第三話 最高評議会と、拒否権(Veto)の暗雲
神官庁・特別査察部 部長室(深夜)
根の堅洲国から帰還したナカムラ・ヒトシは、特別査察部の部長室にいた。
執務机の向こうでは、神官庁長官と特別査察部部長を兼務するアテナが、ヒトシの報告書に目を通している。その傍らには、秘書官のニケが控えていた。
「……無事のご帰還、何よりでしたわ。ナカムラ特別査察官」
漆黒のスーツを纏ったニケが、湯気の立つハーブティーをヒトシの前に差し出した。
「ありがとうございます。ニケ課長」
ヒトシは一礼し、愛用の鑑識グラスに指を添えた。ゴールドフレームの二重ブリッジが、室内の照明を受けて光る。
「スサノオ様の嫌疑について、ご説明いたします」
ティアドロップレンズから光が放たれ、空間に幾重ものホログラム映像が浮かび上がった。
映し出されたのは、スサノオが点検していた農耕・防犯用神具の神威波動データ。そして、定期的な神兵の閲兵の様子だった。
「謀反の証拠とされた映像とデータには、何者かによる改竄の痕跡が認められます。現地で確認した実際の状況とも一致しません」
「……これで、スサノオ様の謀反が濡れ衣である可能性は、かなり高くなったということですわね」
ニケが安堵の息をついた。
だが、アテナの表情は変わらなかった。
「安心するのは早いわ、ニケ。敵の狙いは、証拠が検証される前に政治的な既成事実を作ることよ」
「アテナ長官、もう一つ問題があります」
ヒトシが別の映像を呼び出した。
スサノオの軍船が岬に並ぶ光景。その直後、空間を裂いて襲いかかってきた神狼フェンリルの姿が、部屋いっぱいに広がった。
アテナの目が細くなる。
「スサノオ様は、オーディンの侵攻に備えて軍船を待機させている。
そして、あなたを襲ったフェンリル……。誰が差し向けたのか、まだ分からない」
「はい。襲撃の事実は確認できましたが、命令した者を特定するには、さらに調査が必要です」
アテナは立ち上がった。
「その時間を、敵は与えてくれそうにないわ」
「と、申しますと?」
ニケが尋ねた。
「保守派の大主神たちが、緊急最高評議会を招集した。
オーディンの出撃を承認させ、同時にアマテラス様の監督責任を追及するつもりよ。スサノオ様の姉である議長が、謀反を防げなかったという理由でね」
「まだ謀反そのものが立証されていないのに、ですか」
「政治の世界では、疑惑が事実として扱われるまでに、証拠など必要ない場合があるのよ」
アテナの声には、冷たい怒りがこもっていた。
「ええ。現代人間界で猛威を振るう四大主神
――バアル、マモン、ペルーン、ファナティコス。彼らの背後にあるのは、選民思想、信仰と利益の結合、宗教による侵略の正当化、そして暴力を聖戦と呼び替える狂信……」
ニケが唇を引き結んだ。
「神の名を掲げれば、何をしても許されるとでも思っているのでしょうか」
「彼らは、自分たちこそ正義だと信じている。だから厄介なのよ」
アテナはヒトシを見た。
「行きましょう。評議会で何が起きるか、見届けなければ」
ヒトシは鑑識グラスを外し、ケースに収めた。
「承知しました」
三人は部屋を後にした。
神官庁・最高評議会 大評議堂
白磁の巨柱が立ち並ぶ大評議堂。
神界の命運を左右する神々が、次々と議場に集まっていた。
最高幹部席には、オリンポス神族のゼウス、海神ポセイドン、冥府神ハデス。
そして神界最高司法機関の長、神律裁判所長官マアトが重々しく腰掛けている。
兄弟神たちの間には、互いの出方をうかがう緊張が漂っていた。
その視線の先で、四柱の大主神が立ち上がった。
「アマテラス議長! 東洋の荒神スサノオが兵を集めているのは明白だ! アスガルドの武力で粉砕し、反逆の芽を摘むべきである!」
青銅の大鎌を掲げたバアルが、議場に怒声を響かせた。
