第五話 ロキの遠謀と、第二の審問官
神官庁・最高評議会 大評議堂
初代審問官ナカムラ・ヒトシの誕生を祝う拍手が、評議堂を包み込んでいた。
その一方で、拒否権を封じられた四柱の大主神たちは、苦々しい表情で沈黙していた。
そのとき——。
パチ……パチ……パチ……。
静まり返った評議堂の物陰から、ゆっくりと優雅な拍手の音が響いた。
影から歩み出たのは、サファイアの瞳を妖しく輝かせる北欧の知恵者——悪戯と謀略の神ロキであった。
「ロ、ロキ……! 貴様、どこに隠れていた!」
バアルが忌々しげに睨みつける。だが、ロキは大主神たちを一瞥することもなく、冷ややかな笑みを浮かべた。
「見苦しいぞ、大主神の方々。
時代の潮流も見抜けず、古臭い拒否権に頼り切った揚げ句、法理の前に完敗するとはね。
……オーディン義兄上も、貴方がたのような落ち目の方々と組んだのは、痛恨の極みであったな」
「なに……!? ロキ、貴様、我らを裏切るつもりか!?」
マモンが怒りに震えて叫ぶ。
ロキはあっさりと背を向け、アマテラス議長、アテナ長官、そしてマアト長官に向かって、深々と恭順の礼を捧げた。
「見事な三権の結集、感服いたしました。アマテラス議長、アテナ長官、そしてマアト長官。神々の腐敗を正し、法と秩序を取り戻すための審問官制度……北欧神族の一員として、心より賛同と支持を表明いたします」
堂々たる主流派への鞍替え。
ロキはゆっくりと顔を上げると、完璧な微笑みをたたえたまま、理路整然と語り始めた。
「……ただし、この画期的な制度を真に強固なものとするため、制度設計上の懸念を二つ、指摘させていただきたい」
評議堂の神々が固唾をのんで見守る中、ロキは人差し指を立てた。
「第一に、審問官の選定と任命権限の所在です。
今回は議長の最高独立大権と裁判所の裁定によってナカムラ殿が任命された。しかし、将来、議長や長官が交代した際、誰が、どのような基準で審問官を選ぶのでしょうか。
権限の所在と選考基準が明確でなければ、特定の派閥による人事の独占や、政治的な偏りを招くおそれがあります」
ロキは続いて二本目の指を立て、ヒトシへ視線を向けた。
「第二に、定数の問題です。
ナカムラ殿がどれほど優秀で高潔な公務員であろうと、神界全体の神律違反を調査する審問官が、わずか一名というのは危うい。病気や不測の事態で彼が職務を遂行できなくなれば、制度そのものが機能不全に陥りかねません。
ゆえに、増員のための枠組みを設け、公正な選考委員会を設置することを提言いたします」
誰も容易には反論できない、筋の通った制度論だった。
(ふふ……どれほど高潔な審問官を作ろうとも、組織である以上、選考と増員の手続きからは逃れられない。選考委員会に手を回し、増員枠に私の配下を送り込むか。あるいは……ナカムラ・ヒトシ、君自身を私の懐に抱き込んでみせようじゃないか)
新体制の正義を讃えながら、その制度に自らの爪を立てようとするロキ。
転んでもただでは起きない男だった。
だが、ロキが満足げに薄く微笑んだそのとき、それまで急な指名に戸惑っていたヒトシが、すっと心を鎮め、前へ歩み出た。
ケースから愛用の鑑識グラスを取り出して装着すると、ロキに向かって丁寧に一礼した。
「……ロキ様のご意見、誠に正鵠を射たものと存じます」
温厚で生真面目なヒトシの声が、評議堂に響いた。
「審問官の増員についても、私としては歓迎いたします。何も聞かされないまま、突然この職に任命されましたが、一人の人間として、その責任の重さを感じております」
ロキが意外そうにヒトシを見つめた。
ヒトシは鑑識グラスの奥からロキを見つめ、言葉を続けた。
