第六話 素戔嗚、謀反?!
北欧神界アスガルド・ヴァルハラ宮殿
幾重ものルーン文字が浮遊し、極光が天を彩るアスガルドの最奥。
玉座に鎮座するのは、右目に眼帯を着け、二羽のワタリガラスを肩に止まらせた北欧最高神――全知全能の主神オーディンである。
その静寂を破り、空間の隙間から滑り込むように現れたのは、第二の審問官に任命されたばかりのロキであった。
「……戻ったか、ロキ」
オーディンが重厚な声を響かせる。
「最高評議会の決議はどうなった? アスガルド軍の出撃承認と、スサノオ討伐の裁可は得られたのだろうな」
ロキは静かに歩み寄り、優雅にお辞儀をすると、冷ややかな笑みを浮かべた。
「残念ながら、義兄上。出兵案は否決されました。そして、大主神たちが行使した拒否権(Veto)も、神律裁判所の即時裁定によって無効とされました」
「なに……!? 拒否権が無効だと!?」
オーディンの片目が鋭く見開かれ、肩のワタリガラスが騒がしく羽ばたいた。
「バアルやマモンどもは何をしている! アマテラスとアテナを抑え込めなかったというのか!?」
「彼らはすでに次の策を考えているでしょう。法理の前に膝を突き、屈辱を次の糧にする。そういう連中です。
つまり、彼らは北欧神界アスガルドを見捨てたのですよ」
ロキは冷徹な現実だけを突きつけた。
「スサノオ殿の謀反を裏づける映像には、改竄の痕跡が確認されています。フェンリルによる襲撃にも不審な点があり、いずれも捜査の対象です。現時点で、開戦を正当化できる根拠はありません。
これ以上、戦闘態勢を維持すれば、神官庁のみならず全神界を敵に回すことになる。……直ちにアスガルド軍の撤兵を命じてください、義兄上」
オーディンは眼帯の奥で悔しさを滾らせた。しかし、ロキの澄み切ったサファイアの瞳を見つめ、深い溜息とともに肩を落とした。
「……分かった。全軍を引き揚げさせよう」
「賢明なご判断です」
ロキは一礼してから、何気ない口調で付け加えた。
「ああ、それから私は、独立した捜査・審問権を持つ『審問官』に任命されました。第二の審問官、ということになりますね」
「……フン。お前だけは『フリーライダー(ただ乗り)』か」
オーディンは片目を細めた。
「お前、はじめからこうなることを見越して動いていたな?」
「まさか。私はただ、北欧神族の威信と……我が義兄上の尊厳を守るため、最善の職務を果たしているに過ぎませんよ」
ロキは優雅に一礼すると、漆黒のマントを翻し、アスガルドの空間から姿を消した。
神官庁・長官室
最高評議会の喧騒が収まり、静けさを取り戻した長官室。
執務机にはアテナ長官が腰掛け、その傍らには秘書官のニケ、そしてナカムラ・ヒトシが控えていた。
そこへ、空間を歪めてロキが颯爽と姿を現した。
「神官庁長官・アテナ閣下。ただいまアスガルドより帰還いたしました。北欧軍の全軍撤兵と進軍停止を確認しております」
「あら……手際が良いことですわね、ロキ審問官」
ニケは報告書を受け取りながら、相変わらず目が一ミリも笑っていない完璧な微笑みを浮かべた。
「義兄であるオーディン様を相手に、実にお見事な説得手際ですこと」
「当然の職務を果たしたまでですよ、ニケ課長」
ロキは不敵に微笑み、アテナ長官を見据えた。
「アテナ長官、本件の真相についてご報告いたします。
スサノオ殿を陥れる偽造映像の作成、ならびに不当な出兵要求を裏で画策した黒幕は、我が義兄、主神オーディンの単独行動であったと断定いたします。バアルら四大主神は、彼に踊らされていたに過ぎません」
オーディン一人に責任を被せ、四大主神に恩を売る。そして自らは新体制の審問官として、確固たる地位を築く。
ロキにとっては、申し分のない筋書きだった。
だが、アテナの隣に立つニケが、静かに一歩前へ出た。
「……見事なご報告でしたわ、ロキ審問官。ですが、大変残念なお知らせがございます」
ニケは薄型端末を取り出し、ホログラム画面を空間へ投射した。そこには、幾重もの神威波長データが鮮明に浮かび上がっていた。
「根の国でナカムラ特別査察官を襲撃した神狼フェンリル。そして、スサノオ様の挙兵を示す偽造映像。
これらの術式構成を精密解析したところ、オーディン様のものではなく、ロキ審問官、あなた直属のラタトスクが使用した術式の発出コードと完全に一致いたしました」
「……ほう」
ロキの微笑みは崩れなかった。
ニケは画面を切り替え、別のデータを表示した。