「神の祝福は、我らを信じる者にこそ与えられる! 敵を殲滅せよ!」
金色のコインと十字架を象徴に掲げるマモンが、聴衆を煽る。
漆黒の鎧を纏ったスラヴの軍神ペルーンも、一歩前へ出た。
「聖なる領土の回復と伝統的秩序のため、武力行使を正当化する!」
異形の仮面を被ったファナティコスが、不吉な炎を撒き散らす。
「聖戦だ! スサノオに血の惨劇を!」
そのとき、最高幹部席から怒声が飛んだ。
「――黙れぃッ! 己の野望と狂信のために神格を汚す者どもめ、笑止千万!」
義の神、関帝こと関羽である。
美髯を揺らし、青龍偃月刀の柄を床に叩きつけた。
「拙者は先日、ナカムラ査察官の行政指導を受け、己の怠慢を深く恥じた身! あの男が集めた証拠を検証もせず、疑惑だけで戦を始めるなど、神としての信義にもとる暴挙である!」
玉皇大帝と媽祖も、関羽の隣で頷いた。
続いて、狩猟の女神アルテミスが立ち上がった。
「我が父ゼウスをはじめ、オリンポスも根の堅洲国への拙速な侵攻には反対です。アテナ姉様と特別査察部の調査結果を待つ。それが筋というものでしょう」
蓮華の座から、地蔵菩薩が静かに立ち上がった。
「信者を煽り、己の権勢を誇示する。その心にあるのは慈悲ではなく、執着です。民を流血の惨劇へ投げ込む決議に、仏として賛同することはできません」
その隣で、聖フランチェスコが穏やかに語った。
「神の栄光は、排除と戦争ではなく、平和と調和の中にあります。憎悪を植え付ける剣に、天の祝福が与えられることはありません」
議場が静まった。
やがて、最も高き特別席から、圧倒的な威厳を帯びた声が響いた。
神々と人間に火を与えた太古の巨神、プロメテウスである。
「四大主神よ。神官庁の根本法理を忘れたか」
その眼差しが、四柱を射抜いた。
「神は人間の平和と繁栄のために存在する。私利私欲のために人間界の対立を煽り、神々の間に戦を招く者に、神を統べる資格などない」
プロメテウスは、議長席のアマテラスへ視線を移した。
「本出兵案は否決されるべきだ」
アマテラスが静かに立ち上がった。
「出兵案について採決を行います」
投票が始まった。
次々と票が集計される。
開戦反対――圧倒的多数。
「採決の結果、出兵案は過半数の反対により否決されました」
アマテラスの宣告が、広い議場に響いた。
一瞬、沈黙が落ちた。
だが、次の瞬間。
「ハハハハ……!」
四大主神が、そろって高笑いを始めた。
「愚かな神々どもめ! 多数決で我らを退けたつもりか!」
バアルが黄金の大鎌を床に叩きつけた。
「神官庁最高特権法第1条! 我ら常任大主神の権限――拒否権(Veto)を行使する!」
ゴオオオオッ!
大評議堂を暗雲が覆った。
アマテラスが宣告した否決裁定が、黒い光に呑み込まれていく。投票結果を示していた光の文字が、ひとつ、またひとつと消えていった。
「な……何だと!?」
関羽が声を荒らげる。
「否決された議案を、覆すというのか!」
バアルは答える代わりに、黄金の大鎌を高く掲げた。
「拒否権は、議長の裁定を覆す! 出兵案は可決されたも同然だ!」
マモンが笑い声を重ねる。
「これでスサノオを討伐できる! アマテラス、お前も監督責任を問われ、議長の座から失脚するのだ!」
アルテミスが息を呑んだ。
地蔵菩薩は眉をひそめ、聖フランチェスコは目を伏せた。
最高幹部席では、ゼウスが険しい顔で立ち上がりかけ、ポセイドンがその腕を押さえた。
プロメテウスは、動かなかった。
ただ、四大主神を見つめていた。
アマテラスの手が、議長席の肘掛けを強く握る。
先ほどまで大評議堂を満たしていた反対票の光は、もうどこにもなかった。
四大主神の笑い声だけが、広い議場に響き続けていた。
(第五章第三話 完)