「任命権限と選考基準については、今後、十分に議論すべきでしょう。今回の任命は、戦争の危機を前にした緊急措置です。恒久的な制度については、改めて公正な手続きを定める必要があります」
ヒトシは一度、アマテラスへ視線を向けた。
「一方、審問官が一人では不十分だというご指摘は、もっともです。幸い、今はアマテラス議長の最高独立大権が発動されています。戦争回避という喫緊の課題に対処するため、もう一名を緊急に任命することは可能ではないでしょうか」
そして、ヒトシはロキへ向き直った。
「そこで私は、ロキ様を二人目の審問官に推薦いたします」
「「「なっ……!?」」」
評議堂が、ひときわ大きなどよめきに包まれた。
バアルたちは口を開けたまま固まり、アテナとニケも思わず息をのんだ。
ロキのサファイアの瞳が、初めて大きく見開かれた。
ヒトシは落ち着いた態度のまま、淡々と言葉を継いだ。
「現在、スサノオ様とオーディン様の双方が軍勢を動かしかねない状況にあります。戦争を回避するには、双方に停戦を求め、武装解除と撤兵に向けた交渉を進めなければなりません」
ヒトシは議場を見渡した。
「スサノオ様との交渉は、私が担当します。これまでの調査で確認した事実と、本評議会の決定をお伝えし、武装解除に応じていただくよう求めます」
続いて、ロキに視線を戻した。
「一方、オーディン様との交渉には、北欧神族の事情と、その威信を誰よりも理解しておられるロキ様が適任でしょう。義弟として、オーディン様に直接、停戦と撤兵を説得していただきたいのです」
ヒトシはアマテラス、アテナ、マアトの三人に深々と一礼した。
「審問官の増員が必要だというロキ様のご意見を踏まえた提案です。議長、長官のお二方、そして議場の皆様のご同意をお願いいたします」
ロキは言葉を失っていた。
自分が持ち出した「増員」の必要性を、ヒトシはそのまま認めた。しかも、北欧神族の事情に通じた者が必要だというなら、ロキ自身が適任である。
断れば、自らの制度論と矛盾する。
引き受ければ、オーディンのもとへ赴き、戦争を回避するために働くことになる。
己が仕掛けた制度論の網に、ロキ自身が絡め取られたのだった。
アテナの唇に、かすかな微笑が浮かんだ。
最高裁判官マアトが天秤を掲げ、重々しく告げた。
「ナカムラ審問官の提案には、合理性があります。緊急措置としての増員であれば、今回の最高独立大権の範囲内で審査することが可能でしょう。アマテラス議長、いかがですか?」
アマテラスは清らかな微笑みを浮かべ、高らかに宣言した。
「動議を承認します。ロキ殿を、二人目の審問官に任命いたします!」
評議堂に、再びどよめきが広がった。
ロキは微笑みを取り戻そうとしたが、その表情には、先ほどまでの余裕がなかった。
ヒトシは一礼した。
「ロキ審問官。オーディン様への交渉を、よろしくお願いいたします」
ロキは、しばらくヒトシを見つめていた。
やがて、唇の端をわずかに吊り上げる。
「……なるほど。君は、なかなか面白い男だな。ナカムラ審問官」
その声には、賞賛とも警戒ともつかない響きがあった。
ヒトシは穏やかに答えた。
「恐縮です。私はただ、戦争を防ぐために必要なことを提案しただけです」
ロキはもう一度、深々と一礼した。
その胸の内で何を考えているのか、ヒトシにはまだ分からない。
だが、ロキがこの任命を素直に受け入れたからといって、彼の遠謀が消え去ったわけではなかった。
次に向かうのは、北欧神族の王オーディンのもと。
そこでロキが何を語り、何を企むのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。
(第五章第五話 完)