「もちろん、発出コードの一致だけで、あなたが指示を出したと断定することはできません。ですが、ラタトスクとの通信記録には、術式の実行を指示する暗号化された命令の痕跡が残っていました」
ヒトシが静かに口を開いた。
「その命令の発信元も、確認できたのですね」
「ええ。発信元の神威波長も、ロキ審問官のものと一致しています」
ニケはロキを真っ直ぐに見据えた。
「これらの記録について、説明していただけますか?」
一瞬、室内に沈黙が落ちた。
逃げ道を探すように、ロキの視線がホログラムを走る。やがて彼は、ふっと肩の力を抜き、優雅に唇をほころばせた。
「……フフ。ハハハハハ! 見事だ。実に素晴らしいよ、ニケ課長。
まさか私の隠蔽術式を解読し、ここまで辿り着くとはね」
「……ロキ。スサノオ討伐の捏造、ならびにナカムラ査察官に対する暗殺未遂。認めるのですね?」
アテナ長官の声は、氷のように冷たかった。
ロキは胸に手を当て、美しく一礼した。
「ええ、認めますとも。敗者に弁明の余地はない」
「ロキ審問官を職務停止とし、身柄を拘束します。衛士、この者を神律裁判所の管理下へ移送しなさい」
アテナは一度言葉を切り、付け加えた。
「審問官としての権限を行使した者の処分については、裁判所の審査を受ける。それが、この制度の原則です。今回の拘束についても、直ちに裁判所へ報告し、審査を求めます」
重厚な鎧をまとった神宮衛士たちが踏み込み、ロキの両腕を拘束した。
引き立てられていくロキは、部屋の外で待機していたヒトシの横を通り過ぎる直前、ふと足を止めた。
「……ナカムラ審問官。最後に君へ、一つだけ託したいものがある」
ロキは拘束された手の隙間から、空間の歪みを通じて一匹の小さな毛玉を取り出し、ヒトシの腕の中へそっと手渡した。
「この子を育ててやってくれ。……ただし、君に懐くかどうかは、君次第だよ」
それだけを言い残すと、ロキは不敵な笑みをたたえたまま、衛士たちに連行されていった。
「ロキ様……?」
ヒトシは腕の中の小さな生き物に目を落とした。
鑑識グラスを取り出し、静かにスキャンする。
表示された解析結果に、ヒトシは目を細めた。
――神狼フェンリルの血統反応と一致。対象は、その仔狼と推定。
「クゥン……」
仔狼が、ヒトシの手の中で小さく鼻を鳴らした。
ヒトシは鑑識グラスを外し、その小さな身体をそっと抱き直した。
「……よろしくね。今日から君も、私の家族だ」
神官庁・極秘会談室
事件の全容が明らかになった数日後。
神官庁長官室の奥に位置する神聖な通信の間で、アテナはホログラム映像として現れた主神オーディンと静かに対峙していた。
「……アテナよ。ワシの撤兵と、全責任を受け入れる意思を正式に伝えよう。
ロキの悪巧みを見通せず、四大主神の甘言に乗って神官庁を混乱させたこと……弁明の余地もない」
画面越しのオーディンは、眼帯の奥の瞳に深い疲労を宿していた。その姿には、落日――ラグナロクの影さえ感じられた。
「オーディン……」
アテナは凛とした佇まいのまま、静かに問いかけた。
「貴方ほどの知恵を持つ神が、なぜバアルやマモンたちのような大主神と手を組み、これほど無謀な戦争を仕掛けようとしたのですか?」
オーディンは寂しげに鼻で笑い、遠い目をして語り始めた。
「……焦っていたのだよ、アテナ。現代の人間界を見ろ。
バアルの極右選民思想、マモンのメガチャーチ、ペルーンの国家侵略……。あ奴らは人間の過激な欲望や政治、資本と結びつき、膨大な信者と神威を誇っておる」
オーディンはアテナを直視した。
「だが……我らはどうだ? 我ら北欧神話の神々も、貴方方オリンポスの神々も、もはや現代において、人々の切実な信仰の対象ではない」
その言葉に、アテナの瞳がわずかに揺れた。
「我らは、同じ運命を背負う神だ。
現代人間界における我らの存在価値は……もはや宗教的な信仰ではなく、『神話』や『文学』、あるいは『歴史の記録やフィクション』の中にしか残されていない。
ワシは、それが恐ろしかった。物語の中に閉じ込められ、いつか忘れ去られていくことがな」
権勢を誇った太古の主神が吐露した、哀愁と孤独。
アテナは静かに目を閉じ、やがて優しく、しかし確固たる誇りを込めて答えた。
「ええ、オーディン。私たちオリンポスも、北欧の神々も、現代では物語や文学の中で生きる存在なのかもしれません」
アテナは真っ直ぐにオーディンを見つめ返した。
