立ち退き交渉
黒い煙を吐く軍艦がやって来て、見たこともない人間が降りてくる。そして、怪しげなスペイン語を使って、島から出て行けと言う。
もちろん、おいそれと信じるわけにはいかない。
ヴェネツィアやフィレンツェのような大都会に住んでいたなら、東洋人奴隷を見たことくらいあるだろう。しかし、ここはポルトガルの、しかも西の果ての小さな漁村だ。
シナ、インドという言葉くらいは知っていたかもしれないが、アジア人を見たことはない。
ところが、その男が、隣に立つ『戦隊司令』と名乗る男に渡された袋から金貨を出して見せた。十枚ずつ重ね、四つの柱を作った。四十枚あるぞ、という意味だ。
そして、一家庭に一袋渡すから、島から立ち退いて欲しい、と言ってきたのだ。この島が戦争になるかもしれないとも言う。
「さてな、どうしたもんだか」
「この金貨、刻印がクルザードとは違うが、色といい、重さといい、もっと良い金貨に見えるぞ」
当然だった。シンガの出してきた金貨はヴェネツィアのドゥカートだ。ポルトガルのクルザードとは歴然とした差があった。
金の含有量と重さがほぼ同一なので、等価として扱われていたが、ヴェネツィアには数百年の鋳貨製造技術の積み重ねがある。
ドゥカートは図像が細かく、シャープで、工芸品に近い金貨だった。
「おい、ウ・ヴェーリュを呼んで来い」男の一人が言った。『長老』といった意味だ。当時のペニシェはまだ正式な街にはなっていない。中央から派遣されてくる役人など、いない時代だ。
なので、ペニシェ住民の意見や意思を取りまとめたり、外部と交渉したり、最終判断をする人間が必要だった。
それが『ウ・ヴェーリュ』である。
しばらくして、『ウ・ヴェーリュ』らしき老人が黒い僧服を身に着けた巡回司祭を伴ってやってきた。
僧服を見たシンガが喜ぶ。司祭ならラテン語が通じるだろう。
シンガがいきなり流暢なラテン語でまくしたてる。
「司祭様、はじめまして。私はシンガといいます。ラテン語が話せますので通訳をお願いできるでしょうか」
巡回司祭が度肝を抜かれる。こんな滑らかなラテン語は初めてだった。司祭がおずおずと、短いラテン語で応じた。
「アナタ、シンガ。わかた。通訳、やる」
「我々は片田商店といいます。片田商店の軍隊です。航海の安全のために、この島に港を造りたいのです。そして海賊から身を守るために要塞も造ります。海賊と争いになれば島民が危険です。なので、島から立ち退いてもらいたいのです。支度金はお渡しします、立ち退いてくれれば一家族あたり金貨四十枚をお渡しいたします。いかがでしょうか……」
「アナタ、『カタダ・ショーテン』。港、造りました。要塞、造りました。島民、本土、行きたいです……」
シンガはがっかりする。この司祭のラテン語は、格変化も、動詞の活用も、めちゃめちゃだった。
西ローマ帝国が滅びてから千年以上経っている。加えてイベリア半島は、その半分の期間はイスラム圏だった。無理もない。
“まあ、スペイン語で話すよりはましだろう、簡単なラテン単語で話そう”シンガが思った。
「と、いうことで、島民に島から去ってもらえないだろうか」
司祭が長老や村人たちと、ひとしきり会話する。
「そんなこといっても、これから『魚の汁』の仕込みが始まる季節だ。島を出るわけにはいかない」
「仕込みにはいつまでかかるんだ」
「五月一杯までは、かかる。そして、九月まで発酵させれば出来上がる」
「では、仕込みが終わる六月に、出て行ってもらえないか。出来上がった『魚の汁』を取りに来るのは、かまわない
島民が相談する。『魚の汁』といっているのは、魚醤のことだ。古代ローマ時代から、ガルムという魚醤が作られている。
古代ローマが使用したような高級品ではないだろうが、付近の漁師や船乗りに売る。
「いいだろう、若い者、子供は出て行くことにしよう。海賊との争いに巻き込まれるのは嫌だからな。ただ、家と船と『魚の汁』は守らなければならない。そのため、年寄りを置いてゆく」
出て行く気がないのは、明らかだった。彼らにしてみれば一時の事に過ぎない、と思っているのだろう。
金貨が二十枚あれば本土沿岸の村に家を建てることができる。四十枚もあれば兼業で商売することも夢ではない。
シンガが隣の戦隊司令に説明した。司令が言う。
「老人が島の家に残ると言うのか。では、もう一つ話してやってくれ、島の南東に城塞を作る、それと島の周囲に城壁を築くことになる。建設場所にあたる家屋は、そちらの望むところに移設させてもらうが、それでもいいか聞いてくれ」
シンガが説明する。
移設するのは、かまわない、と島民が言ってきた。そして、こうも言う。
「言われた通り、もらう金貨で本土にもう一つの家を建てる。そしてそこに住む。年寄りは島の家や舟を守る。俺達は、昼間は島に来て漁師をしたり、魚を干したりする。戦争の時は、年寄りも本土に逃げる。それでいいか」
シンガが戦隊司令に説明する。そして、続けた。
「なんか、『立ち退き交渉』のはずだったのに、緩いことになりそうなんですが」
「まあ、島民は先祖代々ここで魚を獲ってきたんだ。そんなもんだろう」
この島はジブラルタルの町とは違っていた。ジブラルタルは『ムーア城』の城下町で、城の需要を満たすことが住民の仕事だった。
それに対して、この島の住民は、海で魚を獲り、浜で塩を作り、魚醤や干魚を(ほしざかな)売って暮らしてきた。
島から離れることなど、考えられないのだろう。
「わかった、その条件でいい」日本人の戦隊司令が言った。
まだ国民国家の時代ではない。身近にいてくれて、海賊や外国船から守ってくれるのであれば、島民にとって望むところだった。
そして、もう一つ。これも重要だ。彼らは、島民の宗教に対して何も言ってこなかった。ならば、いいではないか。




