第三話 隠棲の村と、父神への示唆
遠い彼の地・プロメテウスが隠棲する静かな村(夕刻)
神界の喧騒から遠く離れた、豊かな緑と穏やかな風に包まれた素朴な村。
ここでは、かつて人間に火と知恵を与えた智神プロメテウスが、一人の老賢者として村人たちに新しい農業や医療の術を教えながら、穏やかな日々を送っていた。
村の一角に、小麦の香ばしさと焼き菓子の甘い匂いが漂う一軒の店があった。
ヒトシの養父母である中村篤夫妻と、義妹アンナが営む『パティスリー&ベーカリー 中村』である。
「あらまあ! ヒトシかい!?」
「兄さん! おかえりなさい!」
店先に立ったヒトシを迎えたのは、エプロン姿の養母アキと、奥から嬉しそうに出てきた養父アツシ、そしてパンを捏ねていた義妹アンナだった。
「父さん、母さん。……急に帰ってきてすみません。身体の調子を診てもらうために、プロメテウス様のところへ行くことになりました」
「アンナ、美味しそうな匂いだね」
「ヒトシ、相変わらず忙しいようだね……。まあまあ、まずは焼き立てのクロワッサンと温かい紅茶をおあがりなさい!」
養父母や義妹の変わらない温もりと笑顔に、ヒトシの張り詰めていた心がふっとほぐれた。
その足元から、影に潜んでいた神狼シルヴィアが、すうっと顔を出した。焼き立てのパンの香りに、しきりに鼻を鳴らしている。
「じゃあ、ご馳走になります。シル、出ておいで!」
ヒトシとシルは、店の奥にある来客用のテーブルについた。
久しぶりの家族団欒。ヒトシは、しばし穏やかなひとときを満喫した。
数時間後、家族に挨拶を済ませたヒトシは、村の外れにあるプロメテウスの質素な庵へと足を運んだ。
プロメテウスの庵
草花が咲き誇る庭で、村の病人に薬草を処方していたプロメテウスは、ヒトシの姿を見ると優しく目を細めた。
「来たね、ヒトシ。……中村さんの家のみんなには会えたかい?」
「はい。相変わらず元気にパティスリーとパン屋を営んでおりました。妹の腕も上がっていました。どうぞ、彼女が焼いたクロワッサンと葡萄食パンです」
「アンナさんも、もう一人前だね。ありがたく頂くよ」
プロメテウスはパンの入った袋を受け取り、ヒトシを庵の奥の小部屋へと案内した。
「……プロメテウス様。お約束どおり参りました」
ヒトシは来訪の目的を告げ、静かに一礼すると右腕の包帯を解いた。
傷口から、血ではなく白い光が漏れ出していた。
夕闇に沈みかけた小部屋が、静かな光に照らされる。
「神狼の牙の傷か……。驚くことはないよ、ヒトシ」
プロメテウスはヒトシの肩に優しく手を置いた。
「これは病でも呪いでもない。神狼の牙がきっかけとなり、これまでおまえを守ってきた人間の肉体が、限界を迎えつつあるのだ」
「私の肉体が……限界を?」
ヒトシは傷口に目を落とした。
「おまえの内に眠る魂魄に対して、人間の肉体はあまりにも脆い。今まで、よく持ったものだ」
プロメテウスは、静かにヒトシを見つめた。
「……おまえには、新しい肉体を用意してあるよ」
その言葉の意味を問いただそうとした、その時だった。
「……ここが、プロメテウス様の御隠棲の地。そして、ナカムラ審問官の故郷なのですね」
鈴の音を思わせる静かな声とともに、黄金の光が庵の庭から小部屋へと差し込んだ。
光が収束すると、狩衣姿のアマテラスが姿を現した。
神官庁最高評議会の議長である彼女は、ヒトシの素性を知る手がかりを求め、その師であるプロメテウスのもとを訪れたのだ。
「アマテラス様……! なぜ、このようなところに……!?」
ヒトシが驚きの声を上げる。
アマテラスは二人に歩み寄り、ヒトシの傷口から漏れる白い光を見つめた。
その瞬間、胸の奥がかすかにざわめいた。
(この波動……。スサノオが語っていたものと同じ……。そして、以前から私が感じていた、懐かしくも恐ろしい気配……)
アマテラスはプロメテウスの前に立ち、至高神としての礼を尽くして深く頭を下げた。
「プロメテウス様。私は根の国でスサノオと会い、弟がナカムラ・ヒトシ審問官と対峙した際に感じた、神威を包み込む不思議な力について証言を得てまいりました」
一度言葉を切り、彼女はヒトシへと視線を向けた。
