第一話 夢魔の毒牙と、長官の決断
第一話 夢魔の毒牙と、長官の決断
王都・神殿街の離れ・夢境(夜)
甘く重たい紫煙が漂う、絢爛豪華な天蓋付きのベッド。
深く沈み込むシルクのクッションの上で、神官庁特別査察部部長が、虚ろな目で荒い息を吐いていた。彼は査察部部長の厳格な衣を剥ぎ取られ、夢魔の快楽に溺れた、ただの無力な男に成り下がっていた。
その体に吸い付くように重なっているのは、透けるような薄絹を纏った美しき夢魔——リリスだ。
夜の闇を溶かしたような漆黒の長い髪、細く整った眉と長く濃い睫毛、妖しく光る紫水晶の瞳、艶やかな赤い唇、そして男の理性を一瞬で蕩かせる白磁のように滑らかな肌。
リリスは己の権能である**「欲望顕現」**の術式を全開にし、男が心の奥底で最も求めていた「大主神たちを見返して神官庁の頂点に立つ」という権力欲と絶頂の快楽を夢境に具現化していた。男は彼女のふくよかな胸元に深く顔を埋めていた。
リリスは男の背を優しく指でなぞり、吐息が触れる耳元で甘く囁く。
「ふふ……愛しいあなた。毎日、難しいお顔で神々の不正を探して……大変でしょう? もう何も考えなくていいの……。
この私の腕の中で、極上の快楽に溺れてしまいなさい……」
「あ……ぁ……リリス……」
男は彼女の甘美な肌の温もりと、媚薬のような囁きに理性を溶かされていく。
だが——男の背をなぞるリリスの胸の奥で、激しい葛藤が渦巻いていた。
(……私は、一体何をしているのだろう)
人間の傷ついた心を癒やすために授かった力を、今は人間を裏切らせ、破滅へ落とすために使っている。
だが……拒めば消される。
あの主神の脅迫には抗えない。
(……ごめんなさい)
男には聞こえないほどの極小の呟きを漏らすと、リリスは胸の痛みを押し殺し、再び妖艶な笑みを顔に張り付けた。
「ねえ……教えて? 神官庁が今、どの神殿を捜査しようとしているのか……私だけに、こっそり教えて頂戴?」
「あ……ぁ……来週……大主神派のバアル様傘下にある……地下錬金神殿への……強制捜査だ……」
「あら、強制捜査……? 立ち入り捜査の決行日や、動員される査察官の配置ルートまで……全部教えてくれるかしら?」
「決行は……十五日の未明……。
東門からの侵入ルートと……証拠保全用結界の暗号鍵は……これだ……」
リリスの紫色の瞳が怪しく輝いた。
男は完全に骨抜きにされ、神官庁が命がけで伏せていた最重要捜査計画の全貌をすべて白状し、失神するように倒れ込んだ。
◇
翌朝、神官庁 長官執務室にて。
「あろうことか! 査察部部長がサキュバスの甘い罠に落ちて、最重要の捜査情報を漏らしたのですか!?」
長官秘書官兼特別査察部総務課長のニケが、美しい眉をしかめ怒りと衝撃に声を荒げていた 。
「ニケ秘書官。落ち着きなさい」
桜材のデスクに頬杖をつき、報告書に目を落としていたのは神官庁長官・アテナである 。
知恵と戦術を司る最高峰の女神であり、並み居る大主神たちが政治的圧力をかけてきたときでさえ、毅然として一歩も引いてこなかった「神官庁最強の防波堤」だ。
今は重厚な甲冑を脱ぎ捨て、上質な紺色の執務服に身を包んだ洗練された佇まいを見せている。
ニケは深呼吸をし、手にしていた青いファイルをアテナの前に広げた。
「失礼いたしました、アテナ長官。……ですが、事態は極めて深刻です。
これまでにも、我が特別査察部の現場査察官五名がリリスの誘惑に屈し、免職(懲戒解雇)となっていました」
ニケはファイルのページをめくり、過去の事件を静かに読み上げた。
「1人目は私的な賭博の借金を帳消しにする甘い夢を見せられ、立ち入り査察の日程を漏洩。
2人目は愛欲に溺れて押収した証拠品の保管場所を漏洩。
3人目は出身神族での出世欲を突かれ、内部告発文書の原案を渡してしまう失態。
4人目は病の家族を救う万能薬の幻影に惑わされて令状データを改竄し、
5人目は過去の過失を隠蔽する約束と引き換えに特別査察ルートを売りました……」
ニケの顔が悔しさで歪む。
「彼らはいずれも、夢境の中で自らの心の隙間(個人的な欲望)を突かれ、守秘義務違反や職務怠慢に問われて罷免(免職)となりました。
そして今度は、査察部のトップである部長までもが……バアル大主神傘下の神殿への強制捜査計画と、結界の暗号鍵まで漏らしてしまったのです」
「……昨夜、一時的に正気に戻った部長は、自らの犯した失態の重さに耐えかね、辞職を申し出る書き置きを残して行方をくらませたわね」
アテナが淡々と後を継ぐ。
単なる個人の不祥事の段階は、すでに過ぎ去っていた。
現場を束ねるトップが機密情報を漏らし、姿を消したとなれば、組織全体の倫理観と信用は完全に崩壊する。
神律最高評議会の上層部に鎮座する大主神どもからは「自制心すら無き破戒漢どもの巣窟か! 特別査察部など即刻解体しろ!」と猛烈な圧力がかかり、組織は設立以来最大の解体危機に瀕していた。
「アテナ長官。犯人は大主神のどなたかに使嗾されたサキュバスに違いありません。査察官の不祥事を意図的に連発させ、我々の動きを封じ、査察部そのものを潰すのが真の狙いです」
ニケの報告を聞き終えると、アテナは静かに報告書を閉じた。
「決定したわ、ニケ」
「と、おっしゃいますと?」
「本日ただいまをもって——私自らが、この**【特別査察部部長】を兼務**します」
執務室の空気そのものが引き締まった。
「上層部の大主神どもが政治的圧力や拒否権を盾に、査察部を解体しようと画策しているのは知っているでしょう?
内部から腐敗し、外部から圧力をかけられるような組織なら、私が直接指揮を執るまでよ。
これからは長官として行政のトップに立ちつつ、特別査察部の部長として、現場を一番近くで全力でバックアップするわ」
「そ、それは、規定に反すると存じますが……」
ニケが宥めようとすると、アテナは朱印入りの書類を優雅に差し出した。
「通常の規定には想定されていない措置だけれど、違反ではないわ。非常事態における緊急措置として、神律裁判所長のマアトと、神律最高評議会議長のアマテラスから承認を得ているもの」
アテナは端正な唇の端をふっと釣り上げた。
「さあ、始めるわよ。ニケ、特別査察部の切り札を呼んでちょうだい。ナカムラ、ナカムラ・ヒトシくんよ」




