第二話 影の中の子狼と、根の国への御幸
神官庁・特別査察部事務所の一画に設けられた、ヒトシの机周り
「……よしよし、今日から君の名前は『シロ』だ。毛並みが白いからな」
収監されたロキから託された神狼フェンリルの幼子を両手で抱き上げ、生真面目な顔でそう呟いたヒトシに、査察部の面々は絶句していた。
「……ナカムラ審問官。神々をも呑み込む伝説の神狼の血統に対して、『シロ』はあまりに雑すぎますわ。公務員のネーミングセンスを疑います」
ニケが呆れ顔で幼子を撫でる。
「そうですぞ、ナカムラ君! 鑑識の観点からも、もっと北欧の血統にふさわしい格調高い名を与えるべきです!」
ヘパイストスも熱弁を振るった。
こうして二人の猛ツッコミを受けた結果、北欧の森を思わせる響きの『シルヴィア』という気品ある名前に落ち着いた。
通称は『シル』と決まった。
ヒトシの官舎
一人と一匹の毎日は、実に穏やかで微笑ましいものだった。
ヒトシが床に腰を下ろすと、子犬のシルは嬉しそうに尻尾をちぎれんばかりに振り、膝の上に上がってお腹を見せる。
ヒトシが不器用ながらも優しくお腹を撫でてやると、シルは「くぅん」と喉を鳴らし、甘えるようにヒトシの顔をペロペロとなめる。
それが日課になっていた。
さらにシルには、幼いながらも不思議な神通力が備わっていた。
ヒトシが出勤しようと鞄を持つと、シルはトコトコと歩み寄り、そのままヒトシの足元に伸びる影の中へ、すーっと溶け込むように潜り込んでしまうのだ。
「シル。職場までついてきてはいけませんよ」
ヒトシが影に向かって優しく声をかけると、影の表面がぽこりと膨らみ、シルが頭だけをひょっこりと覗かせて「わん!」と可愛らしく鳴く。
大好きなヒトシのそばを片時も離れたくないシルにとって、彼の影の中は世界で一番安らぐベッドらしい。
だが、伝説の神狼の成長速度は凄まじかった。
最初はヒトシの両手に収まるほどだったシルは、わずか一か月で成犬の大型シェパードほどの大きさに急成長したのである。
「ま、待ちなさい、シル……! 散歩は走ってはいけません。
公務員の歩調で……っ!」
早朝の庭園。身体が大きくなっても甘えん坊のままのシルは、元気いっぱいにリードを引っ張る。
ただの人間の体力しか持たないヒトシは、ハァハァと息を切らしながら振り回されていた。
「これは、きちんとしつけないと体力が持ちませんね……」
ヒトシはシーザー・ミラン氏の著書を参考に、根気よくシルのしつけを始めた。
シルは普通の犬とは異なり、人語をよく理解した。
一般的なコマンドだけでなく、日常の言葉からもヒトシの意図をくみ取っていく。
毎日繰り返される訓練の末、シルは外出時にもリードなしで、ヒトシより前に出ず、落ち着いて歩けるようになった。
そんなある日の夕暮れ。
自室でじゃれ合っていた際、興奮したシルがヒトシの腕に牙を当ててしまった。
「痛……!」
鋭い激痛が走る。不可抗力とはいえ、相手は神狼の牙だ。ヒトシの皮膚が切れ、赤い血が滲み出た。
「……くぅん……っ」
ハッと我に返ったシルは、大好きな主を傷つけてしまったことに激しいショックを受けた。
耳と尻尾をぺたりと垂らし、身を小さくして、詫びるように鼻先をヒトシの膝へ押し付けてくる。
大きな瞳には、悔恨の色が浮かんでいた。
ヒトシは痛みに耐えながら、シルの頭を優しく撫でた。
「大丈夫ですよ、シル。わざとではないのは分かっています。
……ですが、次からは気をつけなさいね」
ヒトシはシルを安心させるように微笑み、傷薬を塗って包帯を巻いた。
しかし、その傷は数日経っても治らなかった。
神官庁の医務室で高価な神霊薬を塗ってもらい、医師の手当ても受けた。それでも傷口は塞がらず、わずかな出血が続いていた。
通常の傷とは違う。
そう判断したヒトシは、経過を注意深く観察することにした。
それから数日後の夜。自室で書類を整理していたヒトシは、右腕に不思議な熱を感じ、手を止めた。
痛みが強まり、傷が疼いている。
ヒトシは慎重に包帯を解き、傷口を確かめた。
「……っ! これは……!?」
シルの牙が残した傷口から、血ではなく、白い光が漏れ出していた。
足元の影から飛び出してきたシルも、主の異変を察したのか、心配そうに鼻先を押し付けてくる。
