乗る(教皇ユリウス二世の承認による)
と、確実に勢力を拡大してきた。
史実においては、ここまで強大になったマクシミリアンでも中央集権化はできなかった。彼は騎士同士の私闘を禁じる『永久ラント平和令』の制定、裁判所の設置などには成功する。
しかし、一方では帝国に直接税を納める帝国税、帝国が持つ兵の徴用には失敗してしまう。あのマクシミリアン、そしてその孫のカール五世(スペインではカルロス一世)であっても神聖ローマ帝国を帝国にすることは出来なかった。
それであっても、隣国のフランスは警戒する。ましてやルイ十二世の決断で、この物語では、フランスは新教国家になっている。
ローマ教皇が、テンプル騎士団の残した莫大な額の借用書の返済を求めて来たことが引鉄になった。
そして、フランスがとんでもない外交を行う。
オスマン帝国と同盟を結んでしまった。
その同盟の目的は、ネーデルランド、スペイン、イタリアを手中にしたハプスブルク家によるフランス包囲網に対抗することだった。
そして、フランスは新教国(後のプロテスタント)なのだから、もはやローマ教皇庁に気兼ねする必要はない。
話が強引すぎる、と思うかもしれない。
しかし、史実でも似たような時期にフランスはオスマン帝国に接近している。しかも歴史上ではフランスはカトリック教国のままで、イスラム教国のオスマン帝国と同盟を結んでいるのだ。
ルイ十二世の次のフランス王はフランソワ一世という。その王の時代、一五二六年のことだ。物語の時点から、わずか十八年後だ。
この時の接近は後に、一五二九年のオスマン帝国による『第一次ウィーン包囲』の間接的な一因となり、また一五三六年に締結された『フランス・オスマン同盟』の呼び水ともなった。
史実においても、このときまでにフランスは、『教皇の権威』よりも実利を優先させていた、と見ることができるだろう。




