第一話 どうぞ、お冷です。ところで神様——
前書き:神官庁・神々のご案内
「貧乏神」と聞くと、取りついた人を一方的に困窮させる嫌な神様というイメージがあるかもしれません。
ですが本来の役割は、「社会における貧困現象や経済の巡り(陰陽のバランス)を正しく管理する(司る)」ことです。
人間が豊かさに慢心せず、助け合いや工夫の心を忘れないための「戒めと均衡の守り手」であり、決して無差別に人を困窮させたり、自力で立ち上がろうとする人の足を引っ張ったりするための存在ではありません。
(本来の職務:貧困現象の均衡管理/人間の自発的な努力と助け合いを温かく見守ること)
第一話 どうぞ、お冷です。ところで神様——
王都貧民街の片隅に佇むパン屋『アルファロ・ブーランジュリー・パティスリー』の厨房は、早朝から重苦しい空気に包まれていた。 薄暗い室内には小麦粉の粉塵が舞い、年配の店主アルファロが頭を抱えて座り込んでいる。
奥の作業台を見ると、根元から不可解にへし折れた頑丈な樫の木の脚が転がっていた。床には散乱した小麦粉と、昨日起きた痛ましい事故の血痕が薄く残っている。
昨日、ベテランのパン職人ジャンが作業中に手に大怪我を負ったのだ。店主のアルファロ一人では、その日のパンを焼くことすらできない。
「おしまいだ……。一人じゃ焼き窯の火加減も、粉の捏ねもできねえ……。新商品の試作を始めた途端にこんな事故が起きるなんて、うちはどこまで運が無いんだ……」
アルファロが絶望に打ちひしがれていると、カチャンとドアの鈴の音が小さく響いた。
入り口に立っていたのは、仕立ての良いシンプルなコートを纏った男——ナカムラ・ヒトシだった。
手には小さめの鞄を抱え、帽子を取って深々と頭を下げる。
「失礼いたします。表の貼り紙を拝見いたしました。
『職人助手・急募』とお伺いしたのですが」
「……悪いな、にいさん。見ての通りうちは廃業寸前だ。肝心のマイスターが事故で倒れて、今日のパンすら焼けない。給料だって払えるかどうか……」
「お給料なら後払いで構いませんよ。
実は私、以前にパン職人の助手を少し嗜んでおりましてね。
手脚なら動かせます。
よろしければ、この散らかりよう、片付けだけでも手伝わせてください」
ナカムラは断られる間もなくコートを脱ぎ、袖を丁寧に捲り上げると、慣れた手つきで箒を持ち、散らばった粉を掃き集め始めた。
その動作には一切の無駄がなく、恐ろしいほど几帳面だ。
「お、おい……にいさん……」
「あ、申し遅れました。ナカムラと申します。ナカムラ・ヒトシです。お困りのようですから、遠慮なさらず使ってください」
アルファロは、その生真面目で温かい佇まいに思わず毒気を抜かれた。
ヒトシは掃除をしながら自然な動作で、折れた作業台の脚の断面へ近づく。
アルファロが見ていない隙に懐から小さな眼鏡(鑑識用レンズ)を取り出し、サッと断面を観察した。
(木目の内部、腐食や虫食いの跡は一切ない。樹齢百年の樫材が、内部から『確率の位相』を直接ひねり潰されたような歪な断裂痕。典型的な神力による構造破壊だ)
「……旦那様。怪我をされた職人さんは、どこで療養されていますか?」
「裏の診療所だ。手の骨が砕けててな……当分、仕事は無理だ」
「そうですか。後で様子を見に行って差し上げないとですね。
……ところで、この事故が起きた時、職人さんは何をされていたのですか?」
「何をって……うちの経営を立て直すために、新しい発酵種を使った特製パンの試作をしてたんだよ。
『これで貧乏から抜け出そう』って、二人で息巻いてた矢先だった……」
「なるほど……『自力で立ち上がろうとした矢先』、ですか」
ヒトシは生真面目な顔で、懐の手帳に万年筆で静かに書き込む。
メモ帳には【被疑神:マレブランケ/事案:努力機会の不当な剥奪(神力行使の疑い)】の文字が刻まれた。
ヒトシは手帳を閉じ、温かい笑みを浮かべた。
「旦那様。まずは今日のパンを焼きましょう。怪我をされた職人さんのためにも、店を潰すわけにはいきませんからね」
「にいさん……あんた、いい人だなあ……」