「貴方が抱いた、忘れ去られていく恐怖……同じ時代を生きてきた者として、私にも痛いほど分かります。
ですが、人間の流血や差別、欲望を煽って力を得る神々に、何の栄光があるというのでしょう。
信仰という名の恐喝ではなく、美しき神話や文学として、何千年の時を超えて人々の心に愛され続けること。それこそが、我らギリシャや北欧の神々が持つ、最も気高く誇り高い存在価値ではありませんか」
「……!」
オーディンは目を見開いた。
しばしの沈黙の後、彼は深々と笑みを浮かべた。
「……ハハ。完敗だな、アテナ長官。知恵の女神の言葉は、ワシの全知よりも遥かに深く、美しい」
アテナは、その言葉を受け止めるように一度目を伏せた。
それから、長官としての厳粛な声で告げた。
「……ですが、どれほど気高き主神であろうと、侵略を企て、神律を冒そうとした事実は消えません。
神官庁長官として、そして法を預かる者として、私は貴方を特別扱いすることはできません。主神オーディン、貴方の行為は、これより神律裁判所の大法廷で正当に審理されます」
その声には厳しさとともに、オーディンへの深い敬意があった。
オーディンは玉座から立ち上がり、右手を胸に当てた。
「……そうだな。法の下で正しく裁かれ、罪を償うこと。それこそが、我がアスガルドの神々が『誇り高き神話』として人間どもに語り継がれるための、最後の威厳というものだ」
彼は、かつての全能の主神にふさわしい礼を捧げた。
「判決を甘んじて受けよう。……知恵の女神アテナよ。神律の正義と、我らの美しき物語の未来を……お前に託す」
光が静かに収まり、通信が遮断された。
誰もいなくなった神聖なる通信の間で、アテナは胸に込み上げるものを静かに抑え、窓の外に広がる壮大な神界の空をじっと見上げるのだった。
(第五章第六話 完)
【あとがき:神官庁・特別査察部 事件処理報告】
■ 被疑事案
素戔嗚命謀反偽造事件、ならびに神界間の軍事衝突煽動・暗殺未遂事件
■ 主な関係神・処理結果
・素戔嗚命(東洋の武神)
現地鑑識による波長解析の結果、提出された映像・データには高度な偽造術式が用いられていたことを確認。謀反の疑いを裏づける証拠はなく、容疑は晴れた。
・ロキ(北欧の謀略の神)
偽造映像の作成、従者ラタトスクを介した偽情報工作、ならびに神狼フェンリルを用いたナカムラ査察官暗殺未遂の首謀者として摘発。本人の自白と術式・通信記録を確認し、職務停止のうえ身柄を拘束。神律裁判所による審理を待つ。
・四大主神(バアル、マモン、ペルーン、ファナティコス)
拒否権(Veto)の不当な行使により、最高評議会の決定を覆そうとした。神律裁判所による司法審査の結果、拒否権の行使は無効とされた。各神の責任については、別途審査される。
・主神オーディン
全軍の撤兵を完了。ロキの策謀に欺かれたことに加え、自ら戦争に加担しようとした責任を認め、神律裁判所による審理を受け入れる意思を表明。
■ 特命事項・組織改編
神官庁創設根本法第1条第3項に基づき、最高評議会議長アマテラスの「最高独立大権」が発動された。
大主神の拒否権が及ばない、独立した捜査・審問権を持つ特別職「審問官」が新設され、ナカムラ・ヒトシが初代審問官に就任。審問官の権限行使については、神律裁判所が事後審査を行う。
■ 適用法規
・神律第15条(職権乱用・偽造術式による不当威圧の禁止)
・神律第28条(神威不当流用および神界軍事紛争誘発の禁止)
・神官庁創設根本法第1条第3項(最高独立大権および審問官設置規定)
【第五章をお読みいただき、誠にありがとうございました!】
大主神たちの理不尽な拒否権(Veto)に立ち向かった、アテナ長官・マアト裁判長・アマテラス議長らの連携。そして、ナカムラ・ヒトシの鑑識と論理的な捜査によって、スサノオ謀反事件の真相が明らかになりました。
ヒトシは初代審問官に就任し、神官庁の新たな局面へと踏み出します。
次章からは【ヒトシ覚醒編】がスタート!
ロキから託された神狼の仔・シルヴィアとの日々。ヒトシの右腕に現れる不思議な白光。スサノオが口にした「こいつを守らねば」という言葉の真意。そして、プロメテウスの口から語られる「ナカムラ・ヒトシ誕生の真実」と、父神イザナギのもとへの旅立ちが描かれます。
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次章も、どうぞよろしくお願いいたします。