「……お願いです。この方の内に眠る『真の出自』について、何かご存じでしたらお教えください」
プロメテウスは、アマテラスにかたわらの椅子を勧めた。
そして静かに頷き、二人を交互に見つめた。
「アマテラス議長。そしてヒトシ。
……私がここですべてを語ることは難しい」
アマテラスは椅子に腰を下ろし、ヒトシとともにプロメテウスの話を待った。
プロメテウスは二人のために茶を淹れた。
最後に自分の茶を一口飲み、心を静めるようにして語り始めた。
「では、私とヒトシの出会いから話そう。これは、ヒトシも知っていることだ」
プロメテウスは、遠い過去を振り返った。
「ヒトシは、ある海辺に葦の船に乗せられて流れ着いた。白い産衣に包まれたその赤子は、見るも無惨な姿だった。だが、生きていた」
ヒトシは黙って師の話に耳を傾けた。
「言葉こそ発しなかったが、私の頭の中に赤子の声が響いたのだ。
私はその子を産衣ごと抱きかかえ、我が工房に連れて帰った。
そこで私は、その赤子の体内から魂魄を取り出し、私がこしらえた人間の赤子の肉体に移し替えた」
「……魂魄を、別の肉体に?」
ヒトシは、わずかに眉を寄せた。
自分が養父母のもとへ来るまでの経緯は知っていた。
しかし、その過程に何があったのか、詳しく聞くのは初めてだった。
プロメテウスは頷いた。
「移された魂魄は、新しい肉体になじまず、激しく抵抗した。
私は術式を用いてそれを抑え、時間をかけて肉体に適応させた。
やがて魂魄は落ち着き、普通の赤子と変わらぬ姿になった。
その後、子供のいない中村篤夫妻に預け、彼らの養子となったのだ」
プロメテウスは、そこで一度言葉を切り、アマテラスを見つめた。
「アマテラスよ。この話を聞いて、何を思う?」
アマテラスはしばし沈黙した。
やがて、彼女の脳裏に古い伝承が浮かび上がった。海へ流された赤子。葦の舟。
そして、神々の歴史に刻まれた、ある特別な出生の物語。
「……プロメテウス様。もし、ヒトシさんがあの伝承に記されたお方なら、私たちが知る歴史と食い違います。
この地にいるはずがありません」
プロメテウスは、もう一口茶を飲んだ。
「話には続きがある。私は魂魄を取り出した赤子を産衣に包み直し、葦舟に乗せて海へ流したのだ」
ヒトシは息を呑んだ。
「なぜ……その赤子を、もう一度海へ?」
プロメテウスは、すぐには答えなかった。
「その理由も含め、今ここですべてを語ることはできない。
だが、確かめるべきことがある」
彼は静かに立ち上がり、遥かなる空の向こうを指し示した。
「ヒトシ。そしてアマテラス。おまえたちの血脈の根源を確かめなさい。
高天原の始まりを知り、今は神界の表舞台を去って隠棲されているお方――貴方の父神、イザナギのもとへ赴くのだ」
「父上のもとへ……!?」
アマテラスが目を見開いた。
「そうだ。私にも、まだ確かめられていないことがある。
だが、そこに真相へつながる手がかりがあるはずだ」
プロメテウスの厳かな言葉に、ヒトシは自らの光る腕を見つめた。
自分は何者なのか。
なぜ、今になって肉体が限界を迎えたのか。
そして、プロメテウスが語らなかった過去には、何が隠されているのか。
ヒトシは静かに、だが恭しく頷いた。
「分かりました、プロメテウス様。
……私は自らの命と、公務員としての責任にかけて、自分の出自を確かめてまいります」
アマテラスも深く意を決し、ヒトシの隣に並び立った。
「私もご一緒いたします、ナカムラ審問官。……父上のもとへ参りましょう」
プロメテウスは二人を見つめ、静かに告げた。
「ヒトシ、今のおまえの肉体はもう限界だ。
旅立つ前に、新しい肉体を与えよう」
そしてアマテラスに向き直った。
「アマテラス、すまないが、旅立ちは明日にしてくれ」
「承知しました、プロメテウス様」
そう答えたアマテラスの眼差しには、決意と、まだ答えの出ない疑念が宿っていた。
プロメテウスはヒトシを伴い、庵の奥へと姿を消した。
智神の導きを受けたナカムラ・ヒトシとアマテラスは、万物の原点へとつながる謎を追い、父神イザナギの隠棲地へ向かうことになる。
その旅路の先に何が待つのか――まだ、誰にも分からなかった。
(第三話 完)