ヒトシはシルの頭を撫でながら、かつて師であるプロメテウスから告げられた言葉を思い出していた。
『ヒトシ。もしも将来……おまえの肉体に、自分では対処できない変調が訪れたなら、迷わず私の元へ帰りなさい。その時、お前に伝えることがある』
神霊薬も効かない傷。
そこから漏れ出す、血とは異なる光。
ヒトシは、自分の肉体で何かが起きていることを認めざるを得なかった。しかし、その原因までは分からない。
「プロメテウス様……」
ヒトシは静かに立ち上がった。
確かめなければならない。自分の身に何が起きているのか。
そして、師があの時、何を伝えようとしていたのか。
ヒトシは深く静かな眼差しで夜空を見上げた。
根の国・黄泉津宮殿
その頃、根の国は未曾有の大騒動に包まれていた。
「大変だ! 高天原から……アマテラス大神様が御幸されるぞ!」
「いいから掃き清めろ! 黄泉の御馳走と酒を並べろ! 一塵の埃も残すなーっ!」
鬼たちや地の神たちの悲鳴が響く宮殿に、眩い黄金の光とともに、狩衣をまとったアマテラスの一行が舞い降りた。
お供には、笑顔のアメノウズメと清廉な式神たちが従っている。
「スサノオ。お久しぶりですね」
「ちっ……姉上は相変わらず人騒がせだな……」
苦笑しながら迎えたのは、根の国の主・素戔嗚命だった。
久しぶりに姉を迎えたスサノオは、慌ただしく歓迎の準備を進める側近たちを横目に、アマテラスを奥座敷へと案内した。
二人は随行者たちから離れ、静かに座を構えた。
アマテラスは深く頭を下げた。
「まずは……スサノオ。前回の事件の際、暴挙に走らず思いとどまってくれたこと、心から感謝します」
「よしてくれよ、姉上。俺はただ……あの男に説教されて、毒気を抜かれただけだ」
スサノオは豪快に笑った。
「しかし、わが連合艦隊の実力を世界中に知らしめる良い機会を逃したのは残念だ」
「まだ、そのような子供のようなことを言うのね。あなたは変わりませんね」
スサノオは頭を掻いた。
「姉上、いつまで経っても俺は子供のままだ」
二人はしばらく、昔話に花を咲かせた。
やがてアマテラスは、微笑みを浮かべたまま身を乗り出した。その瞳には、隠しきれない探求心が宿っていた。
「……スサノオ。武神であり、神々の気配や波動に最も鋭いあなたが、あの男と直接対峙した時、一体どう感じました?」
スサノオの顔から笑みが消え、鋭い武神の眼差しへと変わった。
「……正直に言うぜ。あの時、俺の凄まじい神威があいつの前に届いた瞬間……まるで大海原に一滴の雫が落ちるみたいに、すうっと消えてしまったんだ」
「神威の消滅……!?」
「ああ。あいつは神力なんて使っちゃいねえ。
なのに、俺の威圧を包み込んで消しちまった。……あいつの眼光の奥には、俺たち高天原やギリシャのどんな大主神よりも古い……『世界の原初の波動』が眠っていた」
スサノオは、しばし言葉を切った。
「それに、フェンリルがあの男を襲った時、俺の体が自然に動いたんだ。こいつを守らねば、と……」
アマテラスの胸が高鳴った。
(やはり……あの異質な佇まいは、プロメテウス様の指導だけでは説明できない……)
スサノオの証言は、彼女が抱いていた疑念を、確信へと近づけるものだった。
だが、その正体を明らかにするには、まだ確かめるべきことがある。
アマテラスが思案に沈んでいると、スサノオがポンと手を叩いた。
「よし! 硬い話はここまでだ、姉上! せっかく根の国までおいでくださったんだ。今夜は大いに飲んで笑おうじゃねえか!」
スサノオの合図で大広間の扉が開かれ、待機していたアメノウズメと楽隊の鬼たちが、賑やかなお囃子を鳴らし始めた。
笹の葉を手にしたアメノウズメが軽やかに跳ね、伝説の神楽舞を披露する。
高天原の侍従も根の国の小鬼たちも垣根を越えて手を叩き、大歓声が湧き上がった。
最後にはスサノオ自身も太刀を手に雄叫びを上げ、剣舞を披露した。
アマテラスも風鈴のような笑い声を響かせ、宴を楽しんだ。
夜が更けていく。
根の国の冷たい闇は、二柱の放つ温かな光と笑顔に包まれていた。
こうして、高天原の太陽と根の国の武神は、深く旧交を温めた。
そしてアマテラスは、明日訪ねるべきプロメテウス最高顧問のもとへと思いを馳せた。
(第二話 完)