アルファロは思わず目頭を押さえた。
「いいえ、ただの通りすがりの公務……あ、いえ、求職者ですよ」
◇
昼前、焼き窯の前に立つヒトシとアルファロの姿があった。
ヒトシは手際よく粉を捏ね、生地を成形していく。その手つきは素人離れしており、アルファロも感心して見守っていた。
「すごいな、ヒトシさん……! ジャンがいなくても、これなら昼の開店に間に合うかもしれん!」
「いえいえ、昔取った杵柄というやつです。さあ、窯に入れましょう」
生地を窯に入れ、温度調整をしようとしたその時——パチパチと燃えていた薪の火が、まるで冷水を浴びせられたかのように急速に青白く萎み、消えそうになった。
同時に、厨房の室温が不自然に急降下する。
「な、なんだ!? 火が……火が消えちまう! これじゃ生地が台無しだ!」
ヒトシは慌てることなく、冷静に火元を観察した。
(酸素不足でも薪の湿気でもない。空間の『熱エネルギーの不自然な確率変換』。やはり近くにいるな)
ヒトシはさりげなく煤けた壁と窯の隙間へ手を差し入れ、見えざる者の干渉を防ぐための護符を静かに貼った。火の完全鎮火を寸前で防ぎ止める。
「大丈夫です、旦那様。薪の組み方を少し変えました。火は持ちこたえますよ」
「え、あ……本当だ、火が戻った……」
その時、厨房の隅、陰になった物置の奥から油の浮いたようなねっとりとした声が響いた。
「ケケケ……しぶとしねぇ、アルファロ。職人の次は、火かい?」
アルファロが弾かれたように振り向く。
そこには、煤と油で黒く汚れた外套を纏い、顔半分を影に隠した小柄な男——貧乏神マレブランケが歪んだ笑みを浮かべて立っていた。
その周囲には、灰色でまとわりつく湿気と不快な冷気が漂っている。
「マ……マレブランケ様……! なぜこんな所に……」
ヒトシはアルファロの背後に回り込みながら、外套のポケットの中で小さな木札(録音術式)のスイッチを静かに押し込んだ。
「言ったろう? わしへの月例の奉納金を渋るから、こういう『不運』が続くのだと」
マレブランケは痩せた指を擦り合わせながら、アルファロへ一歩近づく。
「ケケケ、奉納金を通常の二倍に引き上げ、この『不運除けの念書』に血印を押せば、明日からの不運はピタリと止めてやる。
わしは寛大な神だからな」
マレブランケは懐からどす黒い羊皮紙の契約書を取り出し、アルファロの目の前につきつけた。
アルファロが恐怖で身をすくませたその時、コトン、と小さな木杯がマレブランケの目の前の作業台に置かれた。
「どうぞ。お冷です。
窯の火の勢いが強いので、喉が渇いておられましょう」
ヒトシが恐ろしいほど生真面目な笑みを浮かべ、丁寧なお辞儀とともに水を差し出していた。
「……あぁ? なんだお前は。人間の小僧が、神の商談に水を差す気か?」
マレブランケは差し出された水を苛立ち紛れに払いのけ、ヒトシを睨みつける。
「いえいえ、私はこちらの厨房の手伝いをしております、ナカムラと申します。ところで神様……ひとつお伺いしたいのですが。
職人のジャンさんの事故も、今日の焼き窯の鎮火も、すべてあなたの『不運の管理』によるものなのですか?」
「ふん、察しのいい小僧だな! 当たり前だ。ジャンの手骨が砕けたのも、今日の焼き窯が冷えたのも、すべてわしが起こした『不運』だよ。
貧乏人はずっと貧乏でいてもらわねば、わしの飯の種がなくなるのだよ!」
マレブランケは勝ち誇ったように鼻で笑った。
「あの青二才め。『新商品で貧乏から抜け出す』などと増長しおって。
貧しいからこそ人間は助け合い、身を寄せ合って生きる! わしが『貧乏』という恵みを与えてやるからこそ、この街の連中は清く、美しくいられるのだ!
人間どもが貧乏から脱出してみろ、わしに奉納金を払う奴がいなくなるだろうが!」
「な……なんだと……!? ジャンの事故も、窯の火も……あんたが仕組んだっていうのか!
奉納金のために、俺たちの努力を……ジャンの手を奪ったのか!!」
真相を知り、激しい怒りに震えるアルファロをかばい、ヒトシは静かに手帳を開いた。




